2010年4月1日木曜日

イエス捕縛 マルチン・ルター


イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか。」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを。」と言った。イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」(新約聖書 ヨハネ18・6~8)

 ルターは上の聖書箇所から二つの主のなさった奇跡に言及している。そのうちのひとつはイエスのことばを聞き、あとずさりし、そして地に倒れてしまったユダヤ人たちの姿であった。あとひとつは、ご自身の命に代えて、武器によらず、「この人たちはこのままで去らせなさい。」ということばで弟子たちを無事に逃がされたことである、と言っている。ここでは紙面の都合上、前半の部分について触れたルターのメッセージをのみ紹介する。

 ユダヤ人が庭に入って主イエスのところへ来た時、イエスは彼らに「だれを捜すのか」とたずねられた。そこで彼らが「ナザレ人。イエスを」と答えた時の主の答え、「それはわたしです。」は、彼らを非常に驚かし、彼らはことごとくうしろに引きさがり、あたかもいなずまに撃たれたかのように、地に倒れた。これは主がその時お示しになった特別な神の力によって行なわれたもので、ユダヤ人を恐れさせたのみでなく、彼の弟子たちを強めるためのものだった。

 これらのことは、彼ら(注:弟子たち)がやろうとしたような、武力によってイエスを救出しようとする冒険のかわりに、この力を示されたことから、主が自らを死に渡すことを選びたまわないのなら、他のものの助けや保護を求めなくても、ご自身を守り、その敵に反抗したもうことがおできになると結論を下したことであろう。

 主は暴力が行使されることを欲したまわなかったし、後で見るように、このことに関して、ペテロをきびしく戒めたもうている。したがって、この奇跡は、つまずきの深淵に対する保護柵として役立つ。この深淵の中で、ユダヤ人も、後には弟子たちですら、ともに溺れそうになったのである。主はご自身を捕らえさせ、ユダヤ人にわるふざけをさせることを許し、そしてついには、十字架上であのような恥ずかしい死刑を執行されることを許したもうたのだから、弟子たちですら、すっかりつまずいて、彼らがイエスのなしたもうのを見たあのすべての奇跡も、彼らが耳で聞いたあの力強い説教すらも忘れてしまって、イエスの主張と関連するすべてのことは失われ、彼らの希望も全く空しくなったと思ったのである。そして他方、不信仰な悪意に満ちたユダヤ人たちは、キリストを十字架に釘付けするとすぐに、自分たちの目的が成就するにちがいないと思っていたのである。

 だから、この奇跡は何と輝かしいものではあるまいか。剣や、棒で武装し、統治者から権威を与えられ、その役目を果たそうとの熱心で死にもの狂いの多くのユダヤ人が、押し返され、敵のようなものが彼らを激しく撃ち倒したかのように驚いてみんな地に倒れたというのである。しかもこのすべては、ただひとりで武器を持たずに立ち、優しい言葉でしか語られたことのないおかたによって言われた「それはわたしです。」という一言で起こったのである。

 弟子たちはこの大奇跡を見た。ユダヤ人もその力を感じた。それにもかかわらずそれは間もなく忘れられたのである。実際、キリストはそのように忍耐強くそのお苦しみに身を任せ、敵に対しては他の力を用いたまわなかったので、彼らは主を単なる人間と思ったのである。

 しかし、彼らは当然次のように論ずべきだった。もしもこの人が、毒舌でも呪いでもなく、単なる優しい答えの一言をもって、落雷にあったかのように、大きくて、強くて大胆な武装した人々を打ち倒すことができるのなら、確かにその自発的な忍従の中に深い意味があるにちがいない、と。彼はご自身を防ぎ守ることはできるが、そうしないで屈服しておられる。だから、人の助けを願いたまわない。そして、そのみ力を隠し、ユダヤ人に好きなようにさせたもうているが、これは決して終わりとならない。

 驚愕が彼の敵を捕らえるだろうが、彼は彼らを征服したまわねばならない。なぜならば、彼がしばしば示したもうたその神の力は、ことにこの庭で、ただの一言「それはわたしです。」によって現わしたもうたその力は、長い期間保留され、押さえられたままであることができないからである。

 弟子たちは特にこの光に照らして、この奇跡を見るべきだった。主がここでその神の力を現わしたもうたのも、実にこの目的のためであったことは疑いの余地はない。しかし、悲しいかな、この効力はどちらの側にもたちまちにして無くなった。危害を及ぼそうとするユダヤ人は、それ以上には恐れなかった。うろうろする弟子たちは、時には悲しみ、時には驚き、主によってこれ以上恵みを受けられないという絶望は言うに及ばず、彼らの主であり師であるおかたを再び見る希望すら失ってしまった。

 これがヨハネによる福音書の中で、キリストが唱えておられる「やみの時」であって、それはつまずきが勝ちを占め、悪魔がその力を行使する時である。この理由のためにこそ、主はあれほどまでに熱心に弟子たちをいましめて、「誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい」と言われたのである。

(写真は『オリブ山で』ルター著の表紙。この文章がおよそ500年ほど前に書かれたとは信じられない。しかし、そんなことを言ったらこの新約聖書のことばは2000年前だ。人の心理は往古少しも変わっていない、と言えるでないか。)

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