2010年4月29日木曜日

主の「回復」の働き


 
1948年11月と1949年2月に、ウオッチマン・ニー兄弟は上海で、指導的な同労者たちのために二回の緊急の特別集会を開きました。その最後の集会の中で、多くの祈りと考慮を経た後、ニー兄弟は主の回復の働きのために上海にとどまる決定をしました。一面で、彼は完全に主の主権に信頼していました。もう一面で、彼は危険を知り、主の証しのために犠牲となる覚悟をしました。彼が喜んでそのようにすることは、確かに主の恵みに満たされていたことによるものでした。彼は上海にとどまる決定をした後、直ちに鼓嶺(クーリン)で第二回目の訓練を行なう準備を進めました。

 1950年1月、彼は香港を訪問しました。彼はしばらくとどまって、中国大陸にすぐ戻るつもりでした。各地の兄弟たちは、彼に戻らないよう勧め、危険があると警告しました。しかしながら、中国大陸の諸
CHURCH、同労者たちの必要を覚え、また主を証する必要に迫られて、彼は戻ることに何のためらいもありませんでした。彼は危険を承知していましたが、彼の意志は堅く定まり、霊の中で勇敢であって、自分の行程を全うし、主から受けた務めを果たそうとしました(使徒20:24)。

 ちょうどその時に、彼は汕頭(スワトー)から、母親が死んだという電報を受け取りました。しかしながら、大陸の諸
CHURCHと同労者たちとの緊急の必要のゆえに、彼は3月中旬に、香港から直接上海に行き、母親の葬儀は、彼の一番上の姉に託しました。

 これは、中国における回復にとって緊急の時でした。ニー兄弟は上海に戻ると、労苦して諸
CHURCHと同労者たちを顧み、既存のキリスト教会などからまことの信仰を求めて出てきた多くの主にあるキリスト者の成長のために労苦しました。彼はまた間もなく起こることを予知して、機会をとらえて、鼓嶺(クーリン)で行なった二回の訓練メッセージを出版するようにしました。彼は、これらのメッセージが保存されて、将来の益となることを望みました。

 1952年の春、彼は捕えられて、入獄しました。そして長い審問を経て、1956年の夏に、15年の刑を言い渡されました。しかし彼は、決して釈放されませんでした。

 彼の投獄の期間、彼の妻だけが、面会を時おり許されました。彼女は1971年11月7日にこの世を去りました。妻の死は彼を大きく悲しませ、外界のいっさいの接触から断ち切らせました。彼女の死後しばらくして、1972年5月30日、ウオッチマン・ニー兄弟もこの地上の旅路を終え、彼がいのちの代価をもって仕えたキリストともに安息したのです。

 彼の主に対する信仰は、決して変わりませんでした。彼は自分自身を注ぎのささげ物として、主の回復の上に注ぎ出しました。それは諸
CHURCHを顧みるためでした。諸CHURCHは、彼が主から受けた幻と使命に従い、彼の務めを通して建てあげられました。彼は良き戦いを戦い、走るべき行程を走り終え、信仰を守り通しました。

 彼の監禁されている間は制限を受けましたが、彼の務めは縛られることはありませんでした(Ⅱテモテ2:9)。主の主権の下で、彼の務めはあまねく全世界に広がっていて、今日のキリスト教に対する反対の証しとなり、逆にすべて主を追い求めるクリスチャンに対する豊かないのちの供給となっています。

 彼が主からいただいた唯一の使命は、神の家、神の幕屋としての諸
CHURCHでした。彼自身の地上の幕屋は壊れましたが、彼が心にかけていた諸CHURCHは、存在するだけでなく、さらにたくましく成長し続け、この地上に発展しつつあります。

彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(新約聖書 ヘブル11:4)

(今日の文章は『今の時代における神聖な啓示の先見者 ウオッチマン・ニー』と題する本の第18章を引用させていただきました。一部引用者が表現を変えたところがあります。たとえば
CHURCH
は原文で「召会」と言われていることばです。CHURCHは本来的に日本語の「教会=教えの会」という表現よりも、「エクレシア=召された者の集まり=召会」の方がふさわしいのですが、まだまだ「召会」が日本語にはなじみがないと思い英文にしました。写真は庭に咲いている花です。花の名前が家人も珍しく失念したようでわかりません。)

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