2018年6月23日土曜日

人を繋ぐもの

漁村の風景(離島沖の島)

互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。(コロサイ3:14)

 木曜日は高校時代の同級生11人(内女性二人)と有楽町の「慶楽」でともに会食した。5月の中旬に、同級生二人が和歌山、近江八幡から6月21日(木)に上京するので集まりませんかと、東京在住の同級生の「幹事」の方からていねいなお誘いのメールをいただいた。にもかかわらず、私は参加する意思はなかった。たまたま連絡のあった週にはすでに中学の方の同級会で故郷の琵琶湖の離島沖の島に出かける一泊二日の旅行に出かけようとしていた矢先であったからである。

 ところが、一週間ほど前、有楽町のその集まりに参加する船橋の友達から、会って是非話がしたいから、出て来いと電話があり、それではと重い腰を上げて出かけることにした。出かけて良かった。11名とは人数的にもちょうど良かった。一同で丸テーブルに腰掛けて互いに話し合うことができたからである。

 もともと11名のうち、二人だけが一度だけ同じクラスだっただけで、その人たちとも在学中特に親しかったわけでもない。だから、ほとんどの方とは卒業後親しくなったばかりの関係である。その内の一人の方とは高校時代全く面識がなく、卒業以来、友人たちを介して風の便りにお名前をお聞きしていて、一度お会いしたいと思っていたが、その方とは今回初めてお会いした。

 しかも宴も閉じて一旦解散して、それぞれ散っていったはずなのに、地下鉄構内でまたお会いして、改札口を前に短時間であったが、その方の高校以来の歩みについて濃密なお交わりができた。彼は己が人生を語り、「これも運命だな」とつぶやいた。そして慌てて「いや神様かな」と付け加えた。

 宴の中で中心的な人物(彼とは三年前、近江八幡の自宅を訪れ、二時間あまりお交わりしたことがある)が、「地に宝を積むな、天に宝を積め」と言うが、自分たちは俗的だが、私を指して、この人は人格高潔で天に宝を積んでいると曰った。私はとんでもないとばかり、自らがいかに下等な罪深い人間であるかを証し、イエス様によって救われたのだと、初めて他の方々に自らの信仰について話することができた。私にとっては想像もしなかった話の展開となった。

 さて、私と是非話がしたいと私をその宴に引っ張り込んだ方との交わりを最後に記しておこう。彼がもともと私を呼び出したのは、三年ほど前、新幹線で米原から東京までたまたま双方とも夫婦でいたのだが、一緒に乗り合わせて帰って来たことがあった。二時間半近く、四人で互いに話し込んだのが機縁であった。

 その時、私たちは夫婦して自らのキリスト信仰を証しした。彼は大学がミッションであった。また先年脳梗塞を患い、体の弱さも覚えられたのではないか。雑誌を読んでいて「キリスト教」という名辞に出会うと君のことを思い出していた。それでもっといろいろなことを話したかったのだと言われた。私も同君と同じクラスであった時の印象を語った。

 そのうちに、同君がこの前、新幹線の車内で君が自分にいじめられたという話をしていたが、家に帰って何をいじめたのか考えに考えたが、ひょっとしてこのことでないかと言うのである。運動会の仮装行列の準備をしている時に、まじめ(と思われる)組の連中が提案して話が軌道に乗りかかって来た時に、「そんなのやめてしまえ」と自分が言っておじゃんになったことが原因じゃないか、君はまじめ組だったから、そのことに思い当たったというのであった。

 私はそのことも忘却の彼方であるし、第一、新幹線の中で「君にいじめられた」なんて明け透けに暴言を吐いていたことさえ忘れていた、いい加減な自分を改めて思い知らされた。ただ同君の存在は当時英文読解の授業中に読まされた"Three men in a boat"の主人公の一人のイメージがあったのだと弁解した。これは言わずと知れたJerome K. Jeromeの作品である。どんな内容であったか思い出せない。家に帰って調べてみると、丸谷才一が翻訳していることを知った。今度一度邦訳で読んでみたいと思わされた。

 あれやこれやでここにはまだまだ書ききれない11人の同級生との2時間余りの会食を挟んでの真実な交わりがあった。この11人を結びつける紐帯は何なのであろうか。改めて考えさせられたが、「愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ3:14)としか言えない。

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