2010年4月22日木曜日

着物の裏に縫込みし文 パスカル


     キリスト紀元1654年

 11月23日月曜日、教皇で殉教者の聖クレメンス、および殉教者伝に出ている
 他の殉教者たちの祝日、殉教者、聖クリソゴノス、および他の殉教者たちの
 祝日の前夜、夜10時半頃から、12時半頃まで。

     

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」。出エ3:6
 哲学者や、学者の神ではない。
 確実、確実、直感、よろこび、平安。
 イエス・キリストの神。

 「わたしの神、またあなたがたの神ヨハネ20:17)
 Deum meum et Deum vestrum.」

 「あなたの神は、わたしの神です」。ル ツ1:16
 この世も、なにもかも忘れる、神のほかは。
 神は、福音書に教えられた道によってのみ、見出される。
 人間のたましいの偉大さ。

 「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。
 しかし、わたしはあなたを知りました」。
ヨハネ17:25
 よろこび、よろこび、よろこび、よろこびの涙。

 わたしは、神から離れていた。
 「生ける水の源であるわたしを捨てた(エレミヤ2:13) 
 Dereliquerunt me fontem aquae vivae.」

 「わが神、わたしをお捨てになるのですか」。(マタイ27:46)
 どうか、永遠に神から離れることのありませんように。

 「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、
 あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります」。
ヨハネ17:3
 イエス・キリスト。
 イエス・キリスト。
 わたしは、かれから離れていた。かれを避け、かれを捨て、
 かれを十字架につけたのだ。
 もうどんなことがあろうと、かれから離れることがありませんように。
 かれは、福音書に教えられた道によってのみ、保持していられる。
 すべてを捨てた、心の和み。
 イエス・キリスト、そしてわたしの指導者へのまったき服従。
 地上の試練の一日に対して、永遠のよろこび。
 「わたしは、あなたのみことばを忘れません
 Non obliviscar sermones tuos.」。
(詩篇119:16)アーメン。

 以上はパスカルの『メモリアル』(パスカル著作集第一巻159~161頁田辺訳の引用)である。これは冒頭のごとく、1654年11月23日のパスカル回心の証と言えよう。伝記によるとパスカルは、この夜の経験を羊皮紙に記して死ぬまで着物の裏に縫いこんでいたということである。だから上の文章は彼の死後見出されたものだ。野田氏はその間の事情を推測して次のように書いている。(『パスカル』野田又夫著岩波新書94~95頁をもとに再構成)

 「恩寵の年1654年、・・・夜10時半頃から12時半頃まで」と日時を記した後、まず太字で一字「火」と書かれている。焔をあげて輝く火を見たか否かは分からない。パスカルの心が熱したことは確かである。そしてすぐ下に、「『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』にして哲学者科学者の神ならず」、と書き、「確実、確実、直感、よろこび、平安」とわが心のさまを、もどかしげに書きつけている。そしてその神は「イエス・キリストの神」である。

――パスカルは哲学者や科学者が、形而上学的理性によってないしは自然の因果をたどることによって証明する神においてではなくて、焔の中にモーゼに現われ、預言者を励まし、最後にイエスにおいて人間の形をとった神において、「確実性」を、自らの信仰の証を、得た。それは心情に「直感」される神であり、わが心の底に「よろこび」と「平安」を注ぎいれる神である。

 つづく数行においてパスカルは父なる神に向かう。復活せるイエスはマグダラのマリヤに現れて言った、「わたしは、・・・わたしの神、またあなたがたの神のもとに上る。」 パスカルは「わたしの神、またあなたがたの神」と書く。「この世も、なにもかも忘れる、神のほかは。神は、福音書に教えられた道によってのみ、見出される。」そしてここにおいて「人間のたましいの偉大さ」が大書される。いまや魂はイエスとともにあって父なる神につながるのである。

 魂はイエスとともに神に向かっていう「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知りました」。自らの魂のこの神への高揚において与えられるもの、それは「よろこび、よろこび、よろこび、よろこびの涙」である。

 ――しかしわが過去はいかがであったか。「わたしは、神から離れていた。」それは神がかつて 「生ける水の源であるわたしを捨てた」と咎めしごとくであった。その罪をわれにかわってすでに贖ったイエス・キリストの最後の言葉は「わが神、わたしをお捨てになるのですか」であった。キリストによって、われは祈るよりほかない。「どうか、永遠に神から離れることのありませんように」と。

 ついでパスカルは改めて神の子イエスに向かう。「イエス・キリスト。イエス・キリスト。」と再度記されている。しかもこのイエス・キリストに自分はそむいたのではないか。「わたしは、かれから離れていた。かれを避け、かれを捨て、かれを十字架につけたのだ。」されど「もうどんなことがあろうと、かれから離れることがありませんように。」そしてつねにキリストとともにあることは、「福音書に教えられた道によってのみ」可能である。すなわち「すべてを捨てた、心の和み。」「イエス・キリスト、そしてわたしの指導者へのまったき服従。」

(今日は昨日と打って変わり冷たい雨の一日である。心まで冷え冷えとしてきた。何とか心を上向きにと思い、パスカルの焔の文章を思い出した。写真は昨日撮影しておいた庭のブルーベリー。「文遺し 若きパスカル 御国から 焔伝えし わがはらからよ」「卯月に 氷雨しとしとと 花咲かす ブルーベリーの いのち縮まる」)

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