2020年7月17日金曜日

母の面影


女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。(イザヤ49:15)

 昨日の東京新聞夕刊「大波小波」にこんな記事(「遠藤周作、母の『影』」)が載った。読んでいて思わず目を疑った。それは次の文句で始まっていたからだ。

 「母さんは他のものはあなたに与えることはできなかったけれど、普通の母親たちとちがって、自分の人生をあなたに与えることができるのだと・・・」

 これは全く我が母と同じでないかと思ったからである。しかし、読み進めながら、もう一つの事実に気がついた。それは人間としての矜持(きょうじ)に触れたくだりだ。それについては後に触れたいが、私は遠藤周作については全く何も知らないと言っていい。ただ中学だったか高校の時だったか、毎日新聞に彼の小説が連載されていて、その小説を母が熱心に読んでいて、私にも勧めてくれ、時たま私自身も読んだことがあった。確かガストン先生という愉快な人物が出て来て、何かしら「ペーソスとユーモア」というものを感じさせられたことを思い出す(※)。

 後年、私自身がキリスト者になり、そのことが知人にわかると、必ずと言っていいほど、遠藤周作の『沈黙』を相手の方は話してくださる。ところが小説好きであるはずの私は未だにこの有名な作品を読んだことがない。そこには間接的に聞こえてくる、遠藤のイエス様像が、私が聖書で親しんでいるイエス様とはまったくちがうからである。イエス様の死は決して「殉教死」ではないからである(「人の子が来たのは・・・多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである」マタイの福音書20:29)。

 それはともかく、大波小波の「友星」が指摘する以下の言及だ。

 遠藤周作の未発表小説『影に対して』が、『三田文学』夏季号に載った。読めば、すぐわかる。ただの未発表作品ではない。三人称小説だが、告白に近い。告白ゆえ、関係者に配慮して発表が断念され筐底(きょうてい)深く沈められたのだろう。
 私はパスカルの「メモワール」を想起した。自身にとって最も重大切実な回心体験について、パスカルは終生語らなかったが、死後、服の裏地に自筆メモが縫いこまれているのが発見された。「影に対して」は、遠藤の人生の裏地に縫いこまれた「メモワール」だったろう。母の音楽は子の文芸に受け継がれた。

 最初読んだ時、遠藤もパスカルも人間としての「矜持」に立ち、自らのたいせつな「告白」を封印している。そこへ行くと、私自身平気でこのブログなどで「告白」https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/05/blog-post_22.htmlをしている。それは私の人間としての軽さから来ることにちがいないと痛み入ったからである。しかし、この文章を写している間に、パスカルの「メモワール」をはたして「夕星」氏が言うように、回心体験を終生語らなかった証だと言えるのかという疑問が出て来た。

 パスカルの「回心体験」は私のこのブログhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/04/blog-post_22.htmlでも紹介しているし、私自身、パスカルに導かれるようにしてキリスト信仰を持つようになった経緯がある。聖書にはイエス様の一切が福音書に書かれている。また詩篇などにはそれこそ赤裸々な人間の気持ちが吐露されている。遠藤周作が未発表小説『影に対して』を筐底(きょうてい)深く沈めたのはわかるが、それと「メモワール」を同一視するのはやや飛躍しているのではないかと思った。

 パスカルの人間としての矜持は、肌身離さず、イエス・キリストへの思いを忘れまいとするそのただ一事にあったことではないだろうか。とまれ、近来心を動かされた「大波小波」であった。このような文化欄を持つ東京新聞はやはり捨てがたい。

(※念のため、図書館で調べたら遠藤周作文学全集5巻に「おバカさん」の題名で収録されていて、1959年3月26日から8月15日まで朝日新聞に連載とあった。私の高校2年の初め頃だとわかった。疑問なのは私の家では毎日新聞しか取っていなかったと思うのだが・・・。冒頭の写真は旧アルバムから出て来た母の写真。私が生まれる前の写真だと思う)

2020年7月16日木曜日

招き

はまゆう by Kazuko.Y

わたしのところに来なさい。(マタイ11:28)

 このことばは何とやさしい心地よいことばでしょう。イエスさまがあなたにそうおっしゃっているのよ。

 「どのようにしてそれがわかるの?」と言うのね。いいですか、弱りきってたいへん苦しんでいるすべての人にこう言われているのよ。あなたは時々弱りはてる覚えがない? たぶん良い子になろうとしてがんばりつづけ、もっと良い子になろうとして、とうとうへたり込むこともあるでしょう。そうよ、イエスさまが「来なさい」とおっしゃるのは、そういうあなたに向かってなのよ。

 もしあなたがまだイエスさまのところに来ていないなら、たとえあなたがそう感じなくても、たいへん苦しいのよ。だって、もしイエスさまがあなたからその重荷を取り除いてくださらなければ、いつまでも苦しまなければならないのよ。だからイエスさまが「来なさい」とおっしゃったのはあなたに対してなのよ。

 それはイエスさまがおとなにだけ向かってそうおっしゃったのではないのよ。イエスさまは「子どもたちを私のところに来させなさい。とめてはいけません。」(マルコ10:14)と、おっしゃったのです。あなたはこどもですか? それならここでイエスさまが「来なさい」とおっしゃっているのは、あなたにですよ。

 でもあなたは「もし主がここにおられたなら、そして主を見ることができたら、私は主のところに行くのだが」と言うのね。主はあなたが願っているようにほんとうにここにおられるのよ。たとえば、お母さんとあなたが暗い部屋に一緒にいて、お母さんが「おいで」と言ったとしたら、「お母さんが見えたら行ってもいいんだけど」と言ってじっとしてはいないでしょう。「お母さん!今行きます」と言って、すぐにさっさと歩いて行き、お母さんのそばに座って安心するでしょう。だからたとえお母さんが見えなくってもだいじょうぶでしょう、それと同じよ。

 イエスさまはあなたを呼んでいらっしゃいます。イエスさまはここにおられます。この部屋のうちにいらっしゃいます。さあ、「主イエスさま、参ります」と言わない? そして主が御手をのばして行く道を助け、みそば近く引き寄せてくださるのを願わない?

 そうです。あなたを愛し、あなたのためにご自身の命まで与えてくださった愛する主イエスさまのところへ、行くのです。主はあなたが来るのを熱心に待っておられ、あなたがやってきて小さな羊となって腕に抱きかかえられ、祝福されるのを願って、お呼びになっておられるのですよ。今、来ませんか。

(Little Pillows by F.R.Havergal を参考に、ブログ子がアレンジして作成しているものです) 

2020年7月15日水曜日

第三日 ささえ

珊瑚花 by Kazuko.Y

私をささえてください。そうすれば私は救われます(詩篇119:117)

 道をあるくのは容易じゃないね。もし、よく注意しないなら、つまずくかもしれないデコボコ石のところもあれば、全く平らなところもある。でも平らな道もデコボコ石よりはもっと危ないことがある。よく滑るからね。また、花々の下には隠れた小さい穴がある。足をとられて悪くすると穴に落ち込むかもしれないね。すべった上、悲しいことに濡れて汚くしてしまうかも知れぬ、ぬかるんだ溝もあるよね。

 こんな道を安全に歩くのにどうすればいいと思う。強くって親切な手の支えがいつもあればいいよね。スコットランドの老婦人が「私がキリストを握るのでなく、キリストが私を握ってくださる」と言ったように、そういう手の支えが必要なんだ。そう、キリストのやさしい手は「あなたが落ち込まないように守ることができるのだ。」安心して自分の手をイエスさまの手にまかせるだけでいいんだよ。そうすれば道は安心して歩けるし、足がつまずくことなんてないよ。

 でもね、今朝の鐘のチャイムを半分だけ鳴らして、だめにしないでね。「私をささえてください」と言うだけでそこで終わったり、あるいは逆に「でも、やっぱりつまずいてしまう」なんて言わないでね。神様ご自身の音楽、神様が口の端に上せてくださった輝く信仰のことば「私をささえてください。そうすれば私は救われます」ということばを最後まで味わってね。イエスさまに信頼しないのでなく、神様はあなたの願う通りにしてくださるとまったく信頼し、神様にささえていただくなら、そうなるのよ。

 聖書には、これにマッチして、約束のない祈りを見つけるのはむつかしいものよ。そう、ダビデは「みことばのとおりに私をささえてください」(詩篇119:116)と言っているよ。

 神様はそのことについて何と言われたのだろうか。この記事よりももっとたくさんあるんだ。「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握る」(イザヤ41:13)「わたしはあなたを守る」(イザヤ41:10)「主はあなたの足をよろけさせず」(詩篇121:3)「あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず」(箴言4:12)「主には、彼を立たせることができる」(ローマ14:4)「主があなたの足がわなにかからないように、守ってくださる」(箴言3:26)「主は聖徒たちの足を守られます」(1サムエル2:9)

 あなたのひとつの小ちゃな祈りに何と七つの答えの約束があるんだ!

「恐るな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)
あなたがしっかりと立つようにと、あなたは召され、選ばれているのよ。

(Morning Bells by F.R.Havergalの私訳です。)

2020年7月14日火曜日

第二日 私たちの偉大な模範

檜扇水仙 by Kiyoko.Y


キリストも、ご自分を喜ばせようとはなさいませんでした。(ローマ15:3 リビング・バイブル訳)

 君は聖なる御子イエスさまの足跡にしたがいたいとほんとうに思っているの。神様にもっとイエスさまのようにしてくださいと求めたことがあるの。今日始めてみるつもりはある? それなら、ここに今日の標語、「キリストも、ご自分を喜ばせようとはなさいませんでした」があるよ。そのことばどおりイエスさまのまねをしてみない?

 標語どおり行なって、他の人たちにだけでなく、君の好きな救い主イエスさまに、君が言ったり祈ったりして、しようと思っていることがはっきりする機会が君にはきっとたくさんあると思うよ。

 多分、君にとって、この「モーニング・ベル」はチャイムでなく、むしろとむらいの鐘となって憂鬱になるかもしれない。でも、もし君がほんとうにキリストのようになりたいと願うなら、この「モーニング・ベル」はどんなものにも劣らない快い音楽であり、静かなチャイムが繰り返し繰り返しすばらしい心良さと力をもって君を訪れ、あらゆる困難なことから君を助け、すべての罪や思い煩いから助けてくれることがすぐにわかるよ。

 君は自分で真剣に努力してみない限り、少女が実際にどんなに幸せを感じることができるかは話せないと思うよ。少女は自分自身が好んでいたものをイエスさまのために元気よくあきらめたのよ、そしたら幸せになったと言う。少年もまた自分自身の自由な意志で神の恵みによって選び取ったことがどんなに幸せになることができただろうか。少年は自分自身を喜ばせる代わりに主イエスさまを喜ばせたいと良心が命ずることを選んだのだよ。そうしたら幸せになったんだ。

 もしまだそんなことを試みたことがないというなら、今日始めてみない? 君はまったく新しい幸せを見つけられるよ。

 ああ、もしキリストがご自身をよろこばせるだけで私たちを救うために降りてこないでご自身の栄光ある天の家にとどまっておられたら、私たちはいったいどうなったでしょうね。君がイエスさまに喜んでいただく代わりに、自分を喜ばせたいと誘惑されるような時になったらそのことを考えてごらん。そして、イエスさまは君をたいそう愛されたから、ご自身をよろこばせなさらなかったということを思い出すんだよ。それは君がイエスさまをよろこばせ、イエスさまのために他の人たちをよろこばせる手助けにきっとなるよ。

 もしイエスさまの血潮で洗ったら、
 その時、イエスさまの似姿も身につけよう
 そして前に進む時には
 「イエスさまは何をなさりたいのか」と尋ねてみよう

 完全に自由な手を差し出してごらん
 神様は君に自由に与えてくださるから
 それぞれわがままな思いをやめて
 「イエスさまは何をなさりたいのか」と問おう

(昨日に引き続いて、F.R.Havergalの「Morning Bells」 の試訳、私訳です。ハヴァガルは私の尊敬するイギリスのキリスト者です。彼女も決して長生きはしませんでしたが、その考えることはいつも主の御栄光でした。そのため、このように子どもたちのために朝のみことばを30日間一組で書き表しています。夜は夜で「Little Pillows」として書き表しています。この邦訳「小さな枕」は大正4年に白井さんの手によりなされています。残念ながら表現が今のこどもには理解できないところがあります。しかし、すばらしい白井さんの作品だと私は今でも思っています。「Morning Bells」はそれ以上に残念なことは邦訳がありません。それで恥も外聞も顧みず、試訳・意訳をしております。また、この機会に、2016年その伝記を一部中断していましたものを折を見て載せさせていただきます。ご愛読、ご感想を切にお願いします。写真は7月初めに友人からいただいた絵葉書を使わせていただきました。)

2020年7月13日月曜日

第一日 キリストの少年時代

古利根川堤の花畑の一角


聖なる神の子イエス(使徒4:30)

 もしわたしが今いくつとたずねたら、あなたはきちんと答えてくれるだろうね。「8歳半」「ちょうど10歳すぎたところだよ」「来月で11歳だよ」など。ところで神様の「聖い御子であるイエスさま」のこどものころのことや、12歳で宮におられたことは考えたことはあるだろう。でも、ちょうどあなたと同じ年頃であり、今まさに今日の自分のようなことを経験されたと考えたことはある? イエスさまは8歳、9歳、10歳であることがどういうことなのか、またあなたの経験することはどんなことでも知っておられる。神のことばである聖書は今日までこの一つのこと「イエスは聖なる子」だったとしか語り伝えていないのだよ。

 では「聖」とは何だろう? それは傷が何もない、完全に美しく、善で、愛されるすべてのものを意味しているのだよ。これがまさにイエスさまがあなたの年頃そうだったことなのだ。イエスさまはやさしく勇気があり、考え深く、利己的でなく、気高く、誠実で、従順で、愛があり、親切で、赦しを身につけておられた。あなたがかつて他のもののうちに称賛したり愛したりしたものとして考えることのできるものは全部イエスさまのうちに見つけられたのだ。外側だけでなく内側もそうなのだ。だってイエスさまは「聖」だからなのだよ。

 じゃあ、イエスさまは、なぜあなたのために来て死ぬ時まで、天にとどまらず地上でこんなふうに聖い少年時代を過ごしたのだろうか。一つの理由はイエスさまはあなたがイエスさまのようになりたいと聖霊なる神様にイエスさまに似る者としてくださいと祈れるように美しい模範を残すことだったのだよ。

 けれどももう一つのことはもっと恵み深くすばらしいことなのだ。それは「私たちが、この方にあって、神の義となるため(2コリント5:21)」だったのだよ。すなわちそれは今やすべてのこの善いことや聖いことがあなたのものだとみなされるのだよ。なぜなら、あなたは自分自身のうちに汚い以外のいかなるものも持っていないのだが、神様はイエスさまのゆえにまるであなたが全く従順で、誠実で、利己的でなく、善良であったかのように微笑んでくださり、あなたにイエスさまのご褒美をくださるんだよ。それはあなたが受けるにはふさわしくないものだが、イエスさまがあなたのために受けてくださったものだ。

 イエスさまはあなたの罪と引き換えにイエスさまの正しさをくださるのだ。イエスさまはあなたの懲らしめと引き換えにイエスさまのご褒美をくださるのだ。もしあなたがこの交換を受けさえすれば、必ず変えられるのだ。

嬉しい、嬉しい
私のたたえる救い主イエスさま!
イエスさまにあるこどもは
どんなに純粋で聖いものかを示そうと
私のようにこどもになってくださったのですね。

それだけでなく
もし私がイエスさまの跡をついていきたいと願うなら
決して私を忘れられないのですね。
だって、イエスさまは私をそんなにまで愛してくださるのだもの。

2020年7月11日土曜日

孫への手紙(下)


 えみちゃん。6さいのたんじょうび、おめでとう。いちねんまえのこのブログに、5さいのときのえみちゃんのようすがかいてあった。それをみて、またこの1ねんのあいだにすっかり成長(せいちょう)したんだなとおもったよ。このまえあったとき、あうなり、えみちゃんが、「じいじとあうのはひさしぶりね」といったのにはびっくりしたよ。それから「としとったね」ともいったね。

 こんかいは四日(よっか)ほどいたんだっけ。しょくじのたびにじいじがおいのりするときも、しずかにしていられるようになったね。それだけでなく、ばあばがいうには、おいのりのおわりのときに「アーメン」というようになったそうだ。まえから、きみちゃんが「えみちゃんは日曜学校(にちようがっこう)のおはなしをしっかりきく」といっていたので、じいじもうれしかったよ。ばあばにいわせると、えみちゃんはしゅうちゅうできる子(こ)だそうだ。

 このまえも、パレットをつかって、おえかきや、そめあそびをして、たのしかったね。そのパレットのよごれを、かえるときには、きれいに水(みず)でぬぐって、すみずみまできれいにしていたね。じぶんからすすんできれいにしたいとおもう心(こころ)はたいへんすばらしいよ。おとうさんおかあさんに、プールにつれていってもらい、およげるようになったり、なしがりもして、たのしいなつやすみだったね。

 じいじが、こんかい、えみちゃんにまなばされたことが一つある。それはいつのしょくじのときだったか、じいじが、パパのちゅうがっこうのときのあまりよくなはなしをし、みんなもそのはなしにのっていたとき、えみちゃんが「みんなそんなことをいってたのしいの?」といったことだ。じいじは一本(いっぽん)とられた、とおもった。むかしのことをいうより、これからのことをかんがえたほうがどれだけたいせつか、ということをいつもイエスさまからおそわっているのにね。

 らいねんの4がつにはしょうがっこうにはいれるね。そうしたらじいじたちのように「聖書(せいしょ)」もじぶんでよめるようになるよ。ほんのだいすきなえみちゃんが、じぶんでせいしょがよめるように、じいじはこれからいのることにするよ。たんじょうびおめでとう。せいしょのことばをおくります。

だれでもキリストのうちにあるなら、そのひとはあたらしくつくられたものです。ふるいものはすぎさって、みよ、すべてがあたらしくなりました(しんやくせいしょより)

(しゃしんは、このまえ、じいじが、きみちゃんのくるまにのせてもらって、ばあばといっしょにみてきた、たかみねこうげんのおはなばたけだよ)

2009年8月20日「泉あるところ1」より転載

2020年7月10日金曜日

孫への手紙(上)

            
 Eちゃん。5さいのおたんじょうび、おめでとう。いつのまにか、ずいぶんおおきくなってしまったね。このてがみも、ひらがなだから、よめるんだよね。こえにだして、よむといいよ。じいじのこえがきこえるよ。

 このまえは、じいじ、こころのなかで、びっくりしてきいていたよ。

 おぼえているかな。じいじが、みずどりのしゃしんをこのパソコンでみせてあげたときのこと。Eちゃん、いったね。「このまえ、ようちえんのちかくのいけで、カタツブリというとりをみたよ、でも、こんないろじゃなかったよ。もっとちゃいろいいろだった。」じいじはうっかりしてききわすれたが、もっとずいぶんくわしくはなしてくれたね。

 もちろんEちゃんが「カイツブリ」を「カタツブリ」といいまちがえていることは、じいじにはすぐぴんときたが、Eちゃんがよーくかんさつして、せいかくにおぼえておはなしできることにびっくりしたんだ。

 Eちゃんがせんせいになり、いもうとのMちゃんやいとこのUちゃんにいっしょうけんめい、なまえやとしをいわせ、おうたをおしえたり、はっぴょうさせたりしてたのしんでいるのも、かわいらしいね。

 それからばあばといっしょにおえかきやおかしづくりもさいごまでできるようになったね。なにもできなかったあかちゃんのEちゃんがここまでおおきくなったことをじいじもばあばもイエスさまにかんしゃしているよ。

 でも、きになることもあるんだよ。きのうもUちゃんばあばがきたとき、「Eちゃんあたまはよいが、このごろくちがわるくなってきたんじゃないだろうか」ってしんぱいしていた。じいじもハッとしたよ。Eちゃんがだんだんおおきくなってかしこくなってきたことをかんしゃしていたが、もうひとつわるいこころもじっとしていないのだなとおもったからだよ。

 じいじのすきなイエスさまはね、どんなひとのくちもわるい、Eちゃんだけでなく、じいじもばあばのくちもわるい、それがひとをきずつけるんだよ、といわれるんだ。でもねイエスさまはね、わたしたちみんなのくちのわるさをなおしてくださるおかたなのだよ。

 イエスさまはみんなのわるいこころをなくすために、みんなのかわりにわるいこころのばつをじゅうじかでうけてくださったのだよ。だから、もしわるいことをいってしまって、わるいとおもったら、イエスさまごめんなさい。わたしのわるいくちでなく、イエスさまのよいくちをください、といのってごらん。きっとそのいのりをイエスさまきいてくださるよ。

 Eちゃん、もういちど、おたんじょうびおめでとう。

もし、わたしたちがじぶんのつみ(こころのなかでわるいとおもったこと)をいいあらわすなら、かみはしんじつでただしいかたですから、そのつみをゆるし、すべてのあくからわたくしたちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)

(この項目は2008年8月20日に「泉あるところ1」ですでに公開したものですが、今では見られなくなっているので写真〈南ドイツ・フィリンゲンにて2010.11.2などを再編集して掲載しました。)