イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。(マルコ2・13)
イエスは教えたいお方である。罪に堕落した人を救う方法はこれに道を教えることにあるのみである。だから『会堂にはいって教えられ』(1・21)『家におられ・・・みことばを話し』(2・1)今また『湖のほとりに出て・・・教えられた。』のである。
人間が最高の動物であり得る所以(ゆえん)は教えられ得る動物であるからであろう。獅子も虎もあの立派な体軀(たいく)を持ちながら人間に遠く及ばないのは教えられる能力がはるかに人間に及ばないからではないか。
孔子の如き人は『三人行けば必ず我が師あり』と言ったほどによく教えられる人であった。他の人を見て教えられ、またイエスさまから教えられる人が幸いである。学校で研究室で教えられたい人はたくさんあるが、イエスの膝下に坐して教えられたい人の少ないのはどういうわけであろう。『会堂』でなければ学べない教えもあり、また『海辺』でなければならぬ教えもあろう。イエスは随所に私たちを招いて教えてくださる。私たちは従順なイエスの弟子となりたい。
祈祷
主よ、教えられることを好まない私たちをも棄てないでください。かたくなにして自分を高くする私をも忍んでとこしえの教えを私に教えて、私をいのちの道に導いてください。アーメン
(良書にめぐりあった。冒頭の写真はそれを拝借させていただいた。同書は児童書にあらわれている幼いこどもたちの心を解いてやまない。児童書を知らず、読まず、したがってこどもにもそのような環境を与えなかった自分を思って内心忸怩たる思いがした。一方で「みことば よーく 聞いて 素直に 従おう! いつも 主イエスさまと まっすぐ 進もう! 」と、歌っていた元気な子どもたちの歌声が、今も耳に残っている。「救いの道を 良き住まいや 書斎の中に なぜ探すか 工場に 野良に 船の中に 救いの道は 見出される」聖歌320番と山室軍平は歌った。結局、人間の究極の問題はいずこにあろうと主の救い・主の教えをどれだけ真剣に求めるかにあることを教えられた。)