2018年6月27日水曜日

主は仰せられる


あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1・3〜6)

 今日は市川の方々のところに出かけ、聖書をともに学び、そのあと三人の方々とお交わりした。最初の方はもう30年近くお交わりをいただいている方だが、こうして個人的にお交わりしたのは初めてのような気がする。そのあと初めて参加してくださった方とその方を誘われた友人の方とも一緒にお交わりした。

 聖書の学びはピリピ人への手紙に表現されている集会内の一致の実際を探って見た。8年ほど前に那須で初めて学んだ時の原稿をもとに話させていただいた。でも十分お伝えしたいことも伝えきれず、一種の敗北感をいだいたままお交わりに入った。ところが、あとでお交わりした方々は、私がもう一つ用意していて実際はしなかった「主イエス様を知る」という話しに即するかのような真剣な質問をしてくださった。

 主を真剣に求められる方との出会いはいつであっても楽しいし、喜びであり、感謝である。でも家に帰ってきたら、今日の暑さでぐったりきて、その上、メッセージが思うようにできなかったことで落ち込んでいたこともあり、休息を取った。そのあと自らの録音を聴いてみたが、ありのままの自分が出ていることに何かほっとさせられた。今度メッセージを依頼されたら、やはりよく祈って備えようと思った。もちろん、背後で多くの方々が祈っていてくださったのだ。そのことを忘れずに感謝したい。

 さて、そうしてやっと落ち着いた思いで、階下に降りたら家内がうれしい話を聞かせてくれた。先ほど、聖句の看板を見て、この聖句を写して行きたいと通りがかった中年の男性の方が言ったということだった。私たちは家庭集会のたびに聖句を看板に出す。もう字の上手い下手は勘弁してもらっている。その方が集会のことをさらに聞いてきたので、家内は次のように答えたという。「組織もない、献金制度もない」けだし至言である。こんな純粋な「主イエス様」だけを中心に生きようとしている者たちがいる限り、主は「集会」をきっと支えてくださると思った。

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