種まきの たとえ読みしは 病める嫁 主の愛満つ 畑の百合のごと(小金井市内 8.29) |
もし、イエス様が「お出でなさい」と言われるならば、ためらってはいけません。待ってはいけません。振り返ってはいけません。環境を気にしてはいけません。もし、イエス様が「お出でなさい」と言われたならば、イエス様だけを見てください。他の人の言うことは気にもとめないことです。「舟に留まっていくべきだ、彼はいつも変わったことをする」などという他人のことばには気をとめないことです。
救い主との生き生きとした交わりを持つことこそがもっとも大切です。これは他の何ものにもまさって大切です。
ペテロは舟から降りました。ペテロは、主のみことばによって水の上を歩きました。その前までは、ペテロは波に悩まされ、同じところを漕ぎまわっていました。しかし、今イエス様のみことばによって、水の上を歩いています。そして、ペテロはイエス様を見ています。
最後に、どうしたら、われわれの救い主であるイエス様との親しい交わり・結びつきに至るなのでしょうか。今まで言ったのは、「主の啓示」によってです。そして、「イエス様の啓示に対するわれわれの答え」によってです。また、「イエス様の召し」によってです。もう一つ、「信仰の従順」によってです。
けど、「信仰の従順」は水を通らねばなりません。もし、私たちがイエス様と親しい交わりに入りたいと思うならば、私たちは水を通らねばなりません。イエス様が「来なさい」と言い、私たちはそれに従うには、水の中を通らねばなりません。攻撃と敵対の中を通らなければなりません。敵がやって来るのは当たり前の話です。悪魔は、ペテロがイエス様のみもとに行くことを欲しませんでした。で、大嵐が来ました。もし、人々がイエス様との深い交わりを持ちたいという憧れを心に深く持っているなら、いつも悪魔の攻撃を、嵐を経験します。聖書は、ペテロが超人間でないことをよーくあらわしています。ペテロはわれわれと同じように全く普通の人間でした。
ペテロは風を見て沈み始めました。ペテロは注意を横に逸らしました。ペテロはイエス様だけを見ませんでした。もし、私たちが環境、人間、自分を顧みるならば、イエス様のみことばの浮力がなくなって沈み始めます。イエス様のみことばにしたがう道は攻撃に続いていますが、イエス様のみことばにしたがう道はイエス様の御手に続いています。すなわち、イエス様に近づく道です。「信仰の従順」の中に私たちが何かを始めれば、たとえ途中で自分の思うように行かなくても、その終わりは必ずイエス様の御手のうちにあります。
「来なさい」というイエス様のみことばに従順であるならば、終わりはイエス様の力強い腕の中にあります。(マタイ伝14章)31節
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
ペテロは波の間に飲まれてしまう、当然の刑罰を受けて然るべきでした。けども、イエス様はそうさせませんでした。イエス様はご自身のために、あなたを沈めさせませんし、溺れさせません。それにもイエス様の名誉がかかっているんです。イエス様はあなたに「来なさい」と言われましたから、あなたを沈めさせることはできません。けども、イエス様は、ペテロに一言、言わねばなりませんでした。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」イエス様は、「あなたの信仰は強い、あなたの信じたようになるように」と言えなかったのです。イエス様はペテロを訓戒しなければなりませんでした。
F.ホフマン画(聖書物語より) |
イエス様との親しい交わりはわれわれの求むるところであるばかりでなく、イエス様ご自身の求めるところでもあります。イエス様はご自身をあきらかにされました。決定(決断)してください。
主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。
「イエス様が来なさい」と言うまで待ちなさい。けど、イエス様があなたを呼ばれたならば、ためらわないでください。他の人を見ないでください。悩みや困難を見ないでください。ただイエス様だけを見てください。
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