2015年11月29日日曜日

天の配剤

彦根城中堀から石垣内の母校を眺めて(11/6)

 昨日、一枚の葉書が届いた。初めて社会人になった時の同僚でかれこれ50年来の親交をともにしている友人からであった。ここ数年ご無沙汰していたが、今年は珍しく夏に二度ほどお会いした。葉書には、「11月26日(木)JR彦根駅で」と記されていた。例の茶目っ気たっぷりの心情を思い遣った。ところが、日付を見て驚いた。

 実は、その日、私も知人の葬儀で彦根に帰り、同日、彦根駅で乗り降りしていたからである。文面には、北関東に住んでいるその友人がいつもは通り過ぎてしまう駅だが、今回は途中下車し、少し城周辺を歩きながら、私のことを思ったと書いてあった。

 ちょうど一月前、家内の友人が召されたので、急遽帰ったことは先のブログで書いた通りである。その上、その帰りには高校時代の友人夫妻とたまたま米原駅頭で出会い、新幹線車内をご夫妻と仲良く談笑しながら帰ったことも書いておいた。

 ところがこの一月ばかり、私は四回ほど関東と彦根を往復した。先の椿事(友人と出会ったこと)はその劈頭を飾る出来事であった。それからの出来事は私の想像を絶する出来事と多くの友人との出会いがあった。そしてその動き回った一月間の最後を締めくくるかのような冒頭の葉書の出現であった。

 私は彼への返書に次のように書いた。「天の配剤は、あわよくば、君と私とを彦根で再会させられる手はずであった。(ところが、そうはならなかった)思えば、高校時代、私は自らの幻想かも知れないが、彦根駅の上りホームに佇む亀井勝一郎を見かけたことがある。私は心の中で目礼をして通り過ぎざるを得なかった(※)、とつい最近知遇を得た北海道在住で高校の三年先輩の方に書き送ったばかりである。”駅頭に 行き交いしは 悲しきか” 」

 天の配剤は今回ばかりは私とこの友人が駅頭で会うことを許されなかったが、時刻はどうかわからぬが、同日に友人は大阪へ「ショスタコーヴィチ」を聴くための旅路へ、私は東京への帰路という形で双方思いは異なったが、彦根駅でのニアミスを秘かに計画されていたのだ。

 冒頭の新幹線車内でお会いした高校時代の友人とは今週末の土曜日には東京で行う同期会で再会する。そして再来週の日曜日には北関東のその友人の住まう足利駅を通過して伊勢崎まで行く予定がすでに三ヵ月以上前から決まっている。この友人のひそみに習って私も途中下車して「12月12日 東武線足利市駅前で」と記して葉書を投函するか、いや、それとも彼の家を三度訪ねるとするか。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(伝道3・1)

(※私が同氏を見たのは多分晩秋の季節だったと思う。長身の亀井勝一郎氏はあのきれいな白髪をコートであったか、オーバーであったかに、身を包み、鋭敏でかつ柔和な眼差しを宙に向けておられた。いかにも孤高という感じを受けた。どうして田舎の彦根くんだりにあの時代、昭和34、35年ごろだと思うが、あらわれたのか、今もって謎である。だから「幻想」と書いた。こんなことは彼の年譜を見れば明らかなのだが、私の一方的な片思いが破れるのも恐いものだ。)

2015年11月4日水曜日

召された友のこと(尊い一語)(下)

「待望」H.H作

 ところで、召された友は、家内の高校・短大の同級生でごく親しかった。そして彼女のご主人は学科こそ違うが同じ短大で、ともに美術部の仲間で、互いに相見知っている間柄であった。だから家内はご主人と50年ぶりに会っても違和感はなく、ご主人も普段から奥さんを通して家内のことも聞かされていたであろうから、懐かしい再会であったに違いない。こんなことなら、ご主人ともっと早く会っていれば良かったと、家内は言ったがこれも後の祭りである。でも、このようにかけがえのない方を失った悲しみを共有し、主イエス様の復活にあずかる希望を持つことで、これからは私も加わっての新たなご主人と私たちとの関係が始まったと言えなくもない。

 朝早く、当地を出たが、火葬も終え、米原駅に向かった時にはすっかり日も暮れ始めていた。新幹線の中で、二人してひとしきり故人の思い出を語り合おうと思っていた。ところが、駅頭で椿事が発生した。自由席の列で待ち、すでに10人近い人が私たちのあとに並んでいたが、列の前を急いで歩いてくる私より背の高い人がいた。見覚えのある顔だった。高校二年の時に一緒のクラスになったことのあるIk君であった。思わず声をかけた。こちらの呼びかけにびっくりして、「よーく、見つけてくれたね」と言いながら、「オーイ、同級生がいるからこっちへ」と先にすたこら歩いていた奥さんを呼び戻された。

 私たち夫妻は先頭に並んでいたからいいものの、彼らは他の列車に乗ろうと移動していたのを私が呼び止めた形になり、おまけに懐かしさのあまり、並んでいる他の方には申し訳なかったが会った勢いに任せて四人で一団となって新幹線に乗り込んだ。その上、最初こそ通路を挟んで三人席と二人席に四人が並んで話し合っていたが、まわりの方の迷惑になるので、そのうち主人は主人同士、奥さんは奥さん同士で話し合えるように席を移動した。

 話し合うと言ってもIk君と私は高校時代、席が氏名の関係で端と端同士であったのでほとんど話したことはなかった。実質的にはこの時が初めての話しになったのではないか。まして家内同士は全くの初対面であった。ところが東京駅で別れる際には奥様が「またお会いしたいです。」と言われた。だから私たちが二時間余互いに話が弾んだことは言うまでもない。しかも彼らも実は葬儀の帰り道だった。私たちは日帰りの往復で喪服だから一見してそれとわかるが、彼らは平服に着替えていたので気づかなかったが、お聞きすると奥様のお母様が94歳で亡くなられ、やはりその葬儀の帰り道だと言われた。

 家内同士は「死」の問題、「介護」の問題を話し合ったようだ。私たち主人の方は高校卒業以来の互いの歩みを語り合うことになり、畢竟、私がなぜイエス様を信ずるに至ったのか詳しい説明を求められる羽目になってしまった。私はこれまで青春18切符の愛用者で、車内で初見の方と会い親しくなることはあったが、同級生に会うことはなかった。ところが今年は新幹線に乗る機会が増え、どういうわけかこれで今年三度目の同級生との出会いを経験している。これはどういうことなのだろうと思う。

 それやこれやで先週は日曜日から土曜日まで一日として落ち着いた日が過ごせなかった。途中の金曜日には家庭を開放させていただいてたくさんの方が集まられた集会もあった。でも、すべて恵みの日々であった。ところが幕締めの土曜日にとんでもないアクシデントに見舞われた。それは町田喜びの集いに日帰りで参加し、帰り電車は小田急多摩センターを8時半過ぎに出たのだが、家に着いたのは何と明くる日、日曜日の朝4時半であった。途中先行する電車と車の衝突の事故があったようで、各電車とも動かなくなってしまい、事故現場での復旧が捗らず大幅に時間を喰ったわけである。とんだ災難であった。気の短い私は情報が十分伝わらないもどかしさに、何度も車掌にかけあって「どうしているんだ」と言いたくなり、とうとう我慢できず、詰問に出かけた。家内は家内で「日本人はどうしてこう忍耐強いのだろうか」と半分あきらめ切っていた。

 たくさんの人を巻き込んだ騒動であったが、私の信頼する東京新聞も地方版の片隅に翌朝ほんの少し申し訳程度に掲載しただけであった。当日は日本はあげて私にとっては何が何だかわけのわからないハロウィーンに人々が血眼になっていたからであろう。ただ「警察は事故か自殺か慎重に捜査している」と記されていた。改めて人身事故であることを知るに及んで複雑な思いに捕われざるを得なかった。一人の人間の命がかかっての大混乱であったからである。

 ほとんど寝不足で臨んだ日曜日の礼拝であったが、礼拝の後、一人の方が小さい時自立を危ぶまれたご自分の息子さんが 、今日も一人で町田の集いに泊りがけで出かけていることを感謝の思いで報告し、ある時、御代田の会堂に虻が入ってきたが、「虻もイエス様の許しなしに刺せません」と言い、人々を安心させたその信仰にいつも自分たちは親だけれども脱帽していることを喜んで紹介された。その途端私も了解した。恵み多い一週間の歩みにもかかわらず、昨晩から今朝にかけて経験した出来事はいったいどういう意味があるのだろうかと考えていたが、このこともやはりイエス様の許しのもとで起きたのだ、と。そもそも主イエス様のご支配なしに人に何が出来るのだろうか。

 召された友はこのこともまた私たちに問いかけて召されたに違いない。もう一度彼女の言葉を記しておきたい。

 遅かったけど、私は生きたイエス様に会った

人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。(箴言20・24)

2015年11月3日火曜日

召された友のこと(尊い一語)(中)

27日当地で行われた別の方の葬儀で喪主からいただいたお花

  葬儀の日、ご主人やお子様方にお会いした。棺に納められた彼女は、出席された多くの会葬者の手により美しいお花で飾られた。三人のお子様方、ご主人の涙はひとしおであった。何度かうめき声に似た嗚咽も聞かれた。その中でも一段と大きな声でその死を悼み嘆かれたお方があった。それは一団の男性の中から聞こえてきた。彼女の兄弟である方の声のようであった。71歳と言う死はやはり今日では早すぎると言ってもいいだろう。

 火葬を待つ間、私は彼女の次兄に当たる方とたまたま隣席になった。私は前回の記事の内容をその方にお話した。その方は葬儀で初めて妹がキリスト者であることを知ったと言われた。兄弟も多く六つも歳が離れておられたからそれもやむを得ないことかも知れない。ところが、その方が私のいとこ※と中学・高校が同じであることを知って互いに驚き合った。その上、今も親交のある間柄であることが話の端々から窺い知れた。

 その奇遇さに驚いたが、彼女からはそのお兄さんの存在は一度も伺ったことはなく、微かに家内が、お兄さんの中で一人だけ過去に教会に行っていた人がいるという話を聞かされていた程度であったが、どんなお兄さんでどこにお住まいの方かも私たちには知らされていなかった。私たちは地団駄踏んで悔しがった。でもこれも彼女がイエス様にあって私たちに遺して行ってくれた真実のような気がし、過去を振り返るのでなく、召されて行った彼女と同じように将来のこと、主イエス様と皆でお会いする日を待ち望むようにと彼女が語っているように思い、胸は新たな喜びで満たされ始めた。

 帰って来てその方が書かれた御本を読んだ。それは『世界が友達(定年からの海外留学)』(朝日新聞社2005年刊行)という本である。前回、私は彼女のことを天女のようだと書いたが、お兄さんもまたざっくばらんな、何ごとも包み隠しなく話されるお方だったが、この本を読んでなお一層お兄様の人柄に接し、彼女が私たちの間で示してくれたあの印象深い有り様の共通点をより深く知る思いだった。

 そして、この本にも短いが、しかし痛切な叫びが記されていることに心を打たれずにはおれなかった。こんな件(くだり)の文章だ。

 長男の昌介が精神病院に入院したのは、高校に入学して間もなくのこと。函館の病院だった。その後、妻が主治医に相談して、1986(昭和61)年12月、児童部のある札幌のS病院に転院した。
 札幌の病院に昌介を預けての帰り道、閉鎖病棟の鍵がガチャンと掛かったとき、病棟の中から「お母さん! お母さーん!」と叫ぶ昌介の声がした・・・と妻がたどたどしく話し始めた。暗く重い口調だった。話を聞きながら私は、言いようもなく悲しく情けなくて、地獄に落ちるとはこういう気分か、と思った。あのときの絶望感は今も忘れられない。(同書196頁「閉鎖病棟の恐怖」より引用)

 このような心の痛みを経験されているお方が、召された彼女のお兄さんであった。彼女はもちろんお兄さんのこの苦しみを知っていたことだろう。それだけでなく、彼女自身の苦しみ悩みも一部を私は彦根で車に乗せてもらった中でもお聞きしたが、更に内面的に様々な自己矛盾を感じ悩んでいたことを私たちは死後、葬儀の席上で他の方から知らされた。彼女はそれらを封印して、ただ全てをご存知であるイエス様を信じて召されて行ったのだと改めて思わざるを得ない。

 それにしても家族の救いは主の約束なのだと思いを新たにした。果たせるかな、スポルジョンの今週の日曜日の「朝ごとに」のことばは次の引用聖句であった。

"The church in thy house." Philemon2
あなたの家にある教会 ピレモン2

彼は問うている。
Is there a Church in this house? Are parents,children,friends,servants,all members of it? or are some still unconverted? Let us pause here and let the question go roundーAm I a member of the Church in this house?

(※このいとこのことは以前書いたことがある。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html

2015年11月2日月曜日

召された友のこと(尊い一語)(上)


 様々な一語がある。有名なのは「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、地球の全表面は変っていただろう。」言わずと知れた、パスカルの警句だ。しかし、私たちは、というのは家内と私のことだが、ここ数週間、学生時代から親交のあった友達が家内宛に寄越した一枚の葉書に記されていた言葉に魅せられている。

 それは10月5日の消印のある、「主は生きておられる」という冊子を家内がお送りしたお礼を兼ね、近況を記された葉書の末尾にあった文句である。

 遅かったけど、私は生きたイエス様に会った。貴女のお陰です。

 その葉書を受け取ってしばらくして、寒くなり衣替えの準備をするため、家内が押し入れを整理するうちに、一冊の古ぼけたサイン帳を見つけた。それは1966年当時のものだから、かれこれ50年経ったものだ。当時女子学生の間では卒業記念にお互いに書き合う習慣があったのだろう。嫁入りし、あっちこっち住まいが変ったにもかかわらず、未だに残っていたのは、普段はすっかり忘れてはいるが、それなりに大切にしていた心の宝物だったにちがいない。10数人の乙女がそれぞれ書き連ねているサイン帳の冒頭に同じ方が家内に寄せた次の文句があった。

 何処までも、何時までも、貴女と共に。そして、貴女が其処にいる限り、私は貴女について行く。S41.2.22

 短いが、この言葉の重大な意味を量りかねて、私と家内は、彼女は皆んなのサイン帳に多分同じ文面を書き連ねたのだろうと結論づけた。

 ところが、先週の月曜日10月26日に、近江八幡の主にある兄弟から、その彼女が心筋梗塞で突然召されたことを知らされた。私たちは呆然とした。特に家内は「どうして」「来週の近江八幡喜びの集い(11月7日〜8日)で会うことを楽しみにしていたのに」「どうして」と叫んでいた。

 私はここ10数年、3ヵ月に一回のペースで近江八幡の礼拝に出席しているが、遠方故に、大抵は一人で出席し、家に帰ってから、集会の様子を家内にも話すのを常としていた。その折り、家内の学友である彼女が特にここ一年ほどの間にすっかり変ったことを報告していた。彼女がそれまでの長い信仰生活の果てに最近「私は長い間眠っていました。今目ざめました」と皆さんの前で言われたとお聞きしていたからである。

 確かに彼女はもともと天女とも言うべきパーソナリティーの持ち主であったが、主イエス様の救いを自己のものとしてからの彼女の一挙手一投足はさらに磨きがかかり、座談のおりなど、みんなの心が自由になり、心置きなく互いの胸襟を開くことの出来る一服の清涼剤の如き感がした。

 8月23日、私は近江八幡の礼拝に出席し、帰りは私をふくめ三人の者が車で安土城見学というので送っていただいた。その中に彼女もいた。その後、お一人は安土駅から茨木に帰られ、彼女と私は一緒に彦根まで帰って来た。彦根に降り着いてからは、アルプラザの駐車場に停めてあるという彼女の車で、彦根市内の別の友人をともに訪ねた。その時、少し体がフラフラしているようで車の運転は大丈夫なのかなと一瞬思うことがあったが、そんなに気にはとめていなかった。振り返って見ると後にも先にも彼女と一対一で行動を共にしたことはこれが最初で最後になってしまった。

 10月28日 、葬儀があった。私たちも急遽新幹線で米原まで直行し出席した。その前日27日、こちらでの知人の葬儀を終えたばかりであったが、取るものも取りあえずという形での出席になった。家内は弔辞を読み、茨木の方は終りの祈りをしてくださった。そこには大きな祝福が待っていた。浄土真宗の中で生まれ育まれたご主人は奥様の信仰を尊重され、遺族代表のご挨拶の中で何度も

 キリストでやって良かった

と言われた。真実は短い一語に尽きる。

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ9・2)

(写真は、火葬場に移動する際にマイクロバスから眺めた湖北の佇まい。雲に隠れているのは伊吹山。)