2019年10月11日金曜日

『富士日記』の余韻


あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。(申命記11:8〜9)

 やっと、全三冊からなる『富士日記』(武田百合子著)を読み終えた。確かに良い作品である。一言で言うとすれば、そこには「いのち」の尊さが描かれているのだ。たとえば、中巻にあるこんな記事だ。

昭和42年7月13日の日記。そこに古い新聞の投書記事が書き写されていた。

 「5月28日附毎日新聞、投書欄より
 ミツバチがやってきたら・・・作家大江賢次 61
 大都会でミツバチの群れがきて殺虫剤で退治したというニュースのたびごと、ベトナムと同様、人間の無知さに心が寒くなります。いまは花どき、全国の養蜂家たちが春はじめ鹿児島から、花を追って北海道までトラックで移動して、聖書にもあるとおり、流れるミツを集めています。
 花どきの今の季節がかき入れどきで、わずか三週間しか生きていない働きバチは、一つの箱から分封します。前の女王バチが新しい女王バチに王座をゆずり、別天地を求めているのです。
 この時期のミツバチは刺しません。体にとまっても大丈夫。あわてて手で払ったりしない限り、飼主の人間を恋い慕っているのです。球型(女王バチを護衛して丸くなる)になったら、警察に届け、警官もあわてずに噴霧器で羽をぬらし、袋で押さえて保管して、近隣の養蜂家に渡してください。一群二万、一匹で千五百の花をまわって、やっと米粒ほどのミツを集めるのです。」

そして同年7月18日が次の日記だ。

 「ポコ死ぬ。6歳。庭に埋める。
 もう、怖いことも、苦しいことも、水を飲みたいことも、叱られることもない。魂が空へ昇るといことが、もし本当なら、早く昇って楽におなり。」

 このように、生けるものの「生と死」が作者特有の観察眼で描かれている。ポコの死については、その後一年以上、事あるごとに涙を流す著者がいる。そして同書の下巻は昭和51年の9月21日の日記をもって終わるが、糖尿病のために日増しに山荘での生活は困難になり、とうとう肝臓が腫れ赤坂に帰り入院を待つばかりになってしまったご主人の最後の生の姿がありのまま描かれる。この後、武田泰淳は10月5日に亡くなる。

 愛犬ポコの死に注がれた痛切の涙は、百合子にとってその全存在とも言っていい泰淳に注がれるのは言うを俟たない。しかしこの日記はあくまでも生を全うした武田泰淳、その衰えゆく夫をいとおしみ愛し抜く百合子の証の書でもある。その中で都会人が、また筆の人が、地の人(山国の人)といかに親しく交わったか、随所に登場するリスや兎・鼠・イタチ、鳥との交流を挟みながら日記という形で次々進行していく。規則正しく書き留められる、食事の詳細、買い物にあらわされる支出は、それだけで忠実に消費のすさまじさをあらわして、旺盛な生きる力の証である。しかしそこには生の裏側にある死の影が見え隠れする。正直に人が生きる限りこのことに人は無感覚ではいられないはずだ。

 そして、下巻の昭和51年(1976年)の日記中におびただしいミホさん宛に百合子が何度も手紙を書こうとしていたことが記録されていた。

「○夜、ミホさん〔島尾敏雄夫人〕に手紙を書きはじめ、しばらく書いて破る。(8月3日)
 ○テレビのお国自慢なんかという番組で名瀬からの放送をやっていた。名瀬の少女が沖縄の歌を歌ったが、利発そうな美しい顔だちと礼儀正しいふるまいと真っ直ぐに向いた光る目が、ミホさんの少女の頃はこんな風だったろうと思わせた。(8月4日)
夜、裏返しのワンピースを縫い上げる。ミホさんに手紙を書きはじめてやめる。眠くなる。(8月9日)
 ○新潮社パーティーのときの写真が送られて来た。「俺、やせたんだなあ、洋服がぶかぶかで天皇みたい」と何度も写真を眺めて言う。秋から和服きて会に行こうかなあ、と言う。「島尾さんのミホさんから頂いた大島紬が揃っているから、大丈夫だよ。・・・(8月28日)
 ○夜、ミホさんに手紙を書いてやめる。「秋風秋雨人を愁殺すって、本当に秋瑾(しゅうきん)が死ぬときにいったの? うまいこというなあ」と降りこめられて、主人のそばにねころんできくと、「本当にいったかどうかは判らない」と笑いながら言う。」

 ミホ宛に何を伝えようとしていたのか、また実際その手紙は投函されたのか一切わからない。

 一方、次のような聖書に関連する二つの記事もある。
先ず、昭和45年9月30日だ。

「夜、ノンフィクションアワーで、アラビアのベドゥイン族を見る。聖書の世界をみているようだ。」

極めつきは、同年11月9日だ。

「昨夜の夢
 桟橋にノアの方舟が着いて、それに皆乗りこんでしまった。方舟は白くて豪華客船のようだった。乗りこんだ人たちは何故かどこにも見えなくて船はひっそりしているが、たしかに、さっき、皆乗りこんでしまって私だけ残って佇ってみている。嘘をついた人は残ることになると役人のような係の人がいったから私は「はい」といって残った。そしたら私と猫だけが残っていて、あとは皆乗ってしまった。私と猫200匹位だけ残って船をぼんやり見ていた。」

 これだけでは何のことかさっぱりわからないだろう。しかし私は今日掲げた見出しの絵を思い、百合子の「ノアの方舟」に対するアイロニーを読みこんだが、このような人に福音はキチンと伝えられなかったのかと思う。

 最後に島尾ミホと武田百合子のつながりについて、『狂うひと』(梯久美子著)と『富士日記』を読んだ後、知ったことを記念に記しておく。

第15回(1975年)田村俊子賞受賞者 島尾ミホ『海辺の生と死』

第17回(1977年)田村俊子賞受賞者 武田百合子『富士日記』

 すなわち、武田泰淳・百合子夫妻は島尾敏雄・ミホ夫妻とは文士仲間として互いに親しい先輩・後輩の間柄であったようだが、武田泰淳は田村俊子賞の選考委員の一人として島尾ミホが書いた『海辺の生と死』を推薦したが、その翌年1976年に亡くなっている。そしてそこにいたるまでの一部始終を書いた百合子の『富士日記』が田村俊子賞の1977年の受賞作品となっているという不思議な巡り合わせである。島尾夫妻は絶えず人の罪を見つめて来た作家である。武田泰淳はもと僧籍の身ではあったが、様々な人生経験を経て夫妻ともども、罪と罰の問題には無縁ではなかった。一人娘はミッションに進学させている。

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