2025年3月5日水曜日

ジャーナリズム健在たれ


 新聞、ラジオ、テレビと、ほぼ満遍なく付き合っているつもりである。それぞれの媒体の特徴があり、一つの事象を多角的に観察できるのは助かる。新聞が夕刊の配達を辞めた時には、もう新聞も終わりなのかと一旦は思ったが、しばらくの失望の期間がすぎて、今ではすっかり慣れてきて、朝刊にふくまれている夕刊記事(多くは文化欄)などをいそいそと取り出しては読んでいる(さしずめ、今朝の新聞の「戦間期の思想を拒絶する」と題する保阪正康氏の論考がそれにあたる。)

 トランプ・ゼレンスキーの口論をテレビで見た時には、これを識者はどのように見るのだろうか、とその意見が聞きたかった。ラジオのTBSの森本毅郎が月曜の朝、そのやりとりを丁寧に追っていた。土曜、日曜と様子眺めの状態が続いたが、事態の様子が明らかになると同時に今後の動向もにらんだ上での解説も徐々に散見できるようになった。なお、様々な論考に期待したい。

 ところで、現実政治は早くもアメリカのウクライナに対する武器援助が休止され、のっぴきならぬ事態へと動いている。かと、思うと、大船渡市では、こう着状態どころか、日に日に山林火災の範囲が広がっていく。その様を国際情勢、年度内予算成立を図る少数与党下の国内政治の動向に並行する形で、私たちは今目にさせられている。ひとときは、アメリカロサンゼルスの山火事は対岸の火であったのに・・・。幸い、雨雪が大船渡市上空にも舞い降りそうだ。一日も早い鎮火を望む。

 今朝の東京新聞の「筆洗」は次のように結んでいた。「奉納のおかげか。大船渡でも雪や雨が期待できるとの予報に少しほっとする。〈あめゆじゆとてちてけんじや〉ー。岩手出身の宮沢賢治の「永訣の朝」。病にある妹トシの雨雪を口にしたいと求める言葉が悲しいが、大船渡に今、〈あめゆじゆ〉がほしい。」 

 人間社会の移り変わりを感じながら、現実を明らかにしていくジャーナリズムの歩みに期待したい。最後に日曜日の歌壇欄に載った一人の方の短歌を紹介しておく。

かいつぶり 潜りて広ぐる水 尾の先 はるか遠くに 顔を出だせり
                   (神奈川県伊勢原市 佐藤治代)

私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。・・・私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。・・・舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やすのです。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。(新約聖書 ヤコブの手紙3章1、2、3、5〜6節)

2025年3月4日火曜日

二つの口径の世界


 二、三日前、買い物帰りの道路脇に、目にも鮮やかな花が咲いていた。家内に何の花か尋ねる。「かたばみ」だと答えが返ってきた。ブロック塀の排水口(径三、四センチ)を根城にこんなにも明るい色を見せてくれるのかと、写真に収めた。どのようにして種子から花に成長したのかわからないが、草花はほんのわずかな隙間を見つけては育っていくことに驚く。

 話は変わるが、台所の水道の蛇口が壊れた。DCMホーマックに出かけて同様な製品がないか見て回ったが、中々見つからなかった。店員の方に相談した。親切な店員で、あちらこちら探してくれた。最初は金具面だけだったが、その後、プラスチック仕様のものを探してくれた。しかし、いずれも壊れた蛇口との同寸法のものは見つからず、同サイズのパッキングを見つけるしかないですね、と最後に言われてその方とは離れた。それもそうだと、訳知り顔の境地で件のパッキングを今度は自分で探すことにしたが、中々見つからなかった。

 そうこうしているうちに、別の場所で違う店員さんが一人のお客さんの注文に対して熱心に応対している姿に遭遇した。そちらの用件が決着するのを待って、この店員さんに相談してみようと思い、ダメもとと思いながら、持ち込んだ、壊れた蛇口をその店員さんにも見てもらった。仔細に眺めたあと、それを手にして、その彼は先ほどの店員さんと違って、二、三箇所を経て、口径22ミリになる「首振りキッチンシャワー」なる2178円の製品を探し当ててくれた。

 家に帰って、当てはめてみるとまさにぴったりだった。二人の店員さんのお世話になったが、店員さんによってこうも違うのかと改めて思わされた。先の店員さんが悪かったわけではないが、あとの店員さんは、お客さんの要望に応えたいという熱心さにおいて、先の店員さんにまさっていたように思う。ひょっとしたら、商品知識の違いもあった上での結果だったのかも知れない。

 今では口径22ミリのシャワー製品は我が家の台所で元気に、壊れた蛇口に変わって、働いてくれている。一方、口径3、40ミリの隙間に根を下ろした「かたばみ」はさすがにここ一二日の寒さで、半分近く花びらをなくしたが、黄色い花の存在は、通る者の目を楽しませてくれているのではないか。人工(人事)と自然の違いはあれども私にとってはありがたい二つの口径が招いてくれた新世界の境地であった。

 ひるがえって、トランプ大統領とゼレンスキー大統領の首脳会談は、敢えて言うならば、両者の口径が合わず、決裂した。その余韻は今も世界の人々の耳目をそばだてさせている。人事の世界では口径が合わなければ、機能しないのだろうか。しかし、それだけではない。いのちある両者だ。いのちある者として、かたばみのように、口径をものともせず、豊かな色を見せてほしい。

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。(旧約聖書 詩篇97篇11節)

2025年3月1日土曜日

輝かしい希望


 今日から、弥生三月に入りました。庭の山茱萸(サンシュユ)の花が咲きほころびました。毎年のことですが、このように時至って花を咲かせてくれる木に心からなる感謝を申し上げたい思いです。でも、すべては主なる神様のご配慮なのですね。

 毎日毎晩、岩手県三陸大船渡市の山林火災に胸を締めつけられる思いがします。一日も早い鎮火をと祈ります。さて、今日は下記の文章を載せさせていただきました。『重荷も軽く』(A.ドーフラー著)の「輝かしい希望」と題する文章の引用文です。愛する友が重篤で入院中です。その方に読んでいただきたいと決心してお送りしたものです。皆様もお読みくだされば感謝です。

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(新約聖書 コリントへの手紙第一15章19節)

 希望は人生の源泉です。私たちの生活から希望を取り去ってしまったならば、私たちは平安を保つことができなくなり、絶望へと追いやられてしまいます。

 神を無視する者でも、この世に希望を託しております。彼らは生計を立ててゆくことを望み、より良いことに会うことを望み、健康でありたいと願います。

 しかし、イエス・キリストの復活ほど、私たちを大きな希望で満たしてくれるものはありません。イエスの復活は、イエスが神であることを示し、神のみことばとお約束が常に真実であることを物語っています。イエスはいつも私たちと共に居てくださることを約束してくださいました。イエスは私たちに慰めを与えてくださることを約束してくださいました。神は私たちに、イエスが生きていらっしゃるように、私たちも生きると確信させてくださいます。

 人生においてさまざまな苦労に出会っている時や、苦痛と病気のために閉じ込められている時ほど、この神のお約束は必要なのです。これらの約束は、私たちが決してひとりではないことを確信させてくれます。私たちは主イエス・キリストの永遠のご臨在をいただいているのです。

 その上私たちは、イエスの復活によって、もう一つの希望を持たせていただきました。イエスの復活は、イエスが私たちの救い主であることを語っています。キリストを死から復活させることによって、父なる神はイエスの犠牲が十分に完全に、私たちの罪の代価を支払ったことをお述べになりました。

 イエスは悪魔の象徴であるヘビの頭を砕きました。イエスは悪魔に対して勝利を得られたのです。それゆえ、キリストを身の隠れ家としている限り、何物も私たちを損なうことができないことを知り、希望に満ちて将来を望み見ることができるのです。

 キリストが死から復活なさったのですから、私たちの、苦痛を受け病気をしがちなからだも、ついには朽ちない状態によみがえり、主イエス・キリストの栄光のからだに似たものとしていただけるのです。私たちはこの世において、いろいろと多くの試みを受けます。私たちキリスト者も、神を無視し、キリストを否定する人々と同様に苦痛を受け、痛手をこうむります。もし現世にのみ希望を託するならば、私たちはすべての人々のうち最も哀れむべき存在となります。しかし死のかなたにおいて、この苦しみを受けているからだが完全な状態においてよみがえるというところに、私たちの希望が存在しています。そこにおいて私たちの目から涙がすべてぬぐい去られます。そこにはもう、この世の苦痛はありません。もはや死ということも無いのです。主の御前は、永遠に喜びに満ち満ちているのみです。それゆえ私たちの希望は、この世の生活を超越した果てしない永遠にあるのです。これらすべてのことは、イエスの復活によって絶対確実なものとなります。

 それですから復活祭は、私たちに世界で最も幸いに満ちた喜び、最も希望に満ちた神よりのことばをもたらしてくれるのです。パウロがローマ人への手紙8章18節で言ったとおり、私たちも「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と心から言うことができます。そして十分自信に満ちて 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(新約聖書 コリント人への第二の手紙。4章17〜18節)と付言することができるのです。

 祈り

 永遠に生きていらっしゃる救い主イエス様。あなたは罪と死に打ち勝ち、栄光ある復活をなさいました。それによって罪の赦しと平安が私たちに保証されました。私は心からあなたを讃美いたします。今日もまたあなたの慈(いつく)しみを私にお示しくださり、私のすべての罪をぬぐい去ってください。悩みと痛みと苦しみとを受けている私を、罪のくびきや苦難から永遠に解放してくださるというあなたのお約束によって、私は希望に満ちてあなたを仰ぐことができます。どうか御恵みによって、常に私の近くにいてくださり、一日のすべての時を、輝かしい栄光の福音によって慰め、揺るがぬ信仰をお与えください。

 あなたのみことば、および、あなたに対する信仰から、私たちすべてが最後まで離れることなく、神の国民を待ち望む栄光に連れて行っていただけますように。イエスの御名によってこの祈りをおささげいたします。 アーメン