2010年4月13日火曜日
十三、捏造記事
ストライキがあった日の翌晩、暗闇の夜であった。Iはヴォーリズさんの書斎でリンコルン伝を読んでいた。Iはやっと英文の「天路歴程」を読み終わったので、生まれて始めて一冊の原書を、しかも四百頁もあるものを読みこなしたので、嬉しくて夢中になって第二の英書をよんでいた。
『I君一寸きてくれ給え』
障子のそとに芋虫と綽名された同級生が、吹き消したばかりの提灯を片手に、立っていた。
『今なあ、山田の所でクラスの者がよって昨日のストライキの始末やら、今日羽生先生によび出されてなあ、どうやら放校にでもなりそうな、嵯峨瀬や大谷やその他二三人のために、相談しとるのやから君、一寸きてくれ給え』
『うん行こう』と、Iは本をとじて芋虫といっしょに外に出た。呼びに来た芋虫について暗い町を東へ三丁ほどいって北に折れると右側に、小さいランプ屋があった。それが山田の下宿だった。
裏の八畳の離れに皆でよっていた。
『ヤアI君』
二日前にクラスの秘密をもらす男というので、鉄拳制裁を加えようとした同級生三十余名が今晩にかぎって馬鹿に愛想がよかった。
『ヤアI君、遅うからすまんなあ』
『君、まあ、すわり給え。僕等は今度のストライキについて、少々暴行をやりすぎた所へ、安場校長や羽生教頭の頭が随分強硬なんだから、クラスからどうやら二三人の犠牲者を出さんならん事になったんや。所が僕等は親から毎月金をもらっていて、もう今年で最上級生となるし、来年は社会に出る時になって退校処分を受けると、親が泣くからな。君、君はヴォーリズさんに馬鹿に信用があるし、教員らにも連絡があるから、一つ、今度は僕等のために、運動して貰いたいのやがなあ、どうや君、僕等は今度は徹底して改心するからヴォーリズさんに保証してもらって、放校や無期停学にならんようにしてくれ給え、何しろ、もう三学期の学年試験がくるからな、I君頼みまっせ』
Iは頭をたれていたが急に身を起こして
『諸君、僕はクリスチャンだから、改心した時に神にその事を申しあげて後、ヴォーリズさんやまた他の先生達に運動することにしたい。今、祈祷するから、皆で眼をとじて頭をさげてください。さあ、僕は祈りますからね』
昨日までは血気にまかせて、拳から血が出るほどに下級生をなぐった仲間が、一時にしんとした。不思議、奇蹟、突飛とでもいわねばならぬ光景であった。
『天の神様、私共の心の底の悔悟の涙を受けてください。暴行したのは実に悪いことでした。どうぞ、清い善良な学生としてこの一団のものを改心させてください。イエス・キリストの名によって願い奉ります』
『アーメン』
Iは感激の心を打ち開けて神に祈って、山田の下宿を出た。そして同級生の一人は提灯をつけてヴォーリズさんの家まで送ってきた。
あまりの血気にまかせて暴行を演じた反動か、クラスの一同は粛然としていた。ヴォーリズさんは職員中に相当熱心に運動してくれたが、結局、大谷と嵯峨瀬は退校処分になり、三名は無期停学で一年を棒に振って落第することになった。
しばらくすると、近江新報に変な記事を投書したものがあった。
滋賀商業学校殴打事件真相
鶴鳴山人(投書)
(当局者の猛省を促す)
今回出来せし事件につき同校長は曰く、何等の原因あるに非ず、ただ単に三年級が最早四年級に昇級するの期に臨み下級生に威力を張らんがためただ浅はかなる考えより出でしなりと。また曰く今回の事たるや主任教師は十分慎重にこれが調査をなしたり、従前はイザ知らず八幡町へ移転後はかかる事件決してなかりき(実は随分あるなり)今これを等閑に附せば悪弊を増長せん、よって職員会議の結果断然の処分をなしたりと。かかる際にかかる処置ありしは実に当然の事と言うべし、しかしながらこれが事実を探索するに実に意外なる原因あるを知れり。
処分の不公平なること。主謀者とみなされ退学を命ぜられし二名は決して主謀者に非ず、教師の尋問の冷酷にしてただ汝等は平素の行為良からず、今回の事も汝等が扇動したるならんと、これを弁解せんとせば叱責せられ、ほとんどその真実を言わしむるの時間を与えず、断定、否、認定せられたるものなり。その一人のごときは教師の扇動なる言葉の意味を解する能わず、ただ「ボンヤリ」と「ヘー」と言いつつ考えおりしに、最早宣し去れと言われ遂に主謀者の名を蒙れりと。これを他の生徒に聞くに皆曰く我々は平素の鬱憤を晴らせしにて主謀者たるものなし、ただ二人は平素の行為あまり良からざると「クリスチャン」生徒の讒言とにより彼等は「クリスチャン」攻撃の犠牲となれりと。また曰く一ヵ年停学を命ぜられたるものの如き、性極めて温柔、人が打てと勧むるも恐れおる位のものにして、手を下さざりしに口訥なると僧侶の子弟なるとにより処分に遭いしなり。また「クリスチャン」生徒中手を下せしものにて最も暴行ありしものが、「クリスチャン」先生の援護により三日の停学にて済みしものあり、あるいは全く罪を免れしものあり、要するに調査甚だ粗漏にして処分を受けし生徒よりもむしろ免れた生徒の方非常に激しおれり。
真相。当商業学校職員中には二名の耶蘇教信者あり外国雇教師(熱心なる信者)と協力して熱心に該教に生徒を引入れんと努め、青年会を組織しその名の下に聖書を講じ該教を信ぜしものには洗礼を受けしめ、目下洗礼を受けしもの二十余名、青年会にて聖書の講義を聴くもの百余名ありと言う。然るに右二名の職員は舎監なるゆえをもって寄宿舎は土曜日大祭日祝日等の外は門限ありて夜中外出を禁じあるにもかかわらず、青年会の聖書聴講に行くものおよび教会に行くものには深更までも外出を許されおれり。生徒中には耶蘇教を信ずるにあらずして名を借りて外出するものあり、あるいは教会に行けばただ妙齢の少女に邂逅するを楽しみとして教会へ行くものありと言う、ために醜聞汚行少なからず、また右等教師は平素教室において生徒を誡むるに「クリスト」的訓諭をなすと言う。
かかる事実あるをもって生徒間には自然耶蘇派、非耶蘇派なる二派を生ずるに至れり。耶蘇派中には衣服を飾るもの、頭髪を長く分くるもの、チック美顔水を用いるもの、眼鏡を掛くるもの等概して生意気なるもの多し、非耶蘇派生は常にこれを攻撃し、殊に四年生某某を目指しつつありしなり。然るに三年生の大部分は非耶蘇派たるをもって、ここに平素の憤怒凝結してついに耶蘇生の生意気をこらさんため先ず下級生より始め、終に四年生に及ぼさんの意志ならんも、中途にして教師の発見する所となりその目的を達し得ざりしなりと言う。要するに今回事件の原因は耶蘇派排斥より起こりしものと言うべし。
そもそも我が国は皇祖皇宗の御遺訓ありて教育の方針は独り小学校のみならず上は大学に至るまで教育勅語の御精神に基づかざるべからず、然るに宗教的ならざる本県商業学校において、宗教の力により生徒を訓戒するの教師あるとは奇怪千万なりと言うべし。我が国憲法において信仰の自由は許されるをもって、教師自身己が信ぜる宗教を信ずるのは我輩の敢えて容喙する所に非ずと雖も教師自身が信ずるのゆえをもってこれをわが教育する生徒に及ぼすは我が国において教師の徳義上許さざる所なりとす。法令上注意する所もありしか?(往年教育と宗教の衝突論識者の問題となりしことあり)中等程度の学生たるや未だ意志の柔弱なるをもって教師たるものこれを宗教に引き入るはいと易きことと言うべし。我輩はこの時代の生徒に宗教を信ぜしむるは大いに心身の発達上害ありと信ず。殊に商業家の子弟を教育するにおいてをや。父兄もまた我が子弟をこの校に入学せしむるはヤソ教信者を作るに非ずして他日社会に出で敏活なる商業家を作る目的たるや明らけし。
今回の事件たるやその原因耶蘇排斥より起こりたるものなるに、これが局に当たるものその原因の討究をなさずして単に少年の血気に出でしものと看過し、以上論ずるが如き職員間に(職員間にも両派ありと言う)軋轢を生じ、今後同校の一大紛擾を来すこと明らかなり。我輩大いに杞憂す。願わくば当局者たるもの大いに同校教育の刷新を図り事を未発に防がんことを。
真赤なウソ、否真黒な捏造記事とは実にこの投書であった。三年中のクリスチャンは一人であって、ストライキの相談のとき既にクラスの秘密を売る者として同級生間の暴行を受けんとした。さらにストライキの現場は狂乱の姿となりて、竹刀やナイフをふり廻す同級生をとめたのもIであり、かつIは三日の停学なんか受けていない。
前記の記事が近江新報に掲載されると、その翌日から得体も知れぬヤジ投書が出るわ出るわ、ほとんど毎日「商業学校の真相」だとか「安場校長の話」だとか「本県商業学校問題につき県下の有志諸君に寄す」とか無責任な「寄せ文欄」のハガキ投書などあった。遂に「商業学校は宗教学校たらんとす、すべからく雇教師ヴォーリズを解雇すべし」と叫ぶものが出てきたり、ヴォーリズさんは、教会に出入りする一美人と怪しいなど書き出した。
バイブル・クラスのある夕。
『ヴォーリズさん、近頃新聞に変な悪い記事が出て、あのまま捨てておく事ができないと思います。どうしましょう』
と一人が言うと、ヴォーリズさんは、
『捨てておきましょう。我等は誠実に神の子として静かに勉強しましょう。また共に敵のためにも祈りましょう』
と、答えたばかりであった。
以上、『近江の兄弟』(吉田悦蔵著49~56頁)からの引用である。少し長めであったが、思い切って一気に載せた。単なる誤解だけでなく、捏造に対して私たちはなす術が無い。しかし、ヴォーリズさんはよく闘われたと言えよう。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(新約聖書 エペソ6・11~12)
(写真は昨年12月23日の次男の結婚式のおり、新婦の友人が撮影してくださったバラの花。「真実は バラの花弁よ 水滴と 抗(あらが)いなしに 身を横たえり」)
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