川堤 桜並木の 開花待つ |
ナイル川の葦の茂みに置かれていた赤子の存在は、たまたま次女が2月に無事赤ちゃんを出産し、一か月ほど生活を共にしたので、この間いやというほど身近に覚えざるを得なかった。出エジプト記には次のように書かれている。
パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三ヶ月の間その子を隠しておいた。しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。(出エジプト記1:22〜2:3)
何しろ育児を身近に覚えたのは、今回出産した次女の誕生以来、43年ぶりだが、赤ん坊は絶えず声を出して全身で泣く。いったいレビ夫妻はどのようにこの赤ちゃんの存在を隠しきれたのだろうか、という素朴な疑問と関心であった。結局この男の子はエジプト王パロの娘に拾いあげられ、エジプト王子となる。この男の子こそ、後のモーセであり、エジプトで奴隷生活を四百年間続けなければならなかったイスラエルの民120万人近くのリーダーとなり、民を大挙して脱出させることに成功する。
『十戒』という映画は、この全歴史の動因者が、生けるまことの神であり、乳と蜜の流れる地へ向けての新生活スタートにあたり、神の言葉、神の意志である『十戒』を授けられたのだという、聖書の示す事実を丹念に追っている。十代のころ、私には奇想天外に思えたシーンはその後二十代後半に信仰者となった今の私には、もはやその躓きはなく、逆にこんな意味があったのかという新たな発見もたくさんあった。
その私が二日間にわたり再視聴を試みたのにはひとつ訳があった。それは「パロの娘とレビの娘」と副題的に日曜日の市川でお語りしようとした私の「パロの娘」像と、この映画が描く「パロの娘」像が大いに異なっている点が気になったからである。映画制作は1956年でセシル・B・デミル監督だが、非常にヒューマンな姿勢が一貫して描かれている。私は、パロの娘が「水の中から、私がこの子を引き出したのです」とモーセと名づけた由縁にうかがえる、神様を抜きにした自意識過剰を問題にしたが、デミル監督の作品では、水の中から引き出されたモーセ自身がパロの娘である育ての親の愛を感謝してエジプト脱出の際にイスラエル人と一緒に同道することまで描いている。もちろん聖書が語らぬ事実である。それはデミル監督が神の示される道を尊重しながらも、極めて人道的な解釈をつけ、同時に映画鑑賞者のハートに訴えかけるに相応しいとして「創作」したのであろうと思う。(映画の左から「パロの娘」、モーセ、チッポラ) そのように私のように聖書の記述から一歩も出ないと考える信仰者の立場からすると、その点ではどうかなと思うが、これだけの大作を制作するハリウッド映画の力量は大したものだと感嘆せざるを得なかった。福音という観点で見るなら、『ベン・ハー』の方がはるかに直裁にイエス様を描き切っているが、この『十戒』はじっくりと鑑賞するに相応しい映画である。まだ視聴されていない方、すでに視聴された方もいらっしゃると思うが、座右に『出エジプト記』を置いて再視聴されることをお勧めする。(写真は散歩途中に拝見したお家の桜。実は、8年前に、玄関先からお子さんを送り出しているお母さんに出会った。何と25年前に彼女が高校2年生の時に私のクラスにいた生徒であった。奇遇を喜び、それ以来「元気かな」と思いながら、時々家の前を通らせていただいている。そのお宅に桜がこんなにも綺麗に咲いているとは思いもしなかった!)天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(旧約聖書 イザヤ書55章9節)
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