2018年7月4日水曜日
紫陽花のひとりごと
わたしに聞け。・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。(イザヤ46・2)
すっかり暑い夏になってしまいましたね。連日のサッカーフィーバーも日本チームの善戦による惜しい敗戦の挙句あっけなく幕を閉じましたね。さて、今日は10日ほど前に私が見聞きしたことをお話ししましょう。
その日、私は店主の方がとっておきのお客様にと花瓶に活けられたのです。もちろん、私とて畑でのびのびと羽根を伸ばして生きている方が良いに決まっています。そこで人知れず枯れていくのが私の使命ですから。でも、この時は切られながらも何となく待ち構えている僥倖に心がときめいたのです。
その日、室内にお客さんが六人入ってこられました。皆さん、立席のテーブルに誰がどこに座るかお互いに譲り合いながら、庭の緑滴る木々に一同で見とれておられ、部屋の隅にある私に目を留めておられなかったようです。かえってそれは私にとって好都合でした。皆さんのお話をゆっくりお聞きできたからです。
こういう席に立ち会うのはもちろん私はこれが最初で最後になりましたが、私にとって幸いでした。この六人の方の語らいが自然に進んでいる中で、30年以上前の両者の共通の知人の話になったからです。
「Kさんには大変お世話になり、一緒に学年を持ちました。その縁で結婚式※にも招待されました」
「ヘー、結婚式には私たちもまだ当時7ヶ月だったこの子を連れて出席しましたよ」
「すると、あの結婚式にいらっしゃったのですか。確か新郎の恩師が中野孝次さんで、のちに『清貧の思想』を著されましたよね。」
「そうです。私たちはKさんご夫妻が結婚されるにあたりキューピット役だったんですよ。それから、私たちの結婚式では逆にKさんに司会をしていただいた間柄なんです」
「そうですか、不思議ですね。(私はお二方とお会いするのが随分と遅れたので内心心配していたのですが、それこそもう随分前からお互いに結ばれていたのですね)」
こんなふうに話が弾むなんて珍しいと皆さんが思われたのでしょう。その後、六人の方々の間でさらに親しみの感情が増し加わり、室内の空気がより濃密になりました。私の肌にもそれが何だかじかに伝わってきた思いでした。宴も終わり、ほっとした皆さん方が私のそばで写真をお互いに撮られました。それはそれはいい晩でしたよ。私はその晩花瓶から出されましたが、神様の摂理を思いどこにいようとも、神様にお従いすることが私たち被造物にとって最大の幸せだと思ったことです。
※家に帰って探してみたら、当日の結婚式の資料が『御列席者御芳名 1986.11.22 於 日比谷松本楼』として私のファイルに大事にしまわれており、当日の出席者の名前とプロフィールが紹介されていた。ちなみに差し障りのないところで前述の中野孝次氏の紹介文は「作家。元国学院大学ドイツ語教授。同山岳部部長。新郎を始め山岳部の者が公私とも、本当にお世話になった先生」とある。もちろん私たちのプロフィールももそこに載せられていた。
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