2015年2月27日金曜日

一冊の本(2)

フィリッポ・リッピ『聖母子像』模写 小早川順子絵

 今回の本作りは三人で始まった。私を除いたお二方は過去に本作りの経験があり、一人の方は印刷の専門家であった。だからズブの素人は私一人だという塩梅であった。しかもお二方にとってはいずれも小林儀八郎さんは父であり、また弟のお姑さんとなるはずの方であったという間柄であるのに対して私だけは全く無縁の関係であった。

 ところがお嬢さんであるご婦人も生後間もなくお父さんが戦病死されており、父親の記憶が全くないと言う。また戦後未亡人となられたお母さんからも前回述べた事情があったのだろう、詳しくお父さんのことは聞かされていなかったようだ。ところが、今回お父さんが戦前就職された三井物産の人事消息が残されており、その動静が逐一記録されて東京三井文庫にあることが知人の助言によりわかった。早速、文庫に赴いて古資料をお嬢さんと二人で引っくり返しながら調べてみた。こうして就職以来のお父様の足跡の一部始終が70年の年月を隔てて一挙に明らかになった。

 それから、もう一つの資料として藤本正高著作集の存在がある。私はこの人物については小林さんの手紙に接するまでは何も知らなかった。しかし、この手紙をひもとくうちにこの人物について関心を持ち、著作集を古本で買い求めた。その中にはチンデル伝、ブレーキーのリビングストン伝の翻訳などがあり、大変感銘を受け、このブログでもご紹介したことがある。しかし、その本の中に小林儀八郎さんの名前が実名で登場することにはびっくりさせられた。しかもそれは一度や二度ではなかった。そのことは本の中でご紹介させていただいた。

 ところで、新潟の学校を卒業した儀八郎さんが上京し東京生活を始める中でどうして福音に接したかは全くわからなかった。ところが、著作集第4巻の『信仰と職業』という昭和35年に書かれた短い随想の中に次の記事があった。

K氏は長い間三井物産の重役であり、また会社内で聖書研究会を開いて伝道をされた人である。その導きを受けて信仰にはいった人の中で、四名ほどは私とも親しい交わりをしていた。というのは、その中三名ほどは既に召されたからである。その時のことなどを承りたいと思ったのであるが、氏はそうした事については語られず、そのような実業界にあって、如何に多くの信仰的戦いがあったかについて語られた。そして私が「信仰と職業」という題を出したので、自分の古傷にさわられるような思いがすると言われた。その時私はやはり三井にいた人が、「Kという人は実に不思議な人である。三井の人事部長とか、理事とか、重要な地位にあったのだから、その間に幾らでも金をためることも出来たし、又他に有利な事業をはじめるように準備をしておくことも出来た筈である。それを少しもしないでいたのだから全く驚異的である」と言ったのを思い出した。信仰のない人から見ると不思議に思われた中にも、そうした戦いがなされたのである。そこに又信仰者の存在の意義があると思った。(藤本正高著作集374頁より引用)

 私はこの記事を読んで、このK氏に小林儀八郎さんは導かれたのでないかと思った。もちろん今となっては確かめようのないことではあるが。そしてせめてこのK氏が誰であるのか知りたかったがそれ以上の探索はやめにした。

 ところで、儀八郎さんの奥様は戦後信仰を一旦捨てたとお嬢さんから聞いていたが、そのこともこの著作集は意外な光を当ててくれた。著作集第5巻所収の日記の次の叙述だ。 時は昭和23年1月1日の事である。

1月1日(木)晴 川崎市馬絹の元の兵舎の一偶を住居として、家族八人で新年を迎える。老母は病人同様に床にあるが、その他は皆元気である。「聖なるかな」の賛美歌を一緒に歌い、ロマ書二章を輪読する。この困難な時代にも家族一同御守りの中にあるのを感謝する。日本の国が今年こそ一段と神に近づくように祈る。午後小林正子さん来訪。すきやきをつつきながら色々と語る。フィリッピンで亡くなられた儀八郎君のことを思う。夜は長谷川周治氏より依頼されたパンフレットを訂正する。(同書132頁より引用)

 ここにご主人を亡くして二年ほど経ったお母さんの姿があった。だから、この時はまだ信仰者小林正子は健在であったと言える。

私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇139・15〜16)

0 件のコメント:

コメントを投稿