2025年2月26日水曜日

『神の愛』は何処にもあり


 昨日は、ひさしぶりの投稿に対して、早速ありがたい励ましのコメントをいただいた。同氏はせっせとご自身のホームページ(https://sakota575.webnode.jp/%E6%97%A5%E8%A8%98/)で日々、写真と共に俳句を載せておられる。私もそれにあやかるべく、日々の観察怠りないのだが、中々詩心もなく、ほぼ一月余り投稿を休んだ。

 この間、何もしていなかったわけではない。写真はなるべく撮るようにしていた。今日、掲載の写真は先週水曜日、病院に出かけた際に、見かけた「タイリクセキレイ」の姿である。セキレイは写真に撮るのが難しい。ところがこのセキレイ君はどうしたわけか、歩道を歩いていた。それだけでなく、近寄って来る。自転車を降りて、彼の姿を追った。手元まで近寄って来る。またとないシャッターチャンスであった。その余りにも熱心な当方の姿に敬意を表されたのだろうか、通りがかり(多分同じ病院通いなのだろうが)のご婦人が立ち止まって、私に「撮りなさい」と言わんばかりの意思表示を示された。

 私は、この変わったセキレイ君の姿にすっかり安心しきって、逆にご婦人にどうぞ構わず先へ行ってくださいと手招きした。それまでのセキレイ君の行動ぶりから、ご婦人の通行の邪魔を詫びる余裕があっての私の所作であった。ところが、あにはからんや、と言うより、セキレイ君本来の彼らしき行動を発揮して飛び去ってしまった。残念!身近でバッチリ撮れるという思いは敢えなくも潰えた。けれどもご婦人も残念がられたが、セキレイ君は道路脇の人家のお庭に入りましたよ、と丁寧に教えてくださった。確かに自分の希望通りの写真は撮れなかったが、病院行きの束の間の爽やかなひと時であった。

 ところで、この病院行きこそ、ブログを休んでいた理由の一因であったことに思い至る。それはここ二、三年右手人差し指が痛んでいた。家内は私がおびただしくキーを叩く所作を目にしては、心配して、いつも「やめろ」と言わんばかりであった。だから「痛い!」なんて口に出したくなかった。そして内心では折れているのではないかとビクビクしていた。そのため整形外科に出かけたのだった。幸い、骨は折れていず、「経皮鎮痛消炎剤」なるものを処方されて帰って来た。それを塗っても症状は今まで通りであまり変わっていないが、意を決しての病院行きはパソコンに向かう我が生活に少なからず後押しをしてくれた。

 病院通いのついでに書くと、もう一つの根本的な理由がある。病院行きは待ち時間で多くの場合、辟易するのは皆さん共通の思いではないだろうか。そんなおり、待ち時間をどう過ごすか各自様々な工夫をなさると思う。私はこの病院行きに一冊の本を持ち込んだ。

 その本の題名は『なにものも私たちを神の愛から引き離すことはできない(上巻)』(G・ベック著)という恐ろしくも長い題名の本である。新約聖書の「ローマ人への手紙」をはじめから終わりまで、そこに表現されているみことばを今の私たちにわかるように書かれている本である。

 新約聖書の中にある「ローマ人への手紙」は、誰しもが一度は挑戦したことのある手紙であろう。私も何度か読んでいるが、いまだに初めから終わりまで貫通して読み切ったことがない。それで昨年末ごろからであったか、別の方の書物『 ロマ書講演』(パゼット・ウィルクス)を随分時間をかけて読み切ることができ、大変感銘を受けた。

 ただし、この講演自体は昭和6年(1931年)であり、文語体で書かれており、すごく読みづらかった。そこで、お膝元であるベックさんの書かれた本をとにかく読んでみよう、それを読み切った後でないともう何も言えない、言いたくないという思いであった。パゼット・ウィルクス(1871〜1934)は明治期から昭和期にかけて日本伝道のために働かれた宣教師だったが、紙上でしか拝見できない方であるが、私の尊敬してやまない英国の宣教師だ。それに比べて、わがベック兄は2016年8月23日に召されるまで、我が家に26年間、来てくださり、ある時は旅先の四国の坂出では一緒に枕を並べ、寝食を共にさせていただいたこともある。

 そのベックさんが召されて9年になるが、その御本を丁寧に読み切ったことがない。それで時の間を惜しんで、その本に没頭していたためである。ブログ休止はそれが最たる理由である。

 さて、整形外科の待合で多分、これまたその『神の愛』に没頭していた時に、Bさんから声をかけられた。Bさんは二日前にその病院で心房細動のためステントを挿入する手術を受けて退院されたばかりで、その日は、その術後手当で来院されていた。私は、その前日にはBさんのお見舞いに同じ病院に出かけたが、あいにく退院なさった後でお会いできなかった。その翌日、こうして病院で会うことができたのだ。

 顧みれば、セキレイ君に出会い、Bさんに声をかけられる。昨日今日の短い間にも丁寧にコメントを寄せてくださる愛読者の方々がいる。『神の愛』はこのような形でも貫通されていることを思わざるを得ない。ただし私の『神の愛』の読書は上巻の237頁あたりを今通過しているところであり、まだまだゴールには程遠い。なお、この『神の愛』のもとになるベック兄の音声があるのでそれも並行して聞いている。「耳」と「目」で、『神の愛』を味わいながら、春を待ち望んでいる。これほど贅沢なことはない!

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(新約聖書 ローマ人への手紙8章38〜39節)

1 件のコメント:

  1. HP紹介、ありがとうございます。
    それにしても写真、バッチリです!動かない花はどうにでも撮りようがあるけれど、鳥には羽があり、動きます。私は滅多にしか鳥の写真は撮り(撮れ?)ません。

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