2015年2月28日土曜日

一冊の本(3)

昨日拝見させていただいたK氏宅のお庭の花

 このようにして儀八郎さんの足跡は藤本正高さんの書物に記されており、客観的な傍証が得られた。ところがそれ以外にもやはりロンドン支店に赴任される時の事についても意外なところからその様子が掴めた。

 三井文庫の資料によると儀八郎さんの辞令は次のように記録されていた。
1939年5月5日 ロンドン支店勤務を命ず 石炭部勤務小林儀八郎
1939年6月7日 来19日当地出発、同日横浜出帆、浅間丸にて北米経由赴任の予定
1939年7月21日 昨日着任

 ところが、別の案件で国会図書館のデジタルライブラリーで『ひとり旅』という題名で長谷川周治さんがものされたご子息真太郎さんの北米便り(これは50数通どころではない、かなり大部の書簡からなり、大変な良書だと私個人は思っているのだが)を繰っていたら、次の記述が出てきた。

 工場の忙しい仕事に追われつつ、なかなか静かな時間を見出す事の困難な中にも色々他の方面の勉強、新製品の研究等に勢力をそそぎ、イエス様と日本を愛する愛は次第次第に増し、上を仰ぎ祈りにはげみ、神の義と愛を実行練習にはげみつつある僕のお父さん。色々考えてみるとこれらはただ神様のお恵みの故だけです。賛美と感謝に、溢れ満たされるのをおぼえます。
 小林儀八郎さんがニューヨークに来られるとか、畔上先生の集会で会ったことがあるかも知れませんがどんな人か全然記憶ありません。小林儀八郎さんという日本人が、広いニューヨークに7月7、8日頃来るというだけでは、どうにも探しようがありません。誰かが東京に来るそうだと言って、広い東京を探しあるくのが無理なように。広いニューヨークをたずねることは到底出来ませんし、会社員の人達は、ニューヨークの仲間の人達がいくらもいて会いに行くでしょうから、こんな田舎(300マイルもニューヨークから離れている田舎)で百姓している者には用はないでしょうし、出て行くのもおっくうで・・・出て行ったところがさがすのに大変です故、残念ながらここから無事の旅行を祈って失礼することにしました。

 手紙そのものは1939年の7月2日に書かれていて、実際の分量はこの分の三倍ほどあるものの一部を掲載したが、まさしく小林儀八郎さんの消息がこんなところにも記録されていた。

 また余談と言えば余談にはちがいないが、この手紙の書き主が戦後米国から帰り、神学塾を開設された長谷川周治氏のご長男真氏だと知る。私自身すでに三冊も所持していた翻訳書の翻訳者は長谷川真氏であった。しかし、久しくその素性がわからなかったのだが、この渉猟を通じてその方の若き時の手紙だと知る。結局儀八郎さんと真さんは生涯会うことがなかったようだ。

 なお、この真氏の安否を案ずる儀八郎氏の手紙が『国籍を天に置いて』の122頁その他に記されていることを付記しておく。

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。(詩篇139・1〜4)

2015年2月27日金曜日

一冊の本(2)

フィリッポ・リッピ『聖母子像』模写 小早川順子絵

 今回の本作りは三人で始まった。私を除いたお二方は過去に本作りの経験があり、一人の方は印刷の専門家であった。だからズブの素人は私一人だという塩梅であった。しかもお二方にとってはいずれも小林儀八郎さんは父であり、また弟のお姑さんとなるはずの方であったという間柄であるのに対して私だけは全く無縁の関係であった。

 ところがお嬢さんであるご婦人も生後間もなくお父さんが戦病死されており、父親の記憶が全くないと言う。また戦後未亡人となられたお母さんからも前回述べた事情があったのだろう、詳しくお父さんのことは聞かされていなかったようだ。ところが、今回お父さんが戦前就職された三井物産の人事消息が残されており、その動静が逐一記録されて東京三井文庫にあることが知人の助言によりわかった。早速、文庫に赴いて古資料をお嬢さんと二人で引っくり返しながら調べてみた。こうして就職以来のお父様の足跡の一部始終が70年の年月を隔てて一挙に明らかになった。

 それから、もう一つの資料として藤本正高著作集の存在がある。私はこの人物については小林さんの手紙に接するまでは何も知らなかった。しかし、この手紙をひもとくうちにこの人物について関心を持ち、著作集を古本で買い求めた。その中にはチンデル伝、ブレーキーのリビングストン伝の翻訳などがあり、大変感銘を受け、このブログでもご紹介したことがある。しかし、その本の中に小林儀八郎さんの名前が実名で登場することにはびっくりさせられた。しかもそれは一度や二度ではなかった。そのことは本の中でご紹介させていただいた。

 ところで、新潟の学校を卒業した儀八郎さんが上京し東京生活を始める中でどうして福音に接したかは全くわからなかった。ところが、著作集第4巻の『信仰と職業』という昭和35年に書かれた短い随想の中に次の記事があった。

K氏は長い間三井物産の重役であり、また会社内で聖書研究会を開いて伝道をされた人である。その導きを受けて信仰にはいった人の中で、四名ほどは私とも親しい交わりをしていた。というのは、その中三名ほどは既に召されたからである。その時のことなどを承りたいと思ったのであるが、氏はそうした事については語られず、そのような実業界にあって、如何に多くの信仰的戦いがあったかについて語られた。そして私が「信仰と職業」という題を出したので、自分の古傷にさわられるような思いがすると言われた。その時私はやはり三井にいた人が、「Kという人は実に不思議な人である。三井の人事部長とか、理事とか、重要な地位にあったのだから、その間に幾らでも金をためることも出来たし、又他に有利な事業をはじめるように準備をしておくことも出来た筈である。それを少しもしないでいたのだから全く驚異的である」と言ったのを思い出した。信仰のない人から見ると不思議に思われた中にも、そうした戦いがなされたのである。そこに又信仰者の存在の意義があると思った。(藤本正高著作集374頁より引用)

 私はこの記事を読んで、このK氏に小林儀八郎さんは導かれたのでないかと思った。もちろん今となっては確かめようのないことではあるが。そしてせめてこのK氏が誰であるのか知りたかったがそれ以上の探索はやめにした。

 ところで、儀八郎さんの奥様は戦後信仰を一旦捨てたとお嬢さんから聞いていたが、そのこともこの著作集は意外な光を当ててくれた。著作集第5巻所収の日記の次の叙述だ。 時は昭和23年1月1日の事である。

1月1日(木)晴 川崎市馬絹の元の兵舎の一偶を住居として、家族八人で新年を迎える。老母は病人同様に床にあるが、その他は皆元気である。「聖なるかな」の賛美歌を一緒に歌い、ロマ書二章を輪読する。この困難な時代にも家族一同御守りの中にあるのを感謝する。日本の国が今年こそ一段と神に近づくように祈る。午後小林正子さん来訪。すきやきをつつきながら色々と語る。フィリッピンで亡くなられた儀八郎君のことを思う。夜は長谷川周治氏より依頼されたパンフレットを訂正する。(同書132頁より引用)

 ここにご主人を亡くして二年ほど経ったお母さんの姿があった。だから、この時はまだ信仰者小林正子は健在であったと言える。

私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇139・15〜16)

2015年2月26日木曜日

一冊の本(1)


 先頃一冊の本が上梓された。一人のご婦人の手になる自費出版の御本である。このブログでも何度かご紹介して来た小林儀八郎さんの書簡が一挙に公開される運びになった。7、8年前にお手紙を見せていただいた時は、無造作にひとまとめにされていたようにも記憶する。一枚一枚は達筆には違いないが、癖もあり、私たちが現在使わない言葉もあり、いっぺん読んだだけでは判読が困難なものもあった。しかし、お手紙を拝見するうちにこれは大変な信仰の証ではないかと思った。

 お見せくださったきっかけが何だったかはすっかり忘れてしまったが、私は思わず、この手紙の活字化を提案していた。お見せくださったご婦人は儀八郎さんのお嬢さんであった。その時は、長年闘病しておられたお母様を天に送られ、心なしかホッとされており、まだご主人もお元気でまさかその後難病を患われ召されるとまでは思いも至らない時であったように記憶する。しかし、その方は50数通余りの手紙を一枚一枚コピーしては私のところにせっせと郵送してくださった。大変なコピーの量であった。私ももはや後には引けなくなった。でもお互いにのんびりやりましょうと言い合っていた。

 手紙は召されたお母様が長年秘かに子どもにも所在を明らかにせず、封印しておられたものである。それだけ戦後のお母様の生活は儀八郎さんを戦争で亡くし、女手一つで生活を切り開いて行かなければならなかった生活の厳しさ・苦しさが忍ばれた。本にされて書簡を改めて読む時、どうしてこんな言葉を封印されたかと不思議に思うが、一時は信仰も捨てるほどに戦後の生活は悲惨を極めたのでないかと想像する。それだけにこのような形で私たちが自由に読めるようになったところに、やはり全能の主の御手、またひとえに主イエス様に祈りを積み重ねて来られた儀八郎さんの信仰の賜物とさえ思えてならない。

 雑文風に、少し書き連ねたいと思う。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2・13)

2015年2月7日土曜日

「歩きなさい」

アオサギ?(2015.2.6 倉松川縁り)

 昨年の11月中旬から左腰が急に痛み、心配のあまり、整形外科で見てもらった。レントゲン撮影の結果、腰部の一番下の骨と骨の間隔が他の箇所とはちがって極端に狭まっており、「この隙間がないためにそのような症状が出ています。湿布薬をあげましょう。もし痛みが増すなら、さらに痛み止めの薬を出しましょう。」と言われて帰って来た。ところが、その後も痛みは増すばかりで、今度は腰だけでなく、左足にまで痛みが広がり始めた。再び病院に駆けつけた。こちらの再度の訴えに対してほぼ同じ答えが戻ってきて、痛みが出ないような姿勢を探してみることですね、とも言われた。

 かれこれするうちに、痛みは一段と激しくなり、どうすることもできずお手上げ状態になった。その折、ふっと数年前にやはり足腰が立たず、一歩も歩けなくなった時に治療に通った接骨院のことを思い出した。当時ほとんど歩けない状態であったが、その接骨院では歩くことを勧められた。「とにかく歩くことですね」と言われた。歩けないで困っているのに、「歩け」とは何という患者に対する助言であろうかとも思ったが、その接骨院の先生は私とは信仰をともにする主にある兄弟という互に信頼できる間柄であったので、素直にしたがった。もちろん、その間も針治療を試みたり、電気治療を行なったりしてもらった。そしていつの間にか、多分一二ヵ月かかったように記憶するが、歩けるようになり、家に閉じこもり前途を悲観するばかりであった私が物の見事回復した。その経験を思い出したのだ。

 今回も再び彼のところに助けを求めて駆け込んだ。その時はすでに12月に入っており、いよいよ冬の寒さに突入する頃であった。しかし私にとって、まさしく「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(マタイ9・12)の心境で何とか救い出して欲しいという思いがしきりだった。私がする腰痛の症状、整形外科での診断の説明をしばらく聞いた後、彼は私の腰痛の原因は仙腸関節がバランスを崩したことによると説明してくれた。そしてそれ以後、電気治療、ウオーターベッドによる体幹治療をふくめ、入念なマッサージを受け入れることになった。それから今日までほぼ二ヵ月間通い続けている。ところが昨日はいつになく調子がよく、自転車でその接骨院にまで片道50分足らずの距離を、往復し帰って来てもそれほど苦にならない程度に回復した。

 治療を受けながら、思わず、彼に「最近症状が大分改善されて来た。どうしてなんでしょうね。」 と問うてみた。それに対して帰って来た答えは「そうですか、治療の成果があらわれてきたんですね」という答えでなく、意外な答えが戻って来た。「それは腰に力がついて来たからですよ。歩かれたせいですよ。私たちのからだには様々な機能が備わっていて、仙腸関節のバランスも歩くことによって保たれるように備えられているのですよ。不思議ですね。そのように人のからだは神様によって造られているのですよ、現代人はそのことを忘れていますね。もし人々がもっと歩くことを心がけたら、今の医療費は随分少なくなり、病院もはやらなくなりますね。神様は私たちに歩くことを始めとして、様々なからだの機能を保てるように備えてくださっているのですよ。」

 聞いていてなるほどだと思って聞いていた。製造者は製品の一切を熟知している。私たちのからだは創造主である神様が造られた。そのお方の創造のわざは私たちの想像を超えている。治療はそのことを謙虚に知りながらする医療行為に過ぎないという思いが伝わって来て、彼の治療への感謝と同時に、私には創造主がいかなる時にも必要な助けを与えてくださっている方だという言いようのない感謝の思いに、満たされたからである。それは、ここ数日来朝夕読んでいるスポルジョンの霊想をとおして導かれている感謝と相通ずるものを感じたからである。次の箇所もその一つと言えなくはないのでなかろうか。

 その箇所を書き写してみる。2月4日の「朝ごと」にからの抜粋(松代幸太郎氏の訳)である。

 主がこれを愛せられる。(ホセア3・1 口語訳)

 主にある友よ。あなたの経験をかえりみて、主なる神が荒野であなたを導かれた方法を考えよ。どのようにして神が、あなたに日ごとに衣食を与えられたか。どのように神が、あなたの不都合な行為をしのばれたか。どのように神が、あなたのつぶやき、エジプトでの美食へのあこがれを聞き捨てにされたか。また岩を開きあなたを助け、天よりマナを降らせてあなたを養われたかを思え。すべてのあなたの悩みの時において、神の恵みがいかに満ち満ちていたかを考えよ。

 神の血潮があなたのすべての罪のゆるしとなり、神のむちと神の杖がどれほどあなたを慰めたかを思え。このように過去における神の愛をかえりみてのちに、信仰をもって神の将来における愛を展望せよ。なぜならキリストの約束と血潮は、ただ過去に属するばかりではないからである。あなたを愛し、あなたの罪をゆるすことを続けられる。

 たましいよ、あなたの愛は新たにされないのか。あなたはさらにいっそうイエスを愛するに至らないか。あなたが無限の愛の平原を飛んでゆくとき、あなたの心は燃え、あなたの主なる神の御手のうちにある喜びを感じないか。たしかに私たちが主の愛を思う時、私たちの心は内に燃え、私たちはいよいよ深く主を愛するに至るのである 。