彦根城中堀から石垣内の母校を眺めて(11/6) |
昨日、一枚の葉書が届いた。初めて社会人になった時の同僚でかれこれ50年来の親交をともにしている友人からであった。ここ数年ご無沙汰していたが、今年は珍しく夏に二度ほどお会いした。葉書には、「11月26日(木)JR彦根駅で」と記されていた。例の茶目っ気たっぷりの心情を思い遣った。ところが、日付を見て驚いた。
実は、その日、私も知人の葬儀で彦根に帰り、同日、彦根駅で乗り降りしていたからである。文面には、北関東に住んでいるその友人がいつもは通り過ぎてしまう駅だが、今回は途中下車し、少し城周辺を歩きながら、私のことを思ったと書いてあった。
ちょうど一月前、家内の友人が召されたので、急遽帰ったことは先のブログで書いた通りである。その上、その帰りには高校時代の友人夫妻とたまたま米原駅頭で出会い、新幹線車内をご夫妻と仲良く談笑しながら帰ったことも書いておいた。
ところがこの一月ばかり、私は四回ほど関東と彦根を往復した。先の椿事(友人と出会ったこと)はその劈頭を飾る出来事であった。それからの出来事は私の想像を絶する出来事と多くの友人との出会いがあった。そしてその動き回った一月間の最後を締めくくるかのような冒頭の葉書の出現であった。
私は彼への返書に次のように書いた。「天の配剤は、あわよくば、君と私とを彦根で再会させられる手はずであった。(ところが、そうはならなかった)思えば、高校時代、私は自らの幻想かも知れないが、彦根駅の上りホームに佇む亀井勝一郎を見かけたことがある。私は心の中で目礼をして通り過ぎざるを得なかった(※)、とつい最近知遇を得た北海道在住で高校の三年先輩の方に書き送ったばかりである。”駅頭に 行き交いしは 悲しきか” 」
天の配剤は今回ばかりは私とこの友人が駅頭で会うことを許されなかったが、時刻はどうかわからぬが、同日に友人は大阪へ「ショスタコーヴィチ」を聴くための旅路へ、私は東京への帰路という形で双方思いは異なったが、彦根駅でのニアミスを秘かに計画されていたのだ。
冒頭の新幹線車内でお会いした高校時代の友人とは今週末の土曜日には東京で行う同期会で再会する。そして再来週の日曜日には北関東のその友人の住まう足利駅を通過して伊勢崎まで行く予定がすでに三ヵ月以上前から決まっている。この友人のひそみに習って私も途中下車して「12月12日 東武線足利市駅前で」と記して葉書を投函するか、いや、それとも彼の家を三度訪ねるとするか。
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(伝道3・1)
(※私が同氏を見たのは多分晩秋の季節だったと思う。長身の亀井勝一郎氏はあのきれいな白髪をコートであったか、オーバーであったかに、身を包み、鋭敏でかつ柔和な眼差しを宙に向けておられた。いかにも孤高という感じを受けた。どうして田舎の彦根くんだりにあの時代、昭和34、35年ごろだと思うが、あらわれたのか、今もって謎である。だから「幻想」と書いた。こんなことは彼の年譜を見れば明らかなのだが、私の一方的な片思いが破れるのも恐いものだ。)