近江・能登川近郊 2019.11.24 |
愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。(箴言12:13)
朝7時半ごろ、家族の愛用しているLINEに、米原駅を出発した旨、書き込んだ。午後4時過ぎ、大宮駅から荷物があるので家人に迎えに来てもらうために携帯に電話した。残念ながら通じなかった。この時点で私のiPhoneは電池切れ寸前であった。
結局連絡できないまま、駅から自宅まで歩いて帰った。もともと出発の時点で歩いて出かけているのだから何ら不都合なことはない。ところが、玄関先は暗く、鍵がかかっていた。常時外出時には合鍵を持って出ることにしている。ところがその日に限って三日前の早朝出発時に急いでいたためもあり、不覚にも合鍵不持参であった。
家の前でうろうろ歩くか、腰を据えて待つことにするか。二つに一つだ。確かにそのどちらも試みてみた。しかし、五分待てども帰って来ない。夕食のために買い物に出掛けたのだ。それなら、荷物はひとまず玄関先に置いて、そちらの方へと歩を進めた。もちろん歩を進めるという気楽なものではない。すでに長時間列車の旅で疲れ切っている身にとってはかなり応える歩行業となった。
ところが、いつも今頃行くであろうと思う二軒のお店に行っても見つからなかった。この時点で、多分擦れ違いになったのだと悟り公衆電話を使って家に電話をしたが、空しく発信音が繰り返されるだけであった。
そうこうしているうちに3、40分経ったであろうか。このごろのこととて日没も早く、その上、ぽつりぽつり雨が落ちて来た。さてどうしたものかと戻って来た玄関先で再び思案した。その内、天啓のごとく閃いた思いが浮かび上がった。そうだ、家内は私の荷物が重いのを気にしていたから、駅へ迎えついでにそちらのお店二軒に買い物に行き、駅前で待つつもりだという考えだった。
それは申し訳ないと、再び雨中を顧みず、雨傘を持ってもう一度駅まで戻った。暗闇の中、健気に主人の帰りを待っている家内を想像しながら、道を急いだ。ところが残念ながらそこにもいなかった。これは完全な擦れ違いに違いない。そうは思っても携帯が使えないのは何といっても歯痒かった。再び駅前の公衆電話から家に電話したが、相変わらず通じなかった。
様々な努力をしたが結局二時間弱、外をほっつき歩きまわっている野良犬同然の思いだった。六時過ぎ家に戻ったら、明かりがついており、もちろん鍵は開いていた。やっと家に入れた。あとがいけなかった。家内が家にいなかったのは私が想像していたいずれでもなかった。
振り返ってみれば今日11月29日は父が1981年に召された日だ。あの日こそとんでもない擦れ違いだった。
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