2013年8月29日木曜日

いかにして主イエスとの深い交わりに至るか(転)

枸橘(からたち)前川國男邸玄関先 江戸東京たてもの園内)
私たちはどうしたらイエス様との親しい交わりに近づくことができるなのでしょうか。

主の啓示に対するわれわれの答え方によってです。イエス様が「わたしである」と言って、私たちにご自身をあらわされる時、イエス様はわれわれに決定(決断)を迫ります。

ヨハネはイエス様に答えませんでした。ピリポも答えませんでした。ヤコブも同じであり、黙ったままでした。ペテロだけがイエス様に答えたのです。

すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

ペテロは自分自身にこのように言い聞かせたでしょう。イエス様がご自身をあらわされる時、ご自身のためではなく私のためにご自身をあらわされるのだと。イエス様は言われたのです。「わたしは道であり、真理であり、いのちであり、光である」 と。これはイエス様のご自身の啓示です。このイエス様の啓示に対するわれわれの答えはどうでしょうか。決定(決断)するなのでしょうか。

ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

主よ、あなたは父のみもとへ行く道ですか。自由と喜び、罪の赦しへの道ですか。もしそうなら、私にここまで来いとお命じになってください。もし聖書を何も知っていないのでしたら、今日祈ることが出来ます。

主よ、あなたは心からの平和への道ですか。もしそうなら、私にここまで来いとお命じになってください

と、祈ることが出来ます。

主よ、あなたは光ですか。そうなら、私にここまで来いとお命じになってください。私の真っ暗闇を光にしてください。
主よ、あなたはいのちですか。そうなら、私にここまで来いとお命じになってください。私にどうか永遠のいのちを与えてください。
主よ、あなたは真理ですか。もしそうなら、私をみもとに行かせてください。ここまで来いとお命じになってください。真理を私にお示しになってください。

イエス様はご自身を明らかにされました。イエス様は私たちに、「わたしである」と言われたのです。私たちはそれに対する答えを持っていますか。イエス様はわれわれの答えを待っています。今日、私たちは我と我が胸に尋ねてみましょう。イエス様の啓示に対して、いつ私たちは答えたのでしょうか。もしまだ生まれ変わっていないならば、全然お答えしていません。救い主なる神はわれわれひとりひとりを救うために、ご自身の愛する御子を死に渡されました。イエス様の血潮はわれわれの罪をおおうために流されたのです。

どうでしょう。私たちはそれに答えたことがありますか。もし、それに答えていなければ一番大きな罪を犯していることになります。その罪のために永遠に滅びてしまいます。その罪のために喜びもなければ平和もありません。

心から祈ろうではないでしょうか。

「主よ、もしあなたが私のために亡くなられたのでしたら、私をみもとに行かせてください。ここまで来いとお命じになってください。主よ、もしあなたが私のために亡くなられたのでしたら、私に罪の赦しの確信をお与えになってください。主よ、もしあなたが私のために亡くなられたのでしたら、私に新しいいのちをお与えになってください。」

十字架の上で犠牲になり、代わりに死なれた主イエス様の思い出を消そうと思ったパウロは瞬間的に変えられました。いったいどうして、彼はイエス様を信ずるようになったのでしょうか。どうして彼はイエス様を宣べ伝える宣教者になったなのでしょうか。それはイエス様の啓示によってでした。彼について考えると最も大切な箇所の一つはガラテヤ書1章の12節なのではないかと思います。新約聖書の332頁になります。

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

16節「神が、御子を私のうちに啓示することをよしとされた」と、あります。そしてパウロはこのイエス様の啓示に答えました。使徒行伝26章の19節に「私は、天からの啓示にそむかなかった」と彼は証しするようになりました。

どうしたら、われわれの救い主であるイエス様との深い交わり、結びつきに至るなのでしょうか。「イエス様の啓示」によってです。また「イエス様の啓示に対するわれわれの答え」によってです。

もし私たちが信者ならば、もうすでに私たちはイエス様の啓示に対する答えになったはずです。信ずる者として私たちは、もうすでにしばしばイエス様の啓示に対して答えて来ました。しかし、もしわれわれの生活を振り返るならば、自らを恥ずかしく思わないでしょうか。イエス様はしばしば困難な導きの最中においてご自身を啓示されました。しかし、私たちはそれに対して答えませんでした。そこには反抗、自分を愛すること、自分の思い・自分の計画と考えがありました。それによって私たちは主の愛を退け、踏みにじったのです。

どうしたら、われわれの救い主である主イエス様との深い交わり、結びつきに至るなのでしょうか。今話したように、主の啓示によって、またイエス様の啓示に対するわれわれの答えによって(です)。

もう一つの答えがあります。すなわち、「主の召し」によってです。ペテロはこの主イエス様の召し、イエス様の呼びかけを待たなければならなかったのです。ペテロはイエス様がお呼びになるまで待たなければなりませんでした。けど、イエス様はペテロをお呼びになりました。しかし、その時イエス様はペテロだけをお呼びになったのです。なぜでしょう。なぜなら、ペテロだけが主の啓示に対して答えていたからです。もし私たちがイエス様の啓示に答えないならば、何と大きな恵みがなくなってしまうことでしょう。私たちは多分信仰のうちを歩みたく思っているでしょう。しかし、「ここまで来い」というイエス様のことばが絶えず先になければならないことを忘れてはいけません。イエス様は「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て水の上を歩いてイエスの方に行った。もしヨハネとピリポも、ペテロの出来ることは俺たちもできると言って同じことをやったらどうでしょう。その結果をここに見たくありません。ペテロだけがイエス様に「来なさい」と呼ばれたのです。

イエス様はご自身を私たちにあらわされました。私たちは答えたでしょうか。主よ、もしあなたでしたら、私に水の上を歩いてここまで来いとお命じになってください。ペテロはイエス様がお出でなさいと言われるまで待たなければなりませんでした。私たちも「主の召し」を聞くまで待たなければなりませんけれども、もしイエス様がお呼びになったなら行動を起こす時期です。チャンスです。もしイエス様がお呼びになったなら、私たちは人を見てはならず、うしろを振り返ってはいけません。もしイエス様がお呼びになったなら私たちは周囲に気を使ってはいけません。

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