2022年1月31日月曜日

工場に、野良に、船の中に

イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。(マルコ2・13)

 イエスは教えたいお方である。罪に堕落した人を救う方法はこれに道を教えることにあるのみである。だから『会堂にはいって教えられ』(1・21)『家におられ・・・みことばを話し』(2・1)今また『湖のほとりに出て・・・教えられた。』のである。

 人間が最高の動物であり得る所以(ゆえん)は教えられ得る動物であるからであろう。獅子も虎もあの立派な体軀(たいく)を持ちながら人間に遠く及ばないのは教えられる能力がはるかに人間に及ばないからではないか。

 孔子の如き人は『三人行けば必ず我が師あり』と言ったほどによく教えられる人であった。他の人を見て教えられ、またイエスさまから教えられる人が幸いである。学校で研究室で教えられたい人はたくさんあるが、イエスの膝下に坐して教えられたい人の少ないのはどういうわけであろう。『会堂』でなければ学べない教えもあり、また『海辺』でなければならぬ教えもあろう。イエスは随所に私たちを招いて教えてくださる。私たちは従順なイエスの弟子となりたい。

祈祷

主よ、教えられることを好まない私たちをも棄てないでください。かたくなにして自分を高くする私をも忍んでとこしえの教えを私に教えて、私をいのちの道に導いてください。アーメン

(良書にめぐりあった。冒頭の写真はそれを拝借させていただいた。同書は児童書にあらわれている幼いこどもたちの心を解いてやまない。児童書を知らず、読まず、したがってこどもにもそのような環境を与えなかった自分を思って内心忸怩たる思いがした。一方で「みことば よーく 聞いて 素直に 従おう! いつも 主イエスさまと まっすぐ 進もう! 」と、歌っていた元気な子どもたちの歌声が、今も耳に残っている。「救いの道を 良き住まいや 書斎の中に なぜ探すか 工場に 野良に 船の中に 救いの道は 見出される」聖歌320番と山室軍平は歌った。結局、人間の究極の問題はいずこにあろうと主の救い・主の教えをどれだけ真剣に求めるかにあることを教えられた。)

2022年1月30日日曜日

主をほめよ、主をほめよ! 主の御名をほめよ!

すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。(マルコ2・12)

 イエスの言動は常に神の栄光を顕(あら)わすものであった。イエスの奇蹟を見て人々は神をあがめたとは度々記されているが、人々がイエスをあがめたとはどこにも書いていない。もちろんこれはユダヤ人が神をあがめるように習慣づけられていたには違いないが、イエスご自身の態度にご自分をあがめるように人の心をそそる何物もなかったからであろう。

 人々はイエスの大いなる働きを見ると神を思わずにはおられなかった。イエスの人格はまったく無私透明であった。『わたしを見た者は、父を見たのです。』(ヨハネ14・9)とはイエスの高ぶりでなくして、イエスの透明である。

 私どもは少しばかりの仕事をしても直ちに自己が大きくのさばり出て『私を見てくれ』と叫ぶ。イエスが何かなさった時には人々はおのずからイエスを見ずして神を見なければおられなかった。イエスの自己は影も形も消えて、神の御光栄のみが燦(さん)として輝いてくる。あたかも雲なき空には太陽がまばゆく輝くようなものである。私どもの心からも自己をあがめたい気分がまったく取り去られなければ本当に神をあがめることはできない。

祈祷

神よ、むら雲の月の姿をかくすように、私たちの自己崇拝はあなたの光をさえぎり、あなたの輝きをかくします。そうなれば私たちは日々暗闇の中をさまようばかりです。願わくは、私たちの存在、私たちの言動があなたをあがめるものとなしていただけますように。アーメン

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』45頁)

 主は彼を幸せと喜びに満ちた群衆の中に送り出される。人々は直ちにその男のために道をあけ、親しい友と喜びを分け合うために家路に向かう彼に、驚きとおそれのまなざしを向けたのであった。

 どうか私たちもまた、かの日のカペナウムの人々のように、他の誰もなしえぬことを成し遂げられたかた、すなわち、私たちを恥と咎から、罪の囚われとその力から、またその呪いと刑罰から取り出したもうかたの、驚くべき力を明らかに認めることができるように!そして、言い尽くせない彼の賜物ゆえに、神に、栄光を帰することができますように!

2022年1月29日土曜日

キリストの権威

冬鴨を 数え上げての 散歩道※
中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」・・・(マルコ2・9〜10)

 理屈ではない、権威である。イエスを信ずる理由はことわざに言う『論より証拠』である。キリストの権威を実際において自分の身に体験するのである。

 罪の赦された事実が、病を癒された事実によって証拠だてられ、罪の赦しと病の癒しとによってイエスが神である権威が実証されたのである。

 イエスの奇蹟によってイエスが神であることを証明するのはあながち旧式な弁証論だと言うことはできない。イエスは今日でも私たちの生活の中に宿って、その権威を事実の上にあらわされる。

祈祷

神よ、私たちは科学と法則との名によってあなたを除外した地に住むことはできません。願わくは、あなたがその権威によって自由に働かれる世界に私を住まわせてください。アーメン 

クレッツマンによる黙想(『聖書の黙想』44頁)

 イエスは、罪ある良心の重荷からは、今はもう解き放されているこのあわれな男に身を向けられ、短いが力ある言葉をかけられた。『起きて、寝床をたたんで歩け。』

 人々は、主が罪を赦す力があることを信じただろうか。学者たちは多分信じなかっただろう。なぜなら、見ようとしない者は、盲目同然だったからである。しかし、あの日に、またこの時代に至るまで、多くの者が、ここには罪を赦したもうかたがおられるのだとの確信の中に、尽きない慰めを見出して来ているのだ。

(※鴨をふくめ自然界、全被造物は主の権威に服している。などて人のみがそれを認めないのか。)

2022年1月28日金曜日

敵は「高ぶり」

律法学者たちが数人・・・心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ・・」イエスはすぐにご自分の霊で見抜いてこう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか・・・」(マルコ2・6〜8)

 あながちこれらの学者たちを悪く思わないでもよい。彼らはイエスの名声に対して幾分の嫉妬は抱いていたかも知れないがまだ敵視するまでには至っていない。むしろ公平にこの新進の若いラビを観察するつもりであったのであろう。

 彼らの論理には誤りがない。ただイエスが神であることを知り得なかったのである。だからイエスも彼らを譴責(けんせき)されないで、ご自身の真相を見せて、彼らの蒙(もう)を啓(ひら)く方法を取られたのは正直な懐疑者に対して同情あるなされ方であった。

 しかし、これでも信じなかったゆえに彼らは次第にイエスの敵となるに至ったのである。少しの学問を恃(たの)んで謙遜になり得なかった一歩の誤りがついに千里の差を生じてイエスを十字架につけるに至った。高慢ほど人を盲目にするものはない。

祈祷

心の中の一点一画をも見通しなさる主よ、願わくは私の心の中に潜んでいる敵を掃討してください。正義公平の美名に隠れている私の高ぶりを打ち砕いてください。アーメン

以下は、クレッツマン『聖書の黙想』44頁より引用

 しかし、そこには、このキリストの言葉だけでは、穏やかでない他の人々がいた。キリストのあとをつけていた学者たちである。彼らは、早くからそこに来ていて、イエスの一挙手一投足を見届け得る場所に座を占めていたが、この主のことばと、振る舞いの中に、悪意のほかは何も見なかった。ここには、とがめだてせずにはすませない何かがあると、彼らは考えた。

 この男は今神をけがす言葉を語っている。神一人のほか、誰が罪を赦すことができようか。その語るところは正しい。神ひとり罪を赦し得る。彼の主張は正しくて、しかも、彼が神かも知れないのだということは、人々には思いも及ばなかったのである。

 主は速やかに、学者たちにまたすべての人々に、そのことを証明したもうた。人々の思うところを読み取られたという事実は、彼が神の力を持ちたもうとの認識を人々に与えたに違いない。けれど、人々は、さらに、目の当たりにそれを見ることになった。

2022年1月27日木曜日

子よ。安心しなさい!

その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。(マルコ2・4〜5)

 万難を排してとは実にこれらの人の信仰である。中風の人は肉体においては自由を失っていたが信仰においては勇敢に行動した。私たちは肉体は自由であるかも知れぬが信仰の動作においてはかえって中風を病んでいないか、どれほど信仰が日々の生活の中に働いているだろうか。心細いものではないか。

 イエスは外見は中風であるが、信仰はたしかな彼を見て直ちに罪の赦しを宣告された。ここにイエスの面目が躍如(やくじょ)としている。 病を癒すのでなく罪より救うのが使命だとするご自覚がハッキリ見える。

 この人は中風を癒されたくて来たのではあるが、中風の根本原因として罪を自覚した。あるいはイエスの聖い人格の前に出たとき病気よりも罪の重さを感じたのかも知れぬ。

祈祷

尊い主よ、私はあなたの前に出るとき、果たしてこの人のようにあなたの聖さに打たれ、自分の罪を認める心があるでしょうか。願わくは、私に『子よ』との声を聞かせ、この中風を癒して下さい。アーメン

クレッツマンの黙想より(『聖書の黙想』43頁)

 ここにあるのは苦しんでいる体ばかりでなく、いためつけられた魂である。天井から救いを願っている男たちの、強いまなざしに目をとめられ、あわれな病人の目にある希望と信仰の輝きを見て取られた主は全身全霊をもって応えられる。

 そして彼のみが語りうる言葉を口にされるのである。「子よ、安心しなさい。あなたの罪は赦されました」。その男が、この言葉を耳にしたとき、希望は失望に終わらなかったことを確信しうる。彼は、彼が必要としている最大のものは過去の罪が赦され忘れられることであり、また、彼の主であり救い主であるこのかたによって、またこのかたの中で、彼が神との平和の中にあることを悟ることであったのだ。たとえ、来た時と同じように、友人によって病床のままで戻ることがあろうとも、そのことをもって彼は満足することができたに違いない。

2022年1月26日水曜日

みことばを話しておられた

 蝋梅の 花ほころびる 春を待つ※

それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。(マルコ2・2)

 イエスを最もよく理解した愛弟子ヨハネが彼を『ことば』と呼んだ(ヨハネ伝1章1節)それほどにイエスは『ことば』の人であった。

 『ことば』に力のある人であった。『ことば』に生命のある人であった。彼の『ことば』は彼の人格の流露であった。『ことば』と共に彼の実質が流れ出て人の肺腑(はいふ)を衝(つ)いた。人を救わないではやむことのないあるものが『みことば』となって迸(ほとばし)り出たのである。

 ルターのことばは半分戦争であったと言われているが、主イエスのみことばは『生きていて、力があり』(ヘブル4・12)であったと思う。だから、そのみことばを聞く者の中から救いを求めて『中風の人が四人の人にかつがれて』(マルコ2・3)やって来たのである。イエスの一言は直ちにこの人を救うことができると信じられたからである。

祈祷

ロゴスである神、私たちの救い主イエスよ、あなたのことばは生きていて力があります。あなたがひとたびお語り下さるならすべてのことは成りますので、あなたの御名を賛美申し上げます。願わくは、みことばの一句を読むときにも、空疎な文字として、これを読むことなく、その一語一語が躍り出て私を救うものであることを信じてみことばに耳を傾けさせて下さい。アーメン

以下の文章はクレッツマンの黙想より引用(『聖書の黙想』42頁)

 多分ペテロの家に戻られた主は、幾日かの静かな日々と、乱されない夜のいこいとを、望んでおられたことと思う。しかし、主が戻られたのを目にした人々は、いちはやく、耳から耳へとそれを伝えたので、彼らのある者は主を見ようとして首を伸ばしながら、また他の者は、主のことばを聞き逃すまいと、耳をそばだてながら、戸口のところでひしめき合った。多くの者は、それでも空しく心を残しながら引き返さねばならなかった。

 そして主は、何をなされたのだろうか。彼らに対して声をはげましてみことばを伝える以外の何かをなさったのだろうか。主はひたすら明白なことばで、しかも生命と力とに満ちた救いのみことばを彼らにもたらせようと心を砕かれたのである。

(※蝋梅について過去に何度か書いている。ほとんどが「義母」への思いだった。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/search?q=%E8%9D%8B%E6%A2%85 それを忘れたわけではない・・・)

2022年1月25日火曜日

「熱狂」と「従順」の違い

そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。・・・ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。(マルコ1・43、45)

 イエスを見ようとする者は多い。イエスに聴こうとする者は少ない。好奇心を満足するために評判の高い人を見ようとする浅はかな群衆に妨げられて寂しい所に留まられたイエスのお心にはより以上の寂しさがあったことと拝察する。

 理解のない群衆の中にあって見当違いの尊敬を受ける寂しさは、荒野の寂しさにまさるものがあったに違いない。祈ろうとされても祈らせないほどに、道を語ろうとなさっても、その機会をさえ与えないほどに、乱雑な群衆が四方から殺到して来たことは、イエスにとって、どれほどの寂しさであったろう。

 『聞く耳のある者は聞きなさい。』(4・9)と仰せになった主は、どんなに本当の主の膝下に座して静かに聴く者を求めておられることであろう。

祈祷

主よ、私が真にあなたを求める者とならせて下さい。あなたの不思議なわざのためではなく、またあなたの驚くべき力のためでもなく、ただあなたの口から発せられるみことばによって生きたいがためにあなたを求める者とならせて下さい。アーメン

再びクレッツマンの黙想より引用(『聖書の黙想』39頁)

 人々はこの奇跡によって熱狂的になってしまった。そこでイエスはしばらくこの群衆を避けねばならなくなった。彼は結局、多くの人々に真理を伝えようとしたので、町からは離れざるをえないようになり、さびしい所にひそかに退かれるのである。

 しかし、そこでも、彼を見つけた人々は、ガリラヤ各地からむらがり集まる。私たちは、イエスと教会に対して、善意の人々が、キリストと彼のみことばを深く理解するために、時間を費やしたり、努力したりせずに、彼ら自身の気持ちのままに行為し、誤った熱心さを示すことにより、かえって他の人々に誤ったキリスト教の見方を与えて、実際には福音を傷つけているのを知っている。

 それゆえに、キリストの一つ一つの命令は守られねばならず、彼のすべての言葉は、慎重に取り扱われねばならない。彼と彼の言葉に逆らって、私たちの人間的な判断を押し出すのは誤りである。どんなにまじめな熱狂も、信仰的な従順を生み出すことは不可能である。

2022年1月24日月曜日

大切なのは霊魂の救い

そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。」(マルコ1・43、44)

 イエスは肉体の病人をもあわれみ給う。けれどもさらに何十倍も霊魂の腐り行くのを悲しみ給う。私たちはこの心が持てない。肉体の病気には苦しむけれども滅び行く自分の霊魂をあわれむことすら知らない。

 イエスはらい病人を癒したことがかえって霊魂を癒すご使命の妨げとならんとするのを見て警戒された。善き医者であることが世の救い主であることの邪魔となってはいけないと考えられた。本末転倒は小事のように見えてついには恐るべき大事となる。信仰においてことに然りである。

 政治問題や社会事業の如きはいかに善いことであっても、キリスト信仰の代用をなさない。また信仰の本筋でもない。あるいは神癒の如きも同じことである。これらはみなキリストの救いが生ずる副産的結果であって、霊魂の救いこそ最も大切なものであることを忘れてはならぬ。

祈祷

主イエスよ、願わくは、私たちをして支流より本流へ立ち戻らせ給え。肉における恵みの大なるがために霊の恵みを忘るることなからせ給え。アーメン

以下は同一聖書箇所のクレッツマンの霊想。(『聖書の黙想』38頁より)

 なぜイエスはその男を去らせながら、この出来事を知らせてはならないと戒められたのだろうか。その答えは多分こうであろう。この癒されたらい病人が罪よりの救い主としてキリストを伝えるためには、イエスについての知識を十分に持っていないことは見えすいている。

 そして彼は、主の癒しの力に重きを置いていたので、それを聞く人々には、名声を望まれないキリストに対する、誤った印象を与えてしまうからである。イエスはむしろ、この男に、祭司の所に行って律法が命じているように捧げ物をしなさいと言われた。

 主は、このことを通して、ますます反感を激しくさせて来ているキリストの敵対者たちに、一人の偉大な預言者が彼らの中にあらわれて立っていることを認めさせ、この真理に立ち向かうことを止めるようにと彼らに警告しようとされたのである。

 私たちは、このらい病人がイエスの言葉にもかかわらず、喜びと心からの感謝のあまり出て行って、この奇跡をすべての者に開かれている可能性として示した気持ちは容易に理解できる。しかし、その直接の結果として、みことばの伝道は、明らかに妨げられてしまったのである。


2022年1月23日日曜日

大きな信仰

さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心 一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。(マルコ1・40〜42)

 私の最も好きな箇所の一つである。昔は中国のなんとか言う将軍が兵卒の化膿した傷口を自分の口で吸うてやった。兵卒はこの将軍のためには生命を惜しまなかったと言う。イエスは爛(ただ)れたらい病人を見て、これに手をつけずにはおられないお方であった。

 私はらい病人と握手するほどの愛がどうしても生じてこない。ただ一度だけ瀕死のらい者の毛の抜けたネバネバした頭に手をつけて祈ったことがある。これは久しい信仰の友であったから思わずそんな気になったのであった。

 イエスは見ず知らずのらい者にも『あわれみ、手を伸ばして、彼にさわ』らずにはおられないお方であるから、私のような罪と汚れのらい者にもキッと、手を伸ばして、さわって下さるに違いない。

祈祷

主イエスよ、今日も私をあわれみ、手を伸ばして私にさわって下さい。私はあなた無くしては自分できよくなることは出来ず、自分を救うことも出来ないからです。主よ、願わくは、先ず私に私がらい病人であることを悟らせてくださり、手を伸ばしてさわり、きよくして下さい。アーメン

以下は同一箇所のクレッツマンの霊解(『聖書の黙想』37〜38頁より引用)である。

 主はこのガリラヤ旅行で一人のらい病人に出会われた。この男は、敢えておそば近くひざまずき、おそれおののきつつ、助けを乞うた。何と大きな信仰が、この彼の言葉にあらわれていることか。「お心 一つで、私はきよくしていただけます」。この男は、主は、自分を助けることのできるかただと、確信していたばかりではなく、主がなし給うことはどんなことでもよいことだと信じていた。たとえ主が、彼に、その忌まわしい病気を持ったままで、墓に行けと言われたとしても、彼はなおもこの主の下にひざまずいて、この主に従ったであろう。この名も知らないガリラヤ人は、わたしたちをはずかしい気持ちにさせる。何とわたしたちは、試みの時に不平を言い、忍耐を持ってイエスを待つことができずに、彼の御心を疑い、彼の助けの力を疑うことだろうか。

 イエスは、この男の信仰を通して深く彼の心に触れられる。神の哀れみは、彼の内から泉となってほとばしる。主は、心動かされつつ、人からは見棄てられながらも、イエスが自分を助けようとし、また助け得る方だと確信しているこの男に触れられる。そしてこれに加える何らの儀式も時の間もなく、この男はまったくいやされたのである。

2022年1月22日土曜日

わたしはそのために出て来た

イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」(マルコ1・38)

 マルコはペテロの親しい者であってマルコ伝はペテロから出たものだとは誰でも知っているところである。されば、この記事はペテロの受けた最初の印象を示すものであろう。

 ペテロのイエスによって受けた最初の印象はイエスの早朝の祈りと伝道の使命感であった。イエスは祈るためと福音を伝えるために『出て来た』お方であるということは、この時から深く胸裏に刻みつけられて一生忘れることが出来なかった。

 されば、使徒行伝6章4節にも彼は『私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします』と決議している。今一つ注意すべきは『出て来た』の語であって、イエスはこの世に生まれる前から存在しておる自覚を持っておられたことを示すものである。ヨハネ伝16章28節にも『わたしは父から出て、世に来ました』と明言しておられる。世を救うただ一つの使命を負うてこの世に来られたのである。

祈祷

天より降って私たちのパンとなって下さった主よ。願わくは、私たちがまことにあなたを信じ、あなたを食し、あなたによってのみ生きるようにさせて下さい。アーメン

以下はクレッツマンの霊想(『聖書の黙想』34〜35頁より引用)

 その夜、主はどんなにお疲れになったことか。彼の人間的な体力を要する、より多くの日々がそのあとに続こうとしていた。しかし太陽が、静かな湖に登り始める前に、イエスは目ざめてひとりになる場所を求められた。彼はそこで、人間の力を超えたこのわざのために新しい力を求めて、天の父と親しく祈られたのである。

 しかし心配した弟子たちは、まもなくこの愛する先生の姿を見つけ、すべての者がもう起き出て、早くから先生を探していますと告げて、その祈りの静けさを破る。この人気は、主が願われたものではなかった。彼はただ一つの街のためにだけご自身をお与えになることはできない。彼はご自身の道を進みたまわねばならない。主に許されている短い時の間に、他の者もまた彼の言葉を聞こうとしているのである。

2022年1月21日金曜日

イエスを慕いて


シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております。」と言った。(マルコ1・36〜37)

 『その仲間』とはヤコブ、ヨハネ、アンデレたちであろう、イエスよりも遅く起き出でた彼らが狼狽(ろうばい)して『イエスを追って来』る姿が眼前に浮かぶではないか(※)。イエスに見出されてまだ間のない人々であるが、その心はまったく彼に惹(ひ)きつけられている。

 もちろん、驚くべき幾多の奇跡を見たからであろうけれども、イエスの純白透明な霊魂と偉大にして円満な人格には誰の目にも慕わしいものがあったのであろうと思われる。けれどもあまりに純白なもの、あまりに偉大なものは太陽のようであって平凡な者は永く直視することができない。だから、多くの人々は先ずイエスに驚いたけれども、ついには離れてしまった。

 ただペテロ、ヤコブ、ヨハネたちはイエスの偉大なる純白を慕い続けるだけの透明さを持っていた。この心である。私どもは到底イエスとなることは出来ない。ただ、いつまでもいつまでも『イエスを追って来』さえすればよいのである。

祈祷

主イエスよ、私は何らあなたに似たものがない者であることを悲しみます。しかし、少しでもあなたを慕う心がありますのを感謝申し上げます。願わくは、いつまでもあなたを慕って、あなたから離れないように導いてください。アーメン

(※この箇所の文語訳聖書のすばらしい表現を味わってみたい。『シモン及びこれとともにおる者ども、その跡を慕いゆき、イエスに遭いて言う。「人みな汝を尋ぬ」』)

2022年1月20日木曜日

a great while before day

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1・35)

 昨夜は遅くまで押し迫る群衆に、あるいは道を説き、あるいは病を癒し給うたイエスは今朝は御疲労で、せめて朝だけでもゆっくりなされるかと思ったら、まだ暗いうちに家を抜け出て祈っておられた。かなり永い時間祈り給うたことは『祈り居給う』(※)の語に明らかに読まれる。

 朝寝することは昔から何人にも賞賛されない。主イエスですら一日の戦闘準備として、朝早く起きて祈ることを必要とし給うたならば、私たちにその必要のないはずはない。今日の一日に何が私たちを襲ってくるか知れない。用意なくして戦陣に臨む者に勝利のないことはきまっている。

 夕べの祈りもたいせつである。時々刻々にも祈らなければならない。しかし、朝の祈りほどたいせつなものはない。五分でもよいから、早朝の祈りを必ず実行する習慣をつけたい。起き出でたら直ぐ働かなければならない境遇の人は床の中で先ず祈ってから起きよう。

祈祷

朝まだき暗きほどに、起き出でて祈られた、主イエスよ。願わくは、私にもあなたの祈りをお与えください。あなたの朝の祈りを私にくださって、日毎に善き戦いの準備をさせてください。アーメン

(※青木さんはここで、イエスさまが祈っておられたのはかなり永い時間であったと述べ、その証拠に『祈り給う』という表現に注目されている。ところでこの『祈り居給う』は文語訳聖書の言葉使いであって、口語訳も新改訳もいずれも『祈っておられた』と訳している。しかし言外にその祈りの時間が永かったことが推察される。"And in the morning, rising up a great while before day, he went out, and departed into a solitary place, and there prayed."欽定訳聖書)

2022年1月19日水曜日

カペナウム伝道

夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。(マルコ1・32〜34)

 安息日には何らの働きをも許さない習慣であったから、人々は安息日の終わる頃、すなわち『日が沈む』まで待ったのである。(ユダヤ人の一日は日が沈む時から日が沈む時までである)で、日没から町中の者がこぞって戸口に集まって来た。これはペテロの家の戸口である。

 カペナウム御伝道の間は大体ペテロの家をお宿とせられたようである。何という恵まれた家であろう。一日でも主イエスのお宿をしたならどんなに嬉しいかと思うが、主は『最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです』(マタイ25・40)と仰られる。

 さて、イエスの御伝道は最初から言行一致であった。福音を説き給うたのみでなく、実際に幸福を与え給うた。霊魂の病と同時に肉体の病をも顧み給うた。主は実にすべて悩める者の助け主であり給う。キリストの救いは今日でも霊魂に限られたものではない。

祈祷

主よ、私たちは病み、私たちは悩み、私たちは悪鬼につかれています。願わくは、昔のように私たちのために恵みの力をあらわして下さい。願わくは、罪と悩みと病とをまったくあなたの手によって取り去って下さいますように。アーメン

2022年1月18日火曜日

主のご愛に答えて

水仙に 椿微笑(ほほえ)む 茅屋(ぼうおく)に※ 

シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、・・・イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。(マルコ1・30〜31)

 ルカ伝には『ひどい熱』(4・38)とある。この地方は湿地でチブスが流行するところである。この『ひどい熱』がチブスであったとすれば、『立ち上がってもてなし始めた』(4・39)ことが、このように速やかであったのは尋常のことではない。

 この奇跡によってペテロ一家は直ちにイエスを信じたらしい。ペテロは伝道旅行にも妻と一緒に歩いたことは1コリント9章にも見えている。古い伝説によると、ペテロの妻はペテロより先に殉教者となった。彼女が拉致(らち)されて行く時に、ペテロは大いに喜んで彼女が天のホームに帰るのを祝し『主を覚えよ』と言って励ましたと言う。

 パウロの犠牲的独身生活も立派であるが、ペテロのように夫婦相携えて南船北馬し、二人共に殉教の死を遂げたのもまた実に美しいと思う。

祈祷

肉体の病も霊魂の病も二つながら癒し給う主イエスよ、今も昔も変わらないめぐみの御手をのべて私に触り、願わくは、私の熱がひき、直ちに立ち上がって、勇ましくもあなたに仕えさせて下さいますように。アーメン

(※寒中見舞いに、直筆の美しい絵葉書をいただいた。「親切なことばは人を喜ばす。良い知らせは人を健やかにする」箴言12・25、15・30。) 

2022年1月17日月曜日

私の家にもどうぞおはいりください!

イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。(マルコ1・29)

 何とも言えぬ美しいある安息日であった。ヤコブとヨハネはイエスの親戚にあたるが、新たにお弟子となった人たちである(※)。アンデレはヨハネとともにすでにバプテスマのヨハネの弟子であったが、先師ヨハネの紹介で二人同時にイエスの弟子になった人である。ヨハネとは仲のよい間柄らしい。

 シモンは多分アンデレの兄であったろうが、彼に導かれてお弟子の中に加わったのである。かくして、二人の兄弟の二組が先ずお弟子となって、その頃すでに妻帯していたシモンの家に安息日の礼拝を終わって直ちに案内された。

 十二弟子のうちでも最もすぐれた四人のお弟子と初めての安息日の午後を将来使徒中の大立者であるシモン・ペテロの家で過ごされたのである。この午後私もペテロの家の片隅で、その親しい団欒の暖かさに浴したかった。

祈祷

ああ主イエスよ、私をもお弟子の一人にお加え下さい。あなたが肉にあられた時のように、今も一切を捨てて私に従えと宣べられた尊いお声を真実にお聞かせください。願わくは、ペテロの家のように、貧しい私の家にもお入りください。アーメン

(※この「ヤコブとヨハネがイエスの親戚にあたる」という話は、今まで聞いたこともないので、引用者としていささか面食らいました。一旦はカットすることも考えましたが、冒頭のバウムゲルトナーの著書『十二使徒との出会い』があったこと思い出し、念のため調べました。ところが、豈図らんや、同書も「あまり確実ではないが」と前置きしながら、親戚になることの二、三の事実を書いていました。その上、彼は「親戚であってもなくても、彼らはすべての人間関係にまさる愛と交わりのきずなで、しっかりイエスと結び合っていました」と書いていました。青木さんも同じ気持ちでこの文章をもちろん書かれたのではないでしょうか?)



2022年1月16日日曜日

主よ、私をあわれんでください!

人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」(マルコ1・27)

 人々は狂暴人から悪魔の出(い)でたのを見て驚いた。けれども自分たちの心の中にさらに恐るべき悪魔のいるのに気づかなかった。人間というものはうぬぼれが強い。みな独立した生活をしているように思っている。

 が、本当を言えば私たちの精神生活、すなわち思うことも考えることも感ずることも、ことごとくとは言えまいが、大体他のものによって支配されるのである。肉体の生活が気候や食物などによって大体支配されているように、神の生活は神の聖霊かあるいは悪しき霊の暗示または指導によって多分に影響されているのである。

 もちろん目に見える刺激によって左右されることも多いけれども、この知らざる霊の世界の力は侮(あなど)るべからざるものがある。聖書は常にこのような力が私たちのまわりに存在していることを教える。

祈祷

主イエスよ。願わくは、知らずして私の内に宿っている汚れた霊を私の衷(うち)から追い出して下さい。そして、それに代わってあなたの聖い霊を送って、私の心に住ませ、常にそのご指導を受けることを許して下さい。アーメン

2022年1月15日土曜日

悪魔は知っている

絵 加藤潤子※
会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。(マルコ1・23〜26)

 悪魔は悪い奴には違いないが、その聡明さは到底人間の及ぶところでない。一見してイエスが神の聖者であることを知り、またイエスは悪魔のわざを滅ぼすために来られたことを知っている。

 この聡明な悪魔を向こうに回して戦いを挑(いど)む私どもは毎日余りにも不用心で無頓着な生活をしてはいないであろうか。畢竟(ひっきょう)悪魔の存在すら感じない無感覚が私どもをそうさせるのであろう。

 もちろん子供が幽霊を恐れるような恐怖はいけない。けれどもパウロの勧めるように『神のすべての武具』をとることを忘れてはいけない。すなわち『信仰の大盾』『救いのかぶと』『すべての祈り』などは一日も怠ってはならない。

祈祷

主イエスよ、願わくは、私をしてあなたの勇敢な兵卒として下さい。常に自らを守り悪魔に備えるだけでなく、進んで悪魔の本営を衝(つ)き、彼の手より多くの霊魂を救い出すあなたのわざにつき従わせて下さい。アーメン

(※前回、イエスさまの荒野での悪魔との戦いにこの加藤さんの絵を用いさせていただいたが、今日の箇所の方が適切だったと思い、再度使わせていただく。現に、マルコはマタイ・ルカとちがい、荒野におけるイエスさまが悪魔からどのような誘惑を受けられたか、逐一語っていないが、この23〜25節に至る汚れた霊につかれた人の所作は私たちに悪魔の働きがどんなものか、そして、イエスさまがその悪魔をいかに制する力を持っておられるかが具体的によくわかる箇所である。『信仰の大盾』『救いのかぶと』『すべての祈り』の一つ一つを確かめてみたい。)

2022年1月14日金曜日

身近な悪魔の存在

すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて・・・(マルコ1・23)

 『会堂に汚れた霊につかれた人』!何という不調和な響きであろう。イエスは 四十日の間荒野で悪魔と闘って来られた。しかし人間の社会に出て初めて悪魔に出会われたところは会堂であった。何という皮肉であろう。

 この人は外から見ても明らかに悪魔につかれていたと言うのだから、多分狂人のような類(たぐい)であろうか。何のために会堂に来たのであろう。外国の諺(ことわざ)に悪魔は会堂の屋根裏に住んでいると言うが、今日でも教会は一番悪魔に狙(ねら)われている所ではあるまいか。

 キリストに救われた私どもこそ油断をすると、かえって七つの悪鬼が入り来ると主が教えられたではないか(※)。現代人は大変にかしこくなって悪魔の存在など信じない。その高慢な不信仰こそ大きな油断の原因である。私は今でも悪魔の存在をそのままに信じる。そして主イエスによって常に彼と戦っていたいと思う。

祈祷

主よ、盲目なる私を憐んでください。「盲蛇に怖じず」の諺のように、私は盲目ですので、恐れるべきものを恐れません。知らないが故に容易に悪魔の捕虜(とりこ)となります。願わくは、私の眼を開いて、霊の世界の実際の姿をはっきり見て、肉と霊とを地獄に投げ入れる方を恐れて、常にあなたに、より頼む者とならせて下さい。

(※引用者注:マタイ12・43〜45。なお、祈りはマタイ10・28『fear not them which kill the body, but are not able to kill the soul: but rather fear him which is able to destroy both soul and body in hell.』)

2022年1月13日木曜日

驚いてばかりではダメだ

人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。(マルコ1・22)

 『律法学者たちのようにではなく』とはイエスに学問が無いように見えたと言うのでないことは言うまでもない。ここに言う『学者』は聖書の筆写を業とする人たちで、聖書の字句にのみ明るく、その精神には暗かった。従ってその言うところも形式のみに囚(とら)われていた。イエスはこれらの人々と全く異なっていたのである。

 真理の根底に触れたイエスのお話はまた人心の根底に触れなければ止まなかった。神より出でて神の言葉を語り給うたイエスのみことばには権威があったのは当然である。イエスのみことばは必ずそのことばのように実行される力が伴っている。

 イエスの命じ給うことは必ず成り、イエスの教え給うところは必ず実現するのである。然るに惜しいことには、昔の人も今の人も一様にただ『その教えに驚いた』のみであって、これを信じ、これに従う者が、至って少ない。

祈祷

神よ。私たちはたびたびあなたのみわざに驚きます。しかし、御旨に従いみことばを守る心が自らの内に、少ないのを悲しみます。願わくは、私たちを憐み、驚くとともに喜んで慕う心をお与え下さい。アーメン

(今日の箇所をさらに深く味わうために以下のクレッツマンの文章を追加する。「律法学者たちが、罪人たちの霊的な願いや救いの求めにおかまいなく、彼らの手になった伝統を、人々に語るために声を渇らしていたのに対し、イエスは、聖書についての深い洞察を明らかに持っており、人々の魂深く、心をとどかせていた。彼の教えは、律法についての非現実な問題を、漠然と哲学化したようなものではなく、具体的であり、聖書的であり、そしてそれゆえに悔い改めと信仰とによる救いの道を、権威をもって展開するものであった。人々がすぐに彼にひきつけられたのは、何の不思議でもない。私たちの牧師が、神のことばから、また神のことばをもって救いの道を説き起こし、彼らの心を興味本位に占められているあれこれの問題についての個人的な意見を述べていない時には、何と感謝すべき時であろう」聖書の黙想クレッツマン著32頁より引用)


2022年1月12日水曜日

『すぐに』

それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。(マルコ1・21)

 イエスの行動についてマルコはたびたび『すぐに』と書いている。ある人はマルコ文章の癖であると言う。そうかも知れぬが、私は思う、イエスには『すぐに』行動し給う癖があったのではなかろうかと。

 善きことを行なうには『すぐに』実行するのが最も善い習慣である。グズグズしているとこれを実行する機会を失う。『すぐに、イエスは・・・会堂にはいって』の句の如きは実に痛快ではないか。いかに主イエスが安息日にいそいそとして礼拝堂に赴く習慣が子供の時から立派につけられていたかがうかがわれる。

 (会堂は)パリサイ人らの集まる偽善者の集会であったかも知れぬ。それでもイエスはマリヤに連れられて幼少の時から安息日ごとに参拝していた善き習慣を破ろうとはなさらなかった。主は『すぐに、・・・安息日に会堂にはいり』給うお方であった。主の祝し給うたこのカペナウムの会堂の古跡が今でも残存しているのは面白い事実である。

祈祷

主よ、私を怠慢の習性より救って下さい。何事であれ善きことに対しては『すぐに』これを行動に移す勇気と信仰とを与えて実行の人とならせて下さい。アーメン

(今まで、『すぐに』と言うことば使いをマルコ伝特有のキビキビした文体の面からのみ読んでいたが、青木氏のこの伝で行くと、イエスさまの行動には『すぐに』がつきまとっていると言うことだ。日本語には「善は急げ」と言うことわざもあるが、私の場合、多分にその決断が遅く、及び腰になることが多い。イエスさまはいつも父なる神様と心が一つで、その『すぐに』と言う行動には何らの狂いもなかったに違いない。むしろ、『なすべき正しいことを知っていながら、行わないなら、それはその人の罪です』ヤコブ4・17と、主に行動を示されながら、先延ばししている私には、まさしく『すぐに』がイエスさまの純粋無垢な判断・行動に照らしてキーワードだと思った。)

2022年1月11日火曜日

人間をとる漁師

谷口幸三郎作
ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる(漁る)漁師にしてあげよう。」(マルコ1・16)

 『漁(すなど)る』の字は原語で『生きながら捕らえる』という意味である。あるいは永遠のいのちに導くように人を捕らえるという意味がふくまれているかも知れぬ。

 イエスは人間の死に至るのを見て、これを生きながら捕らえて逆に死なせないお方である。ペテロ、アンデレの二人は先ず最初の『人間捕獲者』として召されたのであった。

 魚を漁るのはこれを殺して食物とするためであるが、人を漁るのは死の海の中からいのちの国へと生け捕るためである。私どもは主イエスに生け捕られなければ、死と滅亡の海に沈み行くものであることを片時も忘れてはならぬ。

祈祷

主イエスよ。あなたは昔ガリラヤの海辺を歩みつつ、いかに人を生け捕らんかと苦心し給いしように、今も日々夜々私たちの生活の海辺を歩み給いつつ、あなたに従う者を求めておられます。願わくは、私たちもペテロのように一切を棄てて、あなたに従う者とならせて下さい。アーメン

(この著作物は、年初からお断りしているように、青木澄十郎さんのものであるが、引用にあたっては、今日の読者に合うように引用者が表現を若干変えている点があることをあらかじめご承知いただきたい。なお、彼はこの尊い『一日一文マルコ伝霊解』を始めるにあたって次のような注意点を書いている。もって銘すべき序文であるので遅まきながら以下に転写する。

 信仰生活は日曜生活ではありません。日曜以外の日々の歩みが大切なのであります。イスラエル人が荒野で毎朝天よりのマナを拾ったように私どもも毎朝新しいマナを拾いましょう。昨日のマナは今日は腐っています。毎朝五分間でもいい、賛美歌をうたって聖句を味わい神に祈りつつ新しい日を迎えましょう。

 目覚めよ我がたま 朝日にともない 

 主をほめたたえて みわざを始めよ )


2022年1月10日月曜日

福音を信じなさい

イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1・14、15節)

  悔い改めると同時に大切なことは『福音を信ずる』ことである。悔いるばかりでは絶望に陥る。また自分の力で改めようとすれば、これもまた失望に終わってしまう。

 キリストは実に私の罪のために死に、またよみがえって今日も私たちの罪のために罪の贖いを成したもうと同時に悔い改める力をさえ与えてくださると信ずるときに、日々の生活は悔い改めの苦しさとともに勝利の歓喜に浸ることができるのだ。

 まことに、福音だ! 福なる音づれを刻々に信じていけばそこにこそ神の国が現われて来る。私たちの心は豊かな天来の空気と天来の食物とにて養われる。イスラエル人が荒野でマナを拾ったように、私たちも毎日天を仰いで悔い改めをなし、イエスの血によって清められ、日々新しく信じて福音を受け取るのである。

祈祷

悔い改めに怠慢なる私たちは、信ずるにも怠慢であり、福音を受け取るにも怠慢であります。主イエスよ、願わくは、私たちをこのずるい心から救い、もっと真剣に悔い改め、いのちがけで信じさせて下さい。アーメン

2022年1月9日日曜日

悔い改めて

イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1・14、15節)

 神の国の福音は政治でなく社会事業でなく、もちろん哲学神学※でもない。悔い改めと信仰とである。真に悔い改めてキリストを信ずる所にはいつでも神の国の福音が待っている。

 誤ってはいけない。悔い改めは、洗礼を受ける時に一度すればよいと。主を信じ主に導かれ、主とともに歩む生活をするには、一度や二度の浅はかな悔い改めですむものではない。どんな純白な着物でも一度洗濯したらいつまでも白いものではあるまい。否、純白を維持するために余計に洗濯を要するではないか。

 私たちの中に(私たちの家庭にすら)速やかに神の国が来(きた)らないのは悔い改めが不足しているからではないか。他人を批評する心は余るほど持ち合わせて、自分を反省する心が欠けているからである。時々刻々に悔い改めて行かねば、キリストの福音もその効き目を申し上げる余地はない。

祈祷

天の父よ、願わくは私に謙遜と悔い改めの心を常に与えてください。願わくは私を怠慢と浅はかさとより救い、私に深刻なる反省と悔い改めとを与えてください。アーメン

(※ヨハネの福音書12章に、ギリシヤ人がイエスにお目にかかりたいと近づいた様が記録されている。その時、イエスは「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」と話された。ここをF.B.マイヤーは『日々の力』の中で「哲学と芸術の民、生粋のギリシヤ人に対して、主イエスはむしろ土と麦という自然の例、自然の聖書をもってしたとは賢いことです」と書いている。)

2022年1月8日土曜日

荒野に赴(おもむ)かれたイエス

絵 加藤潤子※
そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。(マルコ1・12〜13)

 主イエスでさえ救世の御事業のために四十日間の特別準備が必要であった。食物さえも忘れてしまうほどの霊魂の戦争、悪魔との奮闘。野獣がやって来ても一向に気がつかれなかったほどの悪戦。

 ああ真剣に神を見、世の実相を見んとする者には必ずこの戦争が来る。今の世は悪魔の支配下にある。文明を誇るな。現在の欧米を見るがいい。文明が決して人を救わぬ、国を救わぬ。文明によって天国は決して来(きた)らぬ。

 霊界は依然として悪魔の支配下にある。否、悪魔はかえって文明の仮面をかぶって、文明の美貌のかげにかくれて、いよいよ世界の堕落を策してはいないか。

 私たちもイエスとともに荒野に出て行こう。そこで赤裸々な神を見、赤裸々な自分を見、赤裸々な悪魔を見て、戦おう。

祈祷

神よ、私たちは、この世の文明に酔わされ、欺かれて、たびたび、あなたの姿を見失ってしまいます。願わくは、私たちをして、荒野に行かしめ、かしこでは赤裸々なる霊界を見させて下さい。アーメン

(※作者によると、もともとこの絵はエペソ6・13のみことばを念頭に描かれたが、『日々の糧三六五日』(金田福一著)の12月12日の「キリストの愛の中で」という霊想に触れて、自らに力みがあるのではなかろうかと教えられ、少し表現を変えたということです。拡大して読み取っていただくと制作者の意図がより鮮明になるかもしれません。今日の本文の作者青木澄十郎さんはどのように思ってくださるだろうか。しかし、マルコ1・11のあとにこの「戦い」があったことを考えると、今朝の霊想に加藤潤子さんの絵を使わせていただいたことも、必ずしも無謀とばかりは言えないのではないだろうか。)

2022年1月7日金曜日

天から、愛の声

 そして、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1・11)

 これだ。私はイエスのみでなく、これが神の造りたもうた本来の人間だと思う。罪を知らず、汚れもなく、清浄無垢(せいじょうむく)の人間は何は無くともこの特権だけは持っているのである。神と人とは近い。

 現在の世界はいかに物質文明が発達しても、霊的には全く不自然な世界に堕落している。私たちを生み、私たちを造りたもうた、父の姿も見えず、声も聞こえない。そんな馬鹿なはずはないのである。もしアダム以来今日に至るまで、何人も罪を犯さず、神を離れなかったならば、今日の私たちは文字どおりこの時のイエスのご経験のように、天よりの声を聞き、天の父の愛撫の手を感じ得るに違いない。

 キリストに救われた私たちでさえ真剣に考えて信じ進む時には、誠にボンヤリとではあるけれども、天よりの声を聞き、父の愛撫の御手の暖かさを感じ得る時(※)があるではないか。

祈祷

父よ、私はあなたに帰ります。豚の豆がらを棄てて今あなたのもとに帰ります。願わくは先に失った私の特権を私に返し、私をして再びあなたの声を聞く耳を与え、あなたの愛撫を感ずる触覚を与えて下さい。アーメン

(※申命記1章に「また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。」(34節)とある。「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ」(イザヤ46・3)ともあるように、主なる神様が御子イエスさまだけでなく、神の子とせられた私たちをも愛していてくださる暖かさに目覚めさせられたいと思わされた。昨日の朝はこの冬一番の寒さを感じる、と思っていたら、昼前から雪が舞い降りて来て、積雪となった。一週間ほど前にふるさとの大雪の報に接したばかりであった。空曇り、曇天の中、上から雪が舞い降りてきたふるさとには冷たさだけでなく、暖かさも覚えたものだ。それは少年の心が普段は汚れに毒されている世界が一夜にして白銀の世界と化した世界を見る喜び、雪合戦ができる楽しさで心が満たされていたせいだろうか。)

2022年1月6日木曜日

天が裂けて

日輪の 川面照らして 空蒼く ※
そして、水の中から上られると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。(マルコ1・10)

 これこそ実に偉大なる体験である。現代人にはそのまま受け取れまい。イエスの錯覚ぐらいにしか考えられまい。しかし神の子の姿をそのままに保持する人の子、堕落以前のアダム、理想の霊魂を持つ人間にとってはこれくらいの体験がなくてはならない。

 自分の頭上の天は一直線に神の御座まで通ずる、そして、神の御霊は一直線に自分の頭上に降ってくる。この聖なる交通を妨げるものはことごとく『 裂け』るのである。一点の雲さえこれを遮(さえぎ)ることを許さない。紺青の大空さえ裂かれなければならない。

 物質的障害はことごとく溶け去って端的に天の父がその御手を御子イエスの頭において祝福なさるのである。紙一枚の隔ても許さない神人の抱擁、これがやがて私たちにも与えてくださるイエスの賜物である。

祈祷

天の父よ、私たちはこの肉とこの物質との中に閉じ込められ、押しつけられて、あなたとあなたの世界よりあまりに遠く離れているのを悲しみます。願わくは私の頭上の天が裂け、あなたの霊が私の上に降りてきて下さいますように。 アーメン

(※青木氏は天が裂ける意味を強調され、「紺青の大空さえ裂かれなければならない」と述べられた。一昨日老聖徒からお電話をいただいた。「新約聖書は夜空の星々から始まり、終わりは明けの明星で終わる。いや明けの明星で終わりでない、義の太陽が上りイエス様がすべてとなられるのだ」と。お聞きしながらこの方の骨太の信仰に触れた幸いなひとときであった。同氏との過去のふれあいはhttp://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2018/12/blog-post_26.htmlに示したことがある。)

2022年1月5日水曜日

イエスさまのヘリくだり

鴨一羽 古利根川に へりくだる 主バプテスマ ヨルダン川に※ 
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。(マルコ1・9)

 イエス自ら罪を感じられたことはない。それでは、何ゆえにバプテスマをお受けになったか。

 一つには明らかにマタイ伝に書いてあるとおり、『このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです』(マタイ3・15)とのお考えからである。自分に必要のないことでも一般の(人の)ために善いことは進んで行なう精神である。

 これはいたずらに他を批評して自らを高くする人のなし得ることではない。一般普通の善と称することに対する寛大な心を示している。自分の理想とするところよりも低い他人の善に快く共鳴する同情の心である。

 二つにはイエスが私たち罪人の罪をご自分の罪とまで考えなさったのであろう。不良少年の罪は、これを自分の罪のように考え自分が先ず悔い改めて立派にならねばならぬと思う親心と同じであろうと思われる。

 私が一つの罪を犯せば主イエスは私よりも先に私のために悔い改めのバプテスマを受けずにおられないほどに私と一つになっていて下さるのである。

祈祷

主イエスよ、願わくは私の高ぶりを砕いてください。私をしてどんな人の善にも心からの同感を与え得る謙遜を与えてください。他人の善を私の善のように喜ぶことができる広い心を私に与えてください。

(※古利根川は、今、川べりに数羽の鴨が、たむろしては、水中の魚はじめ餌をあさる姿が見える。写真はその中であえて一羽のみ撮影したが、付近には仲間の鴨がいる。イエスさまはヨルダン川でバプテスマを受けられた。その川べりはどんな状態だったのだろうか。それはともかく、そこにも「へりくだり」の姿が見られるのでないだろうか。)

2022年1月4日火曜日

聖霊のバプテスマの与え主、主イエス

 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(マルコ1・7〜8)

 水のバプテスマと聖霊のバプテスマ、この二つは信仰の生活にとって無くてならぬ経験である。一つは悔い改めを意味し、他はキリストの内住を意味する。洗礼が一つの儀式となってしまったらもはやその味を失った塩である。止めたがよい。

 しかし洗礼を受けた者は信仰によって新たにキリストのものとなり、朝に夕にキリストと親しく交わり、キリストのご指導を被(こうむ)り、常にキリストと共に歩むことができるのである。

 もちろん私どもは完全にこのことを意識してはいないけれども、このように信ずることができるのである。その時に聖霊は実に私どもの中に内住し給うことを体験して大きな満足を感ずる。自分以外の大いなる知恵と大いなる力が自分の内に宿っているという自覚は実に私どもを強くする。

祈祷

知恵と力のもとである主よ。あなたはあなたの聖い御霊をもって私の内に住んでくださることを感謝申し上げます。私たちの信仰の足らないところを憐れんでくださり、あなたこそ聖霊によってバプテスマを施(ほどこ)し給うお方であることを深く信じさせてください。アーメン

(上記文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著より引用。青木氏がどんな人物であるかはネット情報以外には詳しくは知らないが、この方の書かれた『詩篇の研究』(昭和34年出版)をたまたま古本で手にし、その文語体の文章に悩まされながらも、行間から立ち上る主を愛される思いが伝わって来た。ましてやマルコ伝という最も章立ての少ない福音書を一日一日コツコツ読み上げて読者に提供されるその姿勢に自分もあやかりたいと思い、ブログでの連載に思い至った。国会図書館にはこの書をふくめて青木氏の著書が多数デジタル化され、ライブラリーに収められている。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/search?keyword=青木澄十郎&searchCode=SIMPLE

2022年1月3日月曜日

バプテスマのヨハネの人となり

 

野にありて 強く逞しく 生きる術

ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。(マルコ1・6)

 今日のらくだの毛織のような柔らかいものとは全くちがう極めて粗(あら)いもので、古預言者の衣服をそのままに踏襲(とうしゅう)したのである。多分昔のエリヤを慕い彼に倣(なら)ったものであろうと思われる。その衣服と言いその食物と言い、その住所と言い全く超世間的である。

 彼は肉体的生活を無視してかかっている。肉体の生活が罪悪であるとか、軽蔑すべきものであるとか言うわけではないが、人間にはこれぐらいの見識が無ければなるまい。ヨハネのように一生涯を通じてではなくとも、時と場合によっては自分の肉体的生活を超越するだけの気概がほしい。

 この気概がなければ人間も肉体の奴隷たるに過ぎないで、あるいは単なる一個の動物となり終わるかもしれない。経済問題が信仰問題よりも大きく、パンの問題が霊魂の問題よりも大きく感ぜられる間はまだヨハネの弟子となることすらむづかしい。

祈祷

天の父よ。あなたは私に霊と肉とを与えてくださいました。しかし私は度々肉に仕えて霊を忘れてしまいます。願わくはヨハネのように強く霊に生きることを得させてください。アーメン

(上記文章は元旦、昨日に引き続いて『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著から転記させていただいています。なお、題名は引用者の判断でつけさせていただいておりますので、引用者の主観が入っています。三百六十五日のうち、まず三日間は続きました。さて、三日坊主に終わることなく、このまま走り抜くことができるか?今後もご愛読の上、お気づきの点があれば、コメント欄に投稿して下さるなりして、お教えくださいますれば幸いです。)

2022年1月2日日曜日

新しい日には新しい悔い改めを!

「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。・・・」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。(マルコ1・2、4)

 バプテスマのヨハネの無い信仰生活は柔弱である。イエスに来(きた)る前にヨハネに来(きた)らなければいけない。あの峻厳(しゅんげん)なヨハネの前に立って『罪の赦し』を受けんがために痛烈な悔い改めをしなければならいけない。

 罪がすべての災害の根であることを深く考えねばキリストの福音の徹底を期することはできぬ。自分の善を認めて喜んで居るのがパリサイ人であり、自分の罪を自覚して神と人との前に常にへりくだるのがクリスチャンである。

 洗礼を受ける時に悔い改めたからよいのではない。新しい年には新しい悔い改めをなし、新しい日には新しい悔い改めをする。かくて時々刻々が懺悔(ざんげ)の生活となるとき、イエスを心に宿す準備ができたのである。

祈祷

聖なる主よ、願わくは私にへりくだりと心からなる反省とを与えてください。願わくはあなたの使者ヨハネとともに荒野に出で行きて、ひとり罪に泣くことを教えてください。そしてその涙をもって世の罪と人の足とを洗わせてください。アーメン

2022年1月1日土曜日

福音のはじめ

 神の子イエス・キリストの福音のはじめ(マルコ1・1)

 マルコの福音書全体が『福音』であって1章がその『始まり』であるという意味ではない。イエスの御一生が人類の『福音のはじめ』であるという意味である。イエスは『神の子』すなわち神を地上に代表するおんひとり子であると信ずることが私たちの幸福の第一歩である。

 今日の元旦を『福音のはじめ』をもって始めることは何というおめでたいことであろう。イエスが始めて下さったこの福音を私たちの生活の中に生かして行く。一日一日と福音の中に、歩を進めて行く。この年の一日一日が天国の祝福への一歩一歩となる。毎日毎日イエスの与えてくださる福音に新しく生き、毎日毎日『いのちのパン』である主イエスの饗宴にあずかる。このようにして私たちの一生は福音の一生となる。

 私たちイエスを信じ彼と共に歩む者には時はいつも正月、日はいつも元旦である。私たちは自分の猿知恵を出して『福音』を割引きしたり、神の御約束を疑がったりするから、イエスの福音も私たちを祝福することができない。イエスを信じ切って行けば福音が腹から河のように流れ出る。

祈禱 
慕いまつる主イエスさま。あなたは私の神、私の救い主、私のいのちの君です。願わくは、この年も自分の猿知恵を捨て、一心不乱にあなたの声を聞き、日々あなたの福音にあづからせてください。アーメン

(新年明けましておめでとうございます。1年越しのご挨拶となりましたが、本年もよろしくお願いします。今年は毎日マルコの福音書をご一緒に味わいたいと思います。この記事は青木澄十郎という方の『一日一文マルコ伝霊解』という1934年(昭和9年)に出版されたものを底本にしています。なるべく今の私たちが読んでなじみのある表現に変えて読んでいくつもりです。ご愛読ください。)