谷口幸三郎 展 『こどもの絵』 西荻・数寄和 |
あなたがたが召されたのは、実に(苦しみを受け、しかもそれを耐え忍ぶようにと)そのためです。(1ペテロ2・21)
苦難は、いつもわたしたちを、なにかの形で、意地悪く、死の前に立たせる。この意味で、苦難とは、わたしたちが、生のただ中で、意地悪く押しつけられる、なんらかの死の体験である、と言えよう。「意地悪く」というのは、苦難においてわたしたちに語りかけてくるのは、いつも悪魔だからである。悪魔は、苦難において、わたしたちの生の唯中になんらかの問の形で死の恐怖を持ち込む。そして、わたしたちをまごつかせた末、まんまとこの恐怖のとりことすることによって、わたしたちに信仰の確信を放棄させ、わたしたち自身を進んで死の支配に委ねさせるように仕向ける。
たとえば、わたしが病床で、肉体の耐えがたい苦痛をとおして、「あなたの罪は本当に赦されているのか」と問いかけられる場合、この問いは、否定の答を期待しているのである。だから、悪魔のいじわるな問なのである。そこでわたしが、かりに深刻な表情で、「いや、わたしの罪は本当に赦されてはいない」と答えれば、それこそ悪魔の思うつぼにはまったことになる。
こう答えた瞬間に、わたしの肉体の耐え難い苦痛は、文字通り、わたしの犯した罪に対する神の怒りの火となって、わたしの上に降りかかってきて、わたしを責めさいなみ、のろわれた絶望感と、孤独感とに突き落としてしまう。この時、わたしはもはや信仰の確信を放棄してしまっている。わたしの全生涯をかけた信仰の努力は、水泡に帰してしまい、わたしは敗残者として死につかなければならない。この唯一つの失答によって、いっさいは終わりを告げる。
けれども、この場合、わたしが真実に、キリストにあって病苦を耐え忍んでいるとすれば、わたしはかならず、悪魔のいじわるな問にさからって、こう答えるにちがいない。「そうだ、キリストはこのわたしの罪のために死んでくださったのだから、わたしの罪は本当に赦されているのだ。今、わたしがもっともみじめな者に見える、この死の苦しみのただ中でさえ、真実に、完全に、赦されているのだ。悪魔よ、キリストが御父の御旨に従って、お前が彼に押しつけた死の苦しみを従順に耐え忍ばれたように、わたしもキリストの御足の跡に従って、今お前が押しつける同じ苦しみを、従順に耐え忍ぶ。それは、キリストとともに死人の中からよみがえるためである」。
こう答えた瞬間、わたしは、無数の天使の軍勢の吹きならす勝利のらっぱと、さんびとほまれの歌とに、かこまれているのに気がつく。死の苦しみを乗り越えて、わたしの信仰は、疲れ果てた魂の中に生き生きとよみがえり、天からの喜びにみたされて、いよいよ高揚する。キリストの血が、わたしを死の支配からあがない出したことを、いよいよ固く確信する。わたしの外なる人は、死の床にあえぎ苦しんでいるが、内なる人は、復活の大気を呼吸している。わたしは悪魔の試練に打ち勝った。勝利の喜びは、全身全霊に浸透し、わたしを救った神への感謝は、高まるばかりである。神の守り、キリストの臨在、インマヌエル、契約の民であることの確信は、死の苦しみを貫いて、いよいよ固くされる。
(『ペテロの手紙の研究』柳田友信著 1960年 聖書図書刊行会発行 209頁より引用。引用者はかつて柳田友信氏から日本文化史だったか、ルツ記だったかの講義を受けたことがある。それは1980年前後だと記憶するが、その時の氏の熱弁ぶりは今も鮮やかに思い出すことができる。確か、着物姿で現れ、風呂敷包みにたっぷり本を忍ばせておられたように思う。最近縁あってこの書物を熟読・再読しているが、柳田氏の信仰が紙面から飛び出さんばかりの勢いをもって迫ってくる。それでいて引用文献も豊富正確でキリスト者必読の文献の一つであると思う。)
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