ブログを見てくださった方から、「私の近くの田んぼには、白鷺や青鷺がいっぱいいますよ」と知らせてくださいました。そう言えば、白鷺を最近見かけないと思っていた矢先、例の田んぼに珍しく白鷺が一羽いました。白鷺のことだから結構獲物があるのだろうと思って、さらに目を凝らしていたら、何と又しても、私の目と鼻の先に鴨家族がいました(下段参照)。しかも九羽でなく、しっかり十羽いました。一羽の欠けもなく。実に素晴らしいことです。そして親子で互いに水浴びを楽しんでいるのです。微笑(ほほえ)ましいと言ったらありゃしないと、何だかこちらの心まで豊かにさせられました。
さて、そんな出だしの今日の散歩道でしたが、いつものように、雀、カラス、燕、椋鳥、鳩やオオヨシキリの面々が出迎えて、それぞれの姿、声で楽しませてくれるのですが、今回初めて、古利根川縁の与謝蕪村の句碑に目が止まりました。
「夕風や 水青鷺の 脛(はぎ)をうつ」
何と素晴らしい情感じゃないでしょうか。今までもこの俳句は横目で見ながらも、見遣っておりました。冒頭の方の「青鷺」言及や、目の前に見た「白鷺」があって、私に初めてこの俳句の心が伝わってきた感じです。今回思わず鴨に入れ込みましたが、秋から冬にかけていつも鑑賞の一翼にあるのは「鴨」だけでなく「鷺」もそうでした。だから蕪村の句碑はこれまでも、心に刻まれていいはずでした。なぜ、そうなったのか、自分なりに考えてみました。それは一重に私は「水青鷺」という種類の青鷺を蕪村が詠んだとばかり思っていて、何の感興も催さなかったのです。
ところが、今回、「夕風」と流れる「川水」が「青鷺」の「脛」を「うつ」と読めたのです。今は「梅雨期」、しかも蒸し暑い「盛夏」を経験している私にとり、夏を越え、一挙に秋の涼風と冬を覚えさせる厳しい寒さまでも思い出させる俳句となったのです。俳句という五七五短詩形に自然がしっかり読み込まれているのですね。俳句の妙味と思わざるを得ません。
聖書のことばも凡庸に日を過ごしていた時にはわからないでいたことばがにわかに真実となって迫ってくる時があるものです。次のみことばは『九人の子ども』の「大きくなったら」(90頁)という題名で長男のジョンが大きくなったら、「サクリョク家」になりたいと言ってきたときに、さらによく聞いてみると、「作曲家」になりたいということだったと母親であるドリス・オルドリッチが明かし、ジョンが将来、自分の歩む道を主が与えてくださる「いのちの道」を尋ね求める者となってくれたらなーと引用していたみことばです。
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(旧約聖書 詩篇16篇11節)
このみことばは信仰者の諸先輩が頼りにしているみことばの一つであることは私も知っていましたが、イエスさまが開いてくださった「いのちの道」に私はそれほど目を向けていませんでした。今回『九人の子ども』を読みながら「いのちの道」を改めて子どもたちの素直な目線で体験させていただきました。何度その前を通っても、蕪村の俳句をやり過ごしていたように、このような聖書の詩篇のみことばも、すんでのところで私にとって死んだことばになるところでした。
下の写真は白鷺のいる同じ田んぼの一角です。ここでは奥に母鴨、手前に三羽の子鴨しか見えていませんが、他に七羽の子鴨がはしゃいていました。