2011年10月20日木曜日

K先生のご恩

東武野田線、古利根川鉄橋を春日部方面に走る電車、萩、ひときわ美し
 月曜日、先輩のK先生から「自分史」の進呈を受けた。この先生には新任当時の私は公私ともにお世話になった。遠く足利から京都まで、職場を代表して私たちの結婚式にまで参列してくださったお方である。決してその方に足を向けては寝られないほどのご恩を一方ならず受けた。その方が私の42年前の椿事を記しておられた。ただし書かれたのは1989年当時のようだ。

 20年も前のことだがKさんは私の同僚が交通事故にあったとき大変に協力してくれた人だった。この方が警察署にいなかったら解決できなかった。お世話になったのは昭和44年だった。○○○先生が幼稚園のバスに追突され事故にあったときだった。
「たいしたことはない」と彼は私に知らせた。だが私は日赤病院に行くように勧めた。
「異常なし」と言う診断だった。若い医者だったと言った。ところが一週間して手が痺れると言った。私は彼を佐野市の林整形外科に車に乗せて診察して貰った。
 診察した結果○○先生は頸骨損傷で急遽入院となった。彼は自転車だったので私が車で足利と佐野を往復して入院させた。彼の許嫁が滋賀から見えた。
 滋賀県から新卒で単身赴任したばかりの彼には相談相手がいなかった。私は彼と相談して警察に報告する事にした。
 足利警察署に行くとKさんが窓口で事務を執っていた。事情を話すと直ぐに担当警察官を呼んでくれた。私が事故の事を述べると「何だねえ、一ヶ月も経っ て、今頃事故報告とは、現場に行って何が分かるんだね」とニガイ顔をした。それを見ていたKさんが「一寸、」と言って私に背を向けて、その担当者とヒソヒソと話しをした。担当者がクルリと私の方を向くと「高校の先生ですか、学校には被害者、加害者に拘わらず、事故が起きたら直ぐその場から警察に連絡する ようにと、生徒に指導する事をお願いしてあるんですがね。先生ですか、一寸待って下さい」と少し離れた他のデスクに行った。三人で暫く話しをしてから戻ってきた。「4月25日午後2時、現場検証を行いますから入院中の被害者が立ち会うように伝えてください。相手側にも連絡しますから」と言われた。私はホッとした思いだった。
 私も立ち会って現場検証が実施された。幼稚園の運転手はお辞儀ばかりしていた。経営者は立ち会わなかったが地元に住む東京の大学教授だった。被害者に何の謝罪もないので私が大学教授の自宅に伺った。すると
「あなたは弁護士か」と尋ねられた。「友人だ」と私は応えた。相手の態度が一変した。現場検証の時と違って「運転手は過失はないと言っている」と言い全く謝罪の態度が見えなかった。
私は教育者としての相手の態度に激怒した。
 ○○先生と相談して裁判をする事に決めた。栃木県高等学校教職員組合の磯文雄委員長に相談した。すぐ宇都宮の横堀晃夫弁護士を紹介してくれた。裁判の連絡が届くと大学教授から示談の申し入れがあり直ぐ解決した。
 私はこの事故の解決はKさんのあのヒソヒソ話しが大きな役割を果たしたと思った。Kさんは、誰彼と無く困った人を見ると、よく面倒を看る人望のあるカトリック信者だった。

 まさしく、この通りの出来事が1969年3月12日に起きた。その日は時ならぬ雪の日で栃木県高校入試の前日でもあった。対向車のマイクロバスが山道を降りてきて路面に積もった雪もあり、ブレーキをかけたか何かで横滑りして、道路左側上り斜面を自転車で出勤を急いでいた私に衝突して、私は後方遠くへ飛ばされたのであった。(追突ではなかった)この時、この自伝史を上梓された10年先輩のこの方がご尽力くださり解決し、私は示談金を受け取った。
 そのおり私が枕頭で手にしたのは許嫁から差し入れられた聖書以外には「示談」という玉井義臣氏の著書があった。(玉井氏については2009年10月23日のブログで紹介したことがある)交通事故の被害者が加害者になりかねない恐ろしさを知り、人間の醜さをさらに知らされた思いであった。むち打ち症の後遺症で苦しめられたあの事故から42年経った。事故の背後で尽力してくださったこの先輩の先生のご恩を改めて思うことができた。
 しかし私は何よりもこの事故がきっかけで、自らの神なしとする生き方に終止符を打つことができた。示談金は手つかずでその後、救われて出席していた教会に教会債として出資したりしたが、その後返済を受け、最後は現在住んでいる私の前の中古住宅の家を購入する際の自己資金の大切な部分となった。(私は自己資金を雀の涙しか持っていなかったからだ。)ご恩はご恩として感謝しているが、最終的に人を動かし、事をなされるのは生ける神様のみわざでしかないと私は思う。私の願いは倉持先生がイエス様ご自身を知ってくださり、天の御国にともに凱旋することだ。それが私が唯一できる恩返しだ。
 この事故をとおして私の骨の髄にまで染み込んだみことばをしるす。

子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(旧約聖書 箴言23:13〜14)

 このむちは、決して人間のなす感情に任せた「むち」ではない。本源は神のみが持たれるむちにある。問題はいかに人がその神の愛(十字架に御子をおつけになるほどに私たち罪人を愛する愛)にあずかってむちを振るい得るかである。

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