琵琶湖東岸から西岸・比良山を望んで(2019.10.26) |
1981年11月29日、父が召された。その2ヶ月ほど前までは、市内のU病院に預かっていただいた。父は、今で言う、認知症を患っていた。69歳であった。当方は働き盛りの38歳であった。認知症の父を朝に夕に自宅からほぼ4キロほど離れている病院へと日参した。自転車での往復は雨が降ろうと降らなかろうと繰り返した。妻は二往復する場合もあった。しかし二人とも弱音は吐かなかった。吐いてはいられなかった。それしか道がなかったからである。しかし今から考えてみると、その時妻は6月に末娘を出産したばかりである。そんな体でよくも通い続けたと思う。
それ以来、その道を通るのも嫌だった。その時の苦しい経験が思い出されるし、明らかに当方の体力が落ちていることを嫌が上にも自覚させられるからである。ところが、昨日、一人の青年から電話が入った。95歳の祖母が施設から病気のためU病院に入院した。大分衰弱が激しい、と。その青年とは面識はなかったが、祖母である方とは数十年にわたる信仰の友である間柄であり、つい2ヶ月前にもお訪ねしていた。
今日、取るものも取り合えず、U病院に行くことを決心した。妻の方から言い出した。二人で自転車で出かけるのも久しぶりであった。しかし、それ以上にU病院に出かけるのは実に父の入院時以来である。38年という年数が経過しているのだ。10年ひと昔と言うが、大変な年月の経ちようである。その間、二人して良くも健康に恵まれたものだと感謝する。幸い、入院中の方と会話を交わすことができた。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
(イザヤ41:10)
の、みことばを枕辺でお読みし、お祈りした。大きな声で「アーメン」と言われた。考えてみると、昨日は尊敬する緒方貞子さんが亡くなったこと、またその前日には八千草薫さんが亡くなり、テレビで石坂浩二が「もう二度とあの声が聞こえないと思うと・・・」と涙を流されている様が流れた。愛する者との死別ほど悲しいものはない。そのような中で、死を目前にしても、なお「わたしの義の右の手で、あなたを守る」と言われるイエス様に頼れる信仰ほど強いものはないと思わされて辞した。
元気が与えられ、別の方が入所されているN施設が程近いところにあるので、二人してお訪ねしようということになった。この方はこのブログでも何回か紹介している方だが、私と同年で優秀な方であったが脳梗塞が発端で今は体が不自由で言語も不明瞭になっておられる方だ。その方を覚え、一人の方がいつも週に一度の便りを出しておられる。肉の糧と霊の糧を満載された便りである。ところがどういうわけか今週は届いていなかった。
この方をお訪ねするときは、大体病床から電話で、その便りを出しておられる方も交えて三人でお話しする。まさに私に言わせるとiPhone様様だ。早速お電話で便りが届いていない旨話す。そんなはずはないと言われるとおり、その後、事務所から「便り」が届く。三人して、ワっとばかり飛びつく。まずは肉の糧!そして霊の糧
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
(詩篇23:4)
ここでも祈る。彼はまたしても私の後について祈られた。そして「アーメン」と言われた。感謝であった。帰りに次女のお世話になった先生のお宅に立ち寄らせていただき、玄関で「あなたとともに(みことばの花束集)」をお渡しした。奥様のお顔はいつになく平安で、闘病中のご主人も病と向き合って生活しておられるとお聞きし、私たちは感謝して辞去させていただいた。
この間わずか数時間、本来はU病院訪問が目的であったが、次々とイエス様を信じていなければ持ち得ない三組の方々とのお交わりが与えられた。38年前の苦しみの日々はもはやすっかり過去となってしまっていたが、その日々も主がともにいてくださり、私たちの人生に考えられない恵み(次女の誕生と父の召天)をくださったことを改めて思い出すU病院行きであった。