今日ややもすると「私たちはキリストを信じているから、聖書を読む必要はない」と言う人があると聞くが、神様が聖書を通して示された黙示とも言うべきことばを離れて、どれほどキリストを識っていると言えるだろうか。聖書以外の書物はわずかにキリストの事跡が歴史と一致していることを示す程度であって、キリストのご人格やその教訓やみわざについては何も記していない。
聖書によってキリストを知らない者が、聖書に関係なく、その心に語りかけられ黙示を受けたと言っても、どれほどキリストを知ることができようか。人間の良心と理性とがどんなに不十分な導き手でしかないかは、聖書中の士師記が実例を挙げて明らかに証明している。「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」と士師記の中には二度も書いてあるが、それは、決して彼らが良心のとがめることをしたのでなく、自分の目に正しいと見えたことを行なったにもかかわらず、その結果は、恐るべき罪の極限にまで達したのである。
士師記の記者は多分サムエルであると思われる。本書は王政が建てられた後(士師21:25)、ダビデがエルサレムを攻め取る前に(2サムエル5:6~8)、サウル王の治世中にサムエルが書いたのだろう。「そのころ、イスラエルには王がなく」という言葉は、法律を執行し秩序を維持する外形的な王が無かったことを示している。しかしこの語は、私たちにとってはまことに深い意味があるように聞こえる。
これは、実はある人々の心の写真であって、私たちの心の中に主イエス様が一切を治める王として在(いま)さないので、私たちが自分の目に正しいと見えることのみをしたならば、直ちに士師記の状態に陥ることを教えている。聖書には王国の律法が書いてあるが、もしこの律法を棄てるなら、その国民は不忠義な民であることは言うまでもない。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」(詩篇119:9)
信仰生涯の航海において、自分の小船(心事)の安全を請い願うならば、船の中に、聖書という海図と、聖霊という羅針盤とを備え、主イエス・キリストを船長として迎えておらなければならない。もし航海者が、私には羅針盤があるから海図の必要はない。または、海図があるから羅針盤の必要はない。と理屈ばっていたとしたらこれほど愚かな話はない。羅針盤はつねに北を指しているように、聖霊は常にキリストを指している。聖書もまたキリストについて証しているが、この二つは互いに一致するものであって、聖霊は聖書に黙示されたキリストを携え来たって、私たちの霊魂のためにこれをいのちとせられるお方である。
(『66巻のキリスト』ホッジキン著笹尾鉄三郎訳101頁から抜粋引用。若干訳を変えたところがある。写真は昨日に引き続き、茨城、日立灯台下にある公園から眺めた太平洋。天気の良い日には地平線がすっきり見えるという。)
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