2026年3月4日水曜日

83歳の誕生日


 長女も妻も五人の子宝に恵まれた。当方はいつの間にか83歳になった。先月のことだ。その長女が忙しい合間を縫って、私どものところに遠路出かけてきて誕生ケーキを(子どもたちを代表して)つくり祝ってくれた。全てケーキ材料は持ち込みだ。その上、80歳になって、すっかり衰えてしまった妻にも、ケーキ制作の作業を手伝わせて一体感の醸成につとめてくれた。かつて彼らの子ども時代、私たちはこんなふうにして誕生日を祝ったことがあっただろうか。何らかのお祝いをしたことは確かだと思うが、二人ともすっかりそのことは忘れてしまった。

 ローソク3本は言うまでもなく、83の3だが、ローソクの灯を消して、ハッピーバースデイを歌われた。そうされても素直に感謝することを心から表さなかった気がする(そこには照れ隠しもあるが)。そう言えば、私の誕生日は2月7日だが、翌日に次女の一人娘が2歳の誕生日を迎えた。この2歳の彼女にとって、両親に命ぜられるまま、ローソクの灯を消すことは一大イベントの感がした。なぜなら、送られてきた動画を見ると、家族の祝福に包まれた孫娘の新鮮な驚きと家族の表現しようのない喜びが伝わってきたからである。83歳の私と2歳の孫娘とでは誕生日の意味合いは異なり、2歳の孫娘には未来の希望が託されているような感がした。

 ところで妻は80歳、私は83歳。このコンビで五十六年間一つの家庭を築かせていただいてきたが、もうかれこれ、過去二十余年のうちにそれぞれ子どもたちは巣立ち、それぞれの家庭を建設している。そして私は「もうすっかり歳を取って、何も出来ませんわ」と思うだけだったが、聖書記事を読んでいて、そんなことはないよ、と励ましをいただいた想いがした。それは出エジプト記の次の記述だ。

主はモーセに仰られた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。・・・」そこでモーセとアロンはそうした。主が彼らに命じられたとおりにした。彼らがパロに語ったとき、モーセは80歳、アロンは83歳であった。(旧約聖書 出エジプト記7章1〜2、6〜7節)

 パロとは当時絶頂を極めるエジプトの王だ。その王の支配下にいたのが奴隷として酷使されていたイスラエル人であった。その解放者として神様の命(めい)を受けて立ったのがモーセその人である。それは「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた」(すなわち、それはとりも直さず「私」のことだが・・・)人々を解放するために、人となってきてくださったイエス・キリストの型としてのモーセの姿であったのでないか。

 同じ83歳と80歳のコンビと言えど、この先、神様に用いられたアロンとモーセの如く生きていけるとは間違っても思わないけれど、そうして現に神様のために労したアロンとモーセがいたことだけでも心の片隅に覚えていたいと思わされた。

そこで、子たち(人のこと)はみな血と肉とを持っているので、主(イエス・キリスト)もまた同じように、これらのものをお持ちになりました(人として誕生された)。これは、その死(人の神様に背く罪の罰である十字架の死を身代わりに受けること)によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(新約聖書 ヘブル2章14〜15節)

2026年1月7日水曜日

一枚の年賀状の示す真実

by k.yoshioka
 年賀状は今や流行(はや)らない。しかし、年賀状はやはり捨てがたい。一年に一回、その人の存在に触れることができるし、ある場合にはその人が今考えていることに直(じか)に触れることができる。だから、この形のやり取りは今後も続けることになるだろう。

 さて、昨年末、2025年の古利根川の散歩納めを記念する思いで、土手を歩いていた。その歩き慣れている土手で、二、三回つまずき、ヒヤッとした記憶がある。次にはつまずくまいと思いながらも、忘れた頃にはまたつまずいている。そして大体、つまずくところはほぼ同じ場所である。だから、歩き納めの場所としてその場所を特に念入りに眺めながら歩いてみた。すると、小石が想像する以上にたくさんあることに気づいた。その中にとんがった石があり、それを避けきれずにつまずいているのである。目の前に見える道は凹凸のある歩きにくい道である。それは連綿として続く私たちの実人生の姿を象徴していると思わずにはいられなかった。

 そして、心のうちに、昨年末、示されていたみことばを想起していた。そのみことばは以下のものであった。

主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。(旧約聖書 ホセア14:9)

 そうか、私にとって凹凸に見える道は、主いませば平らなのだ。問題は私自身が主にそむいた結果つまずくんだ。そうだ、これからはそむかないで主から我が人生を受け止め歩んでいきたいと思って、年を越した。それゆえ、新年、特に年頭にあたり示されるみことばを強いて求めなかった。

 そんな折り、一枚の年賀状に私の心の琴線がギュッと掴み取られた。今日の絵は、その年賀状に描かれていた作品であるが、次のみことばの前半部が同時に並記されてあった。

私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。 それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。(黙示録19:11)

 黙示録は新約聖書の最後、したがって旧約聖書をふくむ66巻からなる全聖書の最後に位置する書である。その書には次のみことばがある。

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(黙示録1:3)

まさにこの通りである。2016年に召されたベック兄はこの白い馬に乗られたお方がイエス様であると言い、次のように言っておられる(※)。

最初に地上に来られた時、イエス様は、人の姿をとってへりくだって来られました。しかし、再び来られる時には、栄光につつまれて来られます。かつてはみどりごとして来られましたが、再び来られる時には、馬に乗って来られます。かつては貧しい人の姿で来られましたが、富と栄光に満ちた方として来られます。また、かつては罪をになう犠牲の小羊として来られましたが、罪のさばき主として、獅子のように来られます。かつてはほふり場に引かれて行く小羊として来られましたが、再び来られるときには、勝利者として、また権威あるお方として来られます。(『すぐに起こるはずのこと』第4巻145頁)

 今年も幕開けから、大変な事態(無法、地震)が次から次へと起こっている。目の前の事象に振り回されず、素直に白い馬に乗り再臨されるお方に従う一日一日でありたいと思う。今日読んだみことばに次の聖句があった。つまずかない秘訣は白い馬に乗られる方に従うか従わないかにあると友の年賀状を通して思い定めた。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/08/blog-post_23.html

私は、口のあやまちをしまいと心がけました。人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。(旧約聖書 詩篇17篇3〜4節)