2022年6月21日火曜日

愚かな夢、だれが一番偉いか(上)

神田川 遊覧船か と妻問う※

カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。(マルコ9・33〜34)

 まだ俗物であった弟子らは先生の十字架を面前に突きつけられながら、互いに醜い争いをしている。山の上まで連れて行ってもらった三人が威張ったのか。数日前に『この岩の上にわたしの教会を建てます』との賞詞(ほめことば)を受けたペテロが誇ったのか。悪魔を追い出し得なかった九人が不平を鳴らしたのか。次の章の35節を見るとヨハネなどが第一に威張った連中らしい。

 イエスはどんなにあさましくまた悲しく感ぜられたことであろう。必ず来るべき十字架を直視し得ない人は憐むべき者である。十字架を直視するのを嫌ってこれを避ける人は思わずこのような醜い心となるものである。イエスとともに十字架を負う心を持つ人だけが克(よ)くこのような醜い心に勝てるのである。

祈祷
主よ、己を人にまさっているとする悪い高ぶりから私を救い出してください。願わくは、人が自分よりまさっているのを見て喜ぶことができる心をお与えください。我が子が自分よりまさる所を見出して喜ぶ親心を私にもお与えください。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著172頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、クレッツマンの昨日の引用に続く文章である。

 再び主はカペナウムに来られた。これが最後である。弟子たちだけと主がおられた時、彼らに、ここに来る道々何を論じ合っていたのかと尋ねられた。彼らはうしろ暗い気持ちのままに何も言わずだまっていた。彼らは、やがて打ち立てられるだろうと望んでいた地上での王国についての愚かな夢にとりつかれていたので、この世的な力と輝きとにみちたこの王国では誰が一番偉いだろうかと論じ合っていたのである。

※先週、今週とここ三回ほど八丁堀の中込眼科に通った。丁寧な診察には頭が下がる。おかげで良くなった。すっかりこの亀島橋のたもとから眺める風景が馴染みとなった。「菊の花 咲くや石屋の 石の間」芭蕉 という句碑がたもとにあった。)

0 件のコメント:

コメントを投稿