2010年4月24日土曜日
再び「万年筆考」
一昨日夜遅く、Fさんから携帯に突然電話があった。「○○さん、万年筆を見つけましたよ!」。最初何のことか分からなかった。その内、その日の前夜Fさんの車で家まで送ってもらったことを思い出した。してみると、助手席に座らせていただいたので、助手席のどこかに万年筆がポケットからこぼれおちたのだろうか。それに気づいて電話くださったのだ。ありがたかった。「明日で(お渡し願うのは)いいですよ」と電話を切った。それにしても丸一日、万年筆の不在にさえ気がついていなかったことを知り、内心恥ずかしかった。万年筆は私の霊的生活のバロメーターみたいなものである。というのは、私は聖書を毎日読むが、聖書のことばをノートに万年筆を使って書き写すことを日課にしているからである。そのように大切な万年筆の不在を知らなかったのだから、私が無為に木曜日の一日を過ごしたことを何よりも雄弁に物語っている。
一方で、丸一日もその存在すら忘れられている万年筆のことを思うと可愛そうになった。去年の3月にも前ブログ(『泉あるところ』2009年3月3日「帰ってきた万年筆君」参照)で万年筆紛失の仔細を事細かに書いているから、ほぼ一年振りの紛失である。その時は大騒ぎした挙句何日か後に戻ってきた。今回は電話をいただく前に、ノートに書き留めようとして万年筆を捜したのは事実だが、落としたという自覚はからきしなかった。なのに発見はきわめて早く、気がついて電話してくれたFさんの声は、「天」からの声のようで、ありがたかった。
聖書に次のようにある。
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(新約聖書 ヘブル13:5)
このみことばって、本当にすごいことを約束しているみことばなのだと、改めて自身の万年筆紛失の不覚さを通して教えられた思いである。しかし、今朝もう一つの主ご自身の真実さを教えられた。名著とも言うべき『十字架の勝利』(エーリヒ・ザウアー著 聖書図書刊行会発行 19頁)の次の文章である。
自己追求の人間の心は、他人のものを不正な方法で手に入れた物でも、これ幸いとそれを固く保とうとするであろうが(ピリピ書2・6)、愛のみなもとである御子は、自分の本当の正当な所有物である神の形及び神の位をさえ、あらゆる犠牲を払っても固く保つべきものとは思わずそれをわれわれの救いのために引き渡された。かれは贖われたわれわれを、ともに天の高きところへ携えのぼるために、「地の低きところまで」降りたもうた(エペソ書4・9)。神は人が神を知るものとなり得んがために、人となり給うた。かれの貧しさによってわれわれが富める者となるために、貧しき者となりたもうた(コリント後書8・9)
万年筆は前にも紹介したように教え子の方が私の退職記念にとわざわざ下さったものである。私にとっていただきものであるが、絶対に手離せない代物である。この万年筆を所望する人は恐らく日本国内ではいないであろう。しかし外国の貧しい少年がいたらきっと欲しがることだと思う。私はその時この万年筆を手離すことができるだろうか。できない。しかし、主イエス様はそんなことはお考えにならなかった。一方的に主イエス様を信じない者が受ける罰である「死」を自ら進んで受けるために死なれたお方である。人の愛と神の愛は全く違う。万年筆紛失のことを通して、もう一つの真理、自己追求しか眼中にない人の愛と、そうでない神様の愛とのちがいを思わざるを得なかった。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6~8)
(写真は家の前の花蘇芳<はなずおう>。左横に覗くは雲南黄梅の緑、下に黄色の花が咲き乱れているが、今回はカット。主役は花蘇芳のつもり。<すおう>は4月18日の誕生花だそうだ。「花蘇芳 などてその色 空示す 創造主の 贈り物なり」「しもべなり 万年筆の 変わらざる 働きを見て かくありなんと」)
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