2013年1月30日水曜日

彼は私たちを愛しておられます

日光駅二階貴賓室シャンデリア
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(新約聖書 黙示録1・5後半〜6)

忠実な聖徒たちのこの賛美の詩歌は、突然ヨハネの口から出てきました。それは、私たちが彼の御名を告白することであり、彼の贖いに対して私たちに負い目があることを告白することです。このようにして彼を告白することは、彼を拒絶したこの世から私たちを分離させます。このことはまた私たちを彼へと結合し、私たちを彼の弟子また証とします。

「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13・15)

彼の御名を告白することと主を賛美することは、聖徒たちの最も卓越した働きです。ここで描写されているものは、主イエスと教会との間の親密な関係ではなく、むしろ裁き人としての彼の栄光ですが、それにもかかわらず、主を真に賛美する声を上げないわけにはいきません。この理由により、私たちは裁きを恐れません。私たちは、彼が「 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放」ってくださったことを、知っています。

彼は「私たちを愛し」てくださいます! そうです。彼は私たちを愛されます。原文では、「愛する」は現在形であり、これは彼が今わたしたちを愛しておられることを意味します。「解き放ち」は、原文では過去形であり、これは彼が私たちを罪から解放してくださったことを意味します。

彼が今私たちを愛しておられることを、私たちはどのようにして知るのでしょうか? 私たちがそれを知るのは、彼がご自身の血によって私たちの罪を洗い清めてくださったからです。彼の現在の愛は、彼の過去の働き、すなわち血を流し、罪を洗い清めてくださったことによって量られます。私たちはみな、このようにして量られなければなりません! 他のいかなる方法も信頼できません! あなたの移り変わる感覚や経験を用いて、主の愛を量ってはいけません! 彼は今私たちを愛しておられます。それは、過去彼がご自身の尊い血を流され、私たちの罪を洗い清めてくださったという理由にほかなりません。

だれが、主の尊い血の価値をすべて知り尽くすことができるでしょうか? 私たちは、いつもこのことを覚えておかなければなりません。もし人が「役に立たない者」や「実を結ばない者」となるなら、それは彼が「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れ」たからです(2ペテロ1・8〜9)。私たちが救われた時に得た恵みを覚えることは、私たちを主イエス・キリストを知る知識において成長させます。

私たちが持っているものはただ罪だけであるというこのことを、どうか主が私たちに認識させてくださいますように。しかしながら、彼は私たちを愛し、私たちを清めてくださいました。過去の洗い清めと、現在の絶え間のない愛のゆえに、神に感謝します! 私たちは主に感謝します。なぜなら、彼は愛してくださるからです。なぜなら、彼はご自身の血を流されたからです。なぜなら、彼は私たちを愛し、ご自身の血を流すまでに至ったからです!

私たちが彼の愛を見ることができるのは、彼がご自身の血を流して、私たちの罪を洗い清めてくださったことを通してだけでなく、彼が「私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった」からでもあります。

(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集第4巻36〜38頁より。聖句の引用に当たっては原著と異なり新改訳聖書にあわせた。なおウオッチマン・ニーは「黙示録」は「啓示録」であって、啓示であるゆえに無視すべき本ではない。心を開いて神のみことばを直裁に受けとり、吟味すべきだと勧めている。彼24、5歳の作品?)

2013年1月28日月曜日

100年のロマンに想う

2007.1.18 撮影
今朝の東京新聞朝刊に「JR日光駅 100年のロマン」と題する記事が一面に載った。記事によると、この建物は1912年(大正元年)にそれ以前の駅舎を大改造して木造二階建ての洋風の駅舎として生まれ変わり100年後の今日に至るということだが、これまでその設計者は不明だったそうだ。ところが昨年の11月にひょんな機会に郷土史家の手によりその建築家が明らかになったという記事だった。

6年前の1月、親戚の葬儀に出席するため、日光駅に降り立ち、記念に撮っておいた写真を早速引っ張り出してみた。人っ子ひとりいない殺風景な写真は私にとってお蔵入りになるはずであったのだが・・・。けれども振り返って見ると、この駅は決して馴染みのない駅ではない。5、60年前中学校の修学旅行で日光に初めて降りたのは多分この駅だ。改札口には関東では唯一の親戚に当たるおじさんおばさんが出迎えに来てくださっていた。同級生の手前、晴れがましくもあり、恥ずかしくもあったが、一行と別れ、そのおじさんおばさんに家まで連れられて行った道中の何とも言えないぬくもりを昨日のことのように覚えている。

それだけではない。これと言って何の取り柄もなかった私が糊口を教職に求めたのも元はと言えば、この親戚の家のご養子さんの口聞きがあったからである。しかも当時は今日ほど教師に対する世間の目は厳しくなかった。ましてや退職金の減額騒ぎだの、体罰云々、いじめの横行とか何やかやと問題になる現行の世相とは隔世の感があった。日々厳しくなって行く世相の中で、古から続く建築物の謎の設計者が明らかになったと新聞が報ずるのも故なしとはしない。現在を断ずるに、過去を懐かしみ、未来に希望を見出すのはどうすることもできない人間の性(さが)であろう。

ところで謎の設計者とは明石虎雄氏で鉄道院に所属し、設計に携わったのは20代で、「完成から数年後、工務店を営む父親を助けるため退職して故郷の愛媛県へ戻った。その後、病に倒れ、30代で他界した」とあった。歴史の中に埋もれてしまいかねない人物を見出したというロマンである。もともと大正時代の雰囲気を今に伝える遺産で、私がもう一つの駅である東武の駅からわざわざJRのこの駅にまで足を伸ばして撮影しようとしたのもその記憶があったからである。知らずして撮影していた年(2007年)に近代化産業遺産の認定を受けたとも書いてあった。

話は変わるが、いのちとは何だろうか。「神は魚と鳥を創造されました(創世記1章21節)。水そのものが魚を生み出すことは不可能です。同じように地が鳥を生み出すことも不可能です。魚と鳥は神によって創造されて、水と地上に置かれました。両方ともいのちを持っています(21節)。それらはいのちの形において異なるだけです。・・・魚や鳥の外側の形はそれぞれ異なっていますが、内側のいのちの原則は同じです。水に住む魚は水の「中に」いのちがあることを示します。地の鳥は「地上に」いのちがあることを示します。もともと水も地も死んでおり、そこにはいのちはありませんでした。しかし、形こそ異なっていますが、神は多くの生き物を創造して、そこに置かれました。これは非常にはっきりしています。」(『創世記を黙想する』ウオッチマン・ニー著99〜100頁)

私たちは人がいのちあるものとして、しかも神の似姿として創造されているがゆえに、このような駅舎というひとりの人による造型物にも心をひかれるのであろう。明石さんの1912年の設計意思が形あるものとして今も実在するところに100年のロマンを感ずるゆえんがある。

しかし、そもそも人は創造主自身の作品である。この作品である人のいのちは、神さまという創造主ご自身に心が向いていて始めて生ける神様との交流ができ、いのちの喜びを味わうことができる。しかし、罪がそれを不可能にしている。その私たちを救うために主イエス・キリストは地上に人となり、十字架にかかられた。人類誕生以来、この神さまの愛の呼びかけは変わることがない。100年のロマンを凌駕する圧倒的な真実がここにある。主イエス様を信ずる生活こそ過去の克服、未来への真の希望を与える建設的でかつ現実的な今の生き方でないだろうか。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネ3・16)

2013年1月26日土曜日

私には、資格はありません。

百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。 あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてくださ い。(新約聖書 ルカ7・6〜7)

ローマ軍将校の家での、興奮の瞬間が伝わって来ます。

私はそのようすを、こんなふうに想像するのです。ひとりの使いが走り込んで、息もつかずに報告します。「あなたは長老たちをイエスのもとに送って、病気のしもべのことを頼んでもらったのですね。ええ、彼らはうまくやってくれました。あなたの功労を証明し、あなたには資格があると・・・。」

百人隊長がことばをさえぎります。「何と言ったって? イエスにしもべを助けていただく資格が、この私にあるというのか?」「そのとおりです。」使いの者は大きくうなずきました。

すると隊長は血の気のうせた顔をして、そばにいた友人たちに振り向いて言いました。「頼む! イエスのところへ走ってくれ。私にはとても、イエス御自ら来ていただく資格なぞない、と言ってくれ。」

「私には、資格はありません。」

町の長老たちは「彼は充分資格のある人です!」と言いました。彼の上司らに尋ねたとしたら、彼らも同じように請け合ったことでしょう。「やつは実に立派な軍人だ」と。

しかし、本人は「私には資格がない」と言います。神の光に照らして自分を見た人だけが、言い得ることばです。自分が神のことをどう考えるか、ではなく、「神は私をどうごらんになるか」と問う者だけに、言えることばです。

「神は私をどうごらんになるか」—我々もそのように問うべきです。そして、答えは聖書にあります。すなわち、我々は神の御前に何ら誇るところはない、「我々はみな罪人だ」と。

ここまで来た人は、十字架につかれた、罪人の救い主、イエスに自らをゆだねます。

主よ! 我らに、自分の心のさまを見せてください。
                    アーメン 

(『365 日の主』1月26日の項目から引用。 ウオッチマン・ニーはその「創世記を黙想する」という作品の中で、人の堕落の淵源はすでに創世記1・2にあると指摘します。そして次のように語ります。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあった」! これはすべての罪人の真実の姿です。多くの人が自分の状態に無知であるとは、何と哀れなことでしょう!・・・神が創造された人は、もともと正しかったのです。しかし、人はその状態を失いました。「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」・・・今や神の前での人の状態は、・・・「神のいのちから遠く離れ」・・・「善を行なう者はいない」「義人はいない、ひとりもいない」。何と哀れでしょう! ところが、人はそれでも彼らの知識、知恵、教育、文化を誇ります。もし人が、自分たちは「形なく」、「むなしく」、「やみ」であると悟るなら、彼らは祝福されるでしょう。)

2013年1月24日木曜日

自分の力の限界を知る人

ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。(新約聖書ルカ7・2)

自分の力の限界を思い知らされた男が、ここにいます。それは実につらい経験でしょう。

彼は強大なるローマ軍の将校です。占領軍将校として、大きな権力を握っておりました。多くの人が彼をうらやんだことでしょう。なぜなら、権力への願望は、人の心に深く根ざしているからです。

おそらく百人隊長も、権力の味を愛していたことでしょう。すぐこのあとのところで、ちらっと、そのことを口にしています。「私にも部下がおりまして、彼らは私のことばに従います」と。けれども同時に「私も権威の下にある者です」ということばのうちに、我々は、権力の限界をそれとなく語る彼の気持ちをうかがい知ります。

さて、しかし、彼は人間の力の及ぶ、恐るべき、本当の限界にたどり着きました。死が彼の家に到来したのです。死! その前には、いかなる力も終止符を打たねばなりません。

聖書を知る人は、他の箇所にも、人間の力の限界に触れている記事を思い浮かべるでしょう。ローマ人への手紙には、こうあります。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」(7・19)。

聖書は我々の妄想を徹底的に捕えます。死における我々の限界、また、悪しき心の無力さを暴露します。

この無情な認識を避けて通ることをやめようではありませんか! はっきりした自覚を持って、自分の限界を見つめましょう。そうすれば—この百人隊長のように—我々は「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられた」お方、イエスのもとへと導かれます。

主よ! あなたは我らを、その限界を越えて、死を越えていのちへ、罪の奴隷から神の子どもの自由へと、お導きになることがおできになります。 
                           アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳1月24日の項目より引用。私たちは同胞十人をテロ活動の犠牲で失う経験をした。2011年11月28日の当ブログの「大統領の祈り」http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2011/11/blog-post_28.htmlを想い出した。)

2013年1月15日火曜日

キリストを尋ねる罪人(2)

いただいた賀状より
いまかりに、わたしが一万ドルもするような非常な値うちのあるダイヤモンドをなくしたとしましょう。会堂にはいる時はポケットにあったのに、説教を終えた時にはポケットにありません。しかも、会堂のどこにもないのです。そのような時、見つけた人にあげますと言ったらどうでしょう。どんなにみなさんは真剣になるでしょうか。説教のことよりダイヤモンドのことを考えています。それを見つけさえすれば、一瞬にして貧乏から抜け出ることができます。死ぬまで人のせわにならないで生きて行けるのです。ああ、だれもかれも、じきに恐ろしいほど真剣になるでしょう。

同じように人々がキリストを求めるようにできたらと思います。ダイヤモンドよりも、もっと値うちのあるものを差し上げたいのです。救い(永遠の生命)は、この世界のあらゆるダイヤモンドよりも尊くはないでしょうか。

人々は眠っているようです。地獄の外にはとびらがないのを忘れているようです。そこにはいってしまえば、出ることはできません。神があなたを呼びさまし、自分の魂のことに真剣なものとしてくださるように願っています。人々は、わたしたちが真剣であり夢中であり燃えたっていると話しあいます。教会が神に対し燃えあがってくれれば、この世は根底からゆり動かされることでしょう。神が眠っている教会を呼びさましてくださるようにしていただきたいと思います。

もっとも早く流れる水は、しばしばもっとも深くもっとも静かな水です。仕事をはじめてください。やがて声をはりあげる時がくるでしょう。隣人と交わり、キリストと天国について語りあいなさい。遠い所へ行って、永遠の死という暗黒に向かっている人をさがさければならないということはありません。急いで助けに行きましょう。

キリスト者になりたいとほんとうに願い、そのことに熱心な人々を見たいと思います。「キリスト者になりたいと思いませんか」という問に、「そうだね、なってもいいね」と答えているのを耳にすることがあります。なんともあきれたことではありませんか。そのことばを変えないかぎり、神の国にはいることはないでしょう。「わたしは救われたい」と心の奥そこから叫んでいただきたいのです。

ペンテコステの日、「兄弟たちよ、わたしはどうしたらよいでしょうか」という声が聞かれました。この人たちは真剣でした。そしてただちにキリストを発見したのです。三千人の人々が、一心に求めてキリストを見出したのです。富をさがす時のようにキリストを尋ねるなら、すぐにキリストを発見するでしょう。たしかに世界はどよめきの声をあげるでしょう。あしたの朝までに、綿類の値が一度に一割か二割あがってごらんなさい。婦人たちの間に動揺があるでしょう。また、新聞も、だまっていないでしょう。そして、それがあたりまえのことで、商業が健全な発展をしているといいます。

けれども魂の救いについて、熱心になり真剣になり始めると、「あんなに夢中になってなんと不健全なことか」と叫びます。しかも、何千という死に向かって急いでいる人のことを語ろうとしないのです。あわれな飲んだくれをごらんなさい。天に向けられたうめき声を聞きませんか。しかもなお神の教会は眠り続けているのです。そこかしこに道を尋ね求めているのに、まるで夢遊病者のようにふらふらしています。富をさがし、名誉を求めるように、人々がキリストを求めるのはいったいいつのことでしょうか。

(『失われた羊を尋ねて』46〜48頁より引用。ムーディーは、人はダイヤモンド、富には一生懸命になるが、キリストを求めようとしないと慨嘆しています。その原因は主によって救われた人々、「教会」が眠っているからだと言っています。しかし、さらにその根底には空中の権威を持つサタンの支配があるのではないでしょうか。サタンはイエス様に荒野で誘惑を三度繰り返しますが、その最後に、地上の栄華を与えるから、わたしを拝めと要求したことに触れて、ウオッチマン・ニーは「サタンはこの世のすべての王国とその栄華を捨てようとしましたが、人の礼拝を受けるのを捨てようとはしませんでした。・・・サタンの一生の目的は、多くの偶像や宗教の背後で、人の礼拝を受けることです。・・・サタンは神が人の礼拝を受けられるのを奪おうとします」と述べています。肝に銘じたい言葉ではないでしょうか。)

2013年1月14日月曜日

キリストを尋ねる罪人(1)

山茶花よ 天より受けよ 牡丹雪  ※
あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くにおられるうちに呼び求めよ。(旧約聖書 イザヤ55・6)

今まで、人の子が失われた人を尋ねておられるということについて記してきました。この章では別の面、つまり人間の側のことをとりあげて見ましょう。人がその魂について真剣になり始めると、神を求め始めます。そして彼らがすぐに神に会うということを、わたしは見てまいりました。熱心な罪人は救おうとしておられる救い主に会うのです。

エレミヤ書29章13節にはなんとあるでしょうか。

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会う」

このような人々、つまりキリストを一心に尋ね求める人々がキリストを見出すのです。わたしは不熱心にあきあきし、うんざりしています。不熱心な人間を好む人はいないでしょう。なまはんかな調子で、愛する人に心を傾ける人はいません。主も喜びたまわないのです。もし主を尋ね求め、主を見出そうとするならば、一心にそれをしなければなりません。ほとんどの人がキリストを見出すことのできない理由は、一心に追い求めないからだと思うのです。自分の魂の救いについて、恐ろしいほど一心でないのです。

神は真剣です。人間の魂の救いについて真剣であることは、神のなされたあらゆることから証明できます。神はそのひとり子を与え、わたしたちのために死なせることによってそれをお示しになりました。神の御子は死にたもうた時、真剣でありました。カルバリこそもっともよくそれを示していることです。主は、わたしたちが、魂の救いという重大な問題にぶつかる時、真剣であるように求めておられます。神を一心に求めて発見できなかった人をわたしは知りません。

ある夜、ひとりの青年が求道者室で、自分は救われる値うちのないものだ、けがれて悪い人間だと考えている姿に接して、全く心が新しくされるようでした。彼は自分の魂に対し、必死であり真剣であるゆえに希望があります。彼は自分が無価値なものだと思っていました。神の鏡の中で自分を見つめていたのです。そうする時、人間は自分はつまらないものだと知るのです。

神より遠ざかっている人は簡単に知ることができます。そういう人は、自分のことをいつも価値のあるものとして語るのです。しかし、信仰の目を持って神を見る時、ひざをかがめ、ちょうどヨブのように、ああ、わたしはつまらないものだと叫ぶのです。その時、彼のよさというものはことごとく消えてしまいます。

自分の救いに熱心でありさえすれば、キリストをすぐに発見するのです。キリストをひきおろすために高い所にのぼる必要はありません。深い所におりて、キリストを引きあげる必要もないのです。あるいはまた、キリストを見出そうと遠い町へ行くことも必要ありません。今、キリストは、ひとりひとりのそば近くにおられるのです。

ある時、ひとりの人が青年に向かって、家にもどってキリストを見出しなさいと話しているのを聞いたことがあります。そのように言いたくはありません。家にもどる前に死んでしまうかもしれません。聖書を正確に読むなら、福音がキリストをあすまたは一時間あとに見出しなさいと言っているのではなく、「今」と語っていることがわかります。キリストは、今、救おうとしてひとりひとりのそば近くにおられるのです。もし、人々が救われるために神のもとにきて救いに真剣であるならば、その心のとびらに神の子を見出すでしょう。

(『失われた羊を尋ねて』D.L.ムーディー著湖浜馨編44〜46頁より引用。※朝、家人はいつもより暖かいと申しました。私は雪空だと言いました。ところが先程から朝降り始めた雨が雪に変わりました。牡丹雪のようです。この分で行くと結構積もりそうです。写真は中間報告です。)

2013年1月13日日曜日

どのようにして神のみこころを尋ね求めるか(下)

蝋梅に 亡き義母の愛 想い出す
心にえり好みを持たないということは、消極的になることを意味するのではありません。えり好みを持たないとは、自分自身の判断力を行使して、神のみこころを行なう決心をすることです。心にえり好みがないということは、人がもはや「欲すること」や「欲しないこと」を持たないことを意味するのではありません。それが意味することは、人が神のみこころに関してはっきりする前は、心はどの道も好まないかもしれませんが、彼は神のみこころを行なう決心をしており、いったんそれをはっきりと知れば、喜んでそれを遂行するということです。

自分自身の意志で自分の取るべき道を決定すべき時、「欲すること」と「欲しないこと」の選択を持つべきではありません。しかしながら、神のみこころと自分の意志との間で決定をする時は、「欲すること」と「欲しないこと」の選択をしなければなりません。すなわち、わたしたちは神のみこころを行なうことを「欲する」べきであり、自分自身の意志を行なうことを「欲しない」のであるべきです。わたしたちは、神のみこころを選択し、自分自身の意志を拒絶するべきです。それは、わたしたちが意志や選択を持たないということではありません。わたしたちはそれを持ちますが、わたしたちの意志と選択は、神のみこころを行ない、神の選択をすることです。わたしたちに選択が無いのではありません。わたしたちは自分の選択を持っています。しかしながら、わたしたちは、神が欲せられることを欲する選択をするのです。

簡単に言えば、主のみこころを尋ね求める第一歩とは、わたしたちの前にある道に対し、心の中で意図したり、拒絶したりせず、どれが神のみこころであるか、わたしたちにはわからないとすることです。しかしながら、同時にわたしたちの心は、神のみこころを行ないたいという態度を持ち続けるべきです。わたしたちは、進んで自分の意志を主のみこころに服従させるべきです。

わたしたちに神のみこころがわからない理由は、わたしたちがこの一つの点において失敗しているからです。主は、進んで彼の意志を行なう者たちに対して、ご自分のみこころを啓示することを喜ばれます。進んで神のみこころを行なおうとしない者たちについては、彼らが神のみこころを尋ね求めることは、虚偽です。ですから、彼らはそれを見いだすことができないのです。こういうわけで、もし心の中に先入観があるのなら、神のみこころを尋ね求めることについて語ることさえしないほうがよいのです。人は、まず主の力に信頼し、心の中にある好みを徹底的に対処するべきです。それから、主がそのみこころを自分に啓示してくださることを望むことができます。そうでなければ、たとえ彼がすべての手段を知り、すべての手段を尽したとしても、それらは彼にとって役に立たないでしょう。

今までわたしたちが言ってきたことは、わたしたちの側に関することです。もしわたしたちが神の要求を満たしたなら、彼はどのようにしてわたしたちにそのみこころを示してくださるのでしょうか? 彼がわたしたちにそのみこころを示してくださるのは、聖霊、聖書、環境によってです。聖霊、聖書、環境がすべてそろう時、わたしたちはこれこそ確かに神のみこころであると断言することができます。

わたしたちは、日常生活で起こるすべてのことにおいて、このようにして主のみこころを尋ね求めるべきです。わたしたちは、日常生活で多くの小さな事柄において、自分自身の意志に従って不注意に振る舞っています。大きな事柄がやってきてはじめて、わたしたちは主のみこころを尋ね求めようとしますが、その時、彼はわたしたちから遠く離れてしまっているかのように思われます。これも主のみこころのように思われるし、あれもまた主のみこころのように思われます。すべての道が正しい道のように思われます。

わたしたちは、多くの時間を費やして主のみこころを尋ね求めるかもしれませんが、見いだせません。ですから、わたしたちは大きな事柄だけでなく小さな事柄においても、主のみこころを尋ね求めるべきです。もしわたしたちの日常生活において、主のみこころを尋ね求める習慣があれば、特別な出来事が起こる時、主のみこころを知ることは困難ではないでしょう。わたしたちは、主のみこころを尋ね求めることにおいて熟達し、主のみこころを尋ね求める習慣を持つべきです。もしわたしたちがそうするなら、いつ何が起きようとも、何が主のみこころであるかがわかるでしょう。

しばしば、神はそのみこころをわたしたちに、すぐには啓示されません。御父は決して誤ることはありません。もし彼が、そのみこころをわたしたちに後で啓示するほうがわたしたちにとって益になると思われるなら、そうされるでしょう。そのような時、みこころを知らなければ行動しないという態度を、わたしたちは保つべきです。危険性は、わたしたちが動きたがることにあります。わたしたちは、主のみこころを知る前に動きたがります。主は、わたしたちが彼を待ち、彼と共にゆっくりと進み、彼のみこころがはっきりとわかった時にのみ、わたしたちの歩を踏み出すことを願われます。

残念なことに、わたしたちはしばしば、環境によってせき立てられ、性急に行動することを好みます。結果として、わたしたちはしばしば主のみこころの路線から外れてしまいます。わたしは、一つのことを確信を持って言うことができます。性急に成された十の事柄のうち八つは、主のみこころからではありません。主イエスが地上におられた時、彼が性急に事を成されたのは一つもありません。わたしたちは彼から学ぶべきです。わたしたちは、主のみこころがはっきりとする前は、軽率に行動すべきではありません。わたしたちは、何が主のみこころであるかを見いだすまでは、何も始めないよう決心すべきです。主と共に歩むことが、非常に遅くなることではありません。最も速く前進する方法は、ひざまずき主と共に進むことです。

どうか主がわたしたちに多くの力を賜わり、彼の御前で静まり、彼を待ち望み、尋ね求めさせてくださいますように。わたしたちがあまりにも速く行動してしまう罪を、主の御前で告白しなければならない時から、どうか主がわたしたちを救い出してくださいますように。どうかわたしたちが、今から後、わたしたちの自己を止(と)め、自己から離れ、単一に主のみこころを尋ね求めますように。

( 『 クリスチャン生活と戦い』ウオッチマン・ニー全集第一巻159〜163頁より引用。一部何度読んでもわからない箇所が一箇所あるが、今日の文章をとおして、二つのみことばを想起することができた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」マタイ16・24 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ルカ16・10)