2011年6月20日月曜日

ある日の近江路(上)

近江鉄道、高宮駅二番線ホームから三番線ホーム(多賀方面)を望む
昨日は、久しぶりに近江電車のフリー切符550円の恩恵にあずかった。朝9時から夕方まで湖南、湖東と三カ所を移動したからである。生憎、この梅雨空である。それでも首都圏のあの人、人の満ちあふれる空間に比べこれはまた何と間のぬけたような空間なのだろうか。そんな思いにとらわれながらもここがわが地上生活の原点であると思い定める。

最初出かけたのは、湖南と言ってもむしろ湖東との中間地帯ともいうべき近江八幡である。一人の方が長年ご家庭を開放していてくださる。家の教会である。当主は別の地域の家の教会に行っておられ、不在である。私たちはそんなことにお構いなくというか、まるで我が家のように使わせていただいている。いつもより少ない気がしたが、それでも30名余の人が集まられた。若い方もおられ、初めての参加の方もおられた。それだけで私たちの心も何となく弾む。

それぞれの方々が示されるまま、賛美曲をリクエストされ、全員でその曲を歌う。聖書の朗読も男性方が示された箇所を読まれ、感謝の祈りをささげられる。一切プログラムはなしである。私もエレミヤ書31:31〜34を朗読し感謝させていただいた。およそ一時間ほどでこのようにして礼拝を終える。そのあと福音集会と称して当番になった者が聖書のみ言葉から主によって示された事を語り、他の方々が聞くという時間がやはり3.40分ほど設けられる。この日は私が当番だった。

ヨハネ2:19を引用聖句にして、「教会は主の宮である」という題で語らせていただいた。毎回この当番は悪戦苦闘である。ないものを生み出さなければならないからである。何度も何度も「主よ、私には出来ません」と叫び絶望に追い込まれる。そうかと思うと不思議と聖書の箇所が天啓のごとく示される。そういう時は嬉しくなり主に感謝する。今回もご多分に漏れずそういう経験をさせていただいた。もっとも聞いて下さる方も寛容である。牧師でない者の話を忍耐して聞いて下さる。頭の回転の遅い私はいつも話がまどろしくなりこの日も一時間程度になってしまった。

そのあと皆さんで会食をする。持ち寄りのご馳走がワンテーブルように誂えられた場所に一同が集まり、次々に回されてくる。下手をすると次々回ってくるおかずをお皿に盛るのが精一杯でいつになったら食べられるか、と思うほどである。礼拝、福音集会に続くこの会食の席はこれまた何という至福の時であろうか。ある時は一同が誰かの話に耳を傾け、その他は隣り合った人々がこもごも話し合う。誰もその場を支配しようとする人はいない。主イエス様が臨在される静かなうちに互いが互いを知る良き愛餐の時である。故郷でこのような主にあって愛する神の家族の一員とされていることに言い知れぬ喜びを感ずる。

近江八幡・家の教会を後にしたのは二時半過ぎだった。

そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』・・・」(新約聖書 マタイ21:13)

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