2025年1月21日火曜日

『財布君』と私たち

朝日浴び 新春の気 漲(みなぎ)れり  2025.1.4
 昨夕、家内の財布が見当たらなくなった。家内は、買い物袋、ポーチ、服のポケット、また部屋の中などありとあらゆるところを必死に探してみるが、どこからも出てきそうにない。そう言えば先週、友人が雑談の中で、自転車で外出して財布を落としたが、拾った人が警察に届けてくれて見つかったと嬉しそうに話したのを耳にしたばかりだった。その際、友人は「(悪いニュースばかり流れるが、)こんなふうに、世の中には正直に届けてくれる人がいるんだよね」と感にいると言わんばかりであった。それもそのはず、友人はその財布に大切なものを一切合切入れていたのだ。

 こんな時、いつもなら家内の失策をあげつらって私はガミガミ言うのだが、昨晩は我ながら、落ち着いていて、家内を責めるでなく、一緒になって、室内をなめるが如く、徹底的に探した。かれこれ一時間程度探したであろうか。それでも見つからない。こうなるとどこかで落としたに違いないと結論づけるしかなかった。記憶できない家内に代わり、財布の所在を遡って思い出すことにした。昼前、「ダスキン」の人が来て、家内がお金を払った。その後、自転車に乗り、古利根川べりの散歩に出かけ、その足で「ベルク」に買い物に出かけ、そこでも家内が代金を払った。自転車で家に戻る途中、何とかと言う薬チェーン店に立ち寄ったが、お目当ての品物がなく、買わずに店を出てきた。そこまで思い出せた。

 多分、その間のどこかで財布が落ちたのに違いない。でも見つからないだろうと、思いながら、先日の友人の話もあるので、とりあえず警察に電話した。受付の方が丁寧に応対してくださった。遺失物届けである。遺失物の内容を問われて家内が出たが、一枚のキャッシュカードが入っていることは確かだが、その他のものは思い出せなかった。生憎、警察には現時点では届いていないと言われ、万事休すであった。ただ、その時、「ベルク」や「ウエルシア」に立ち寄られたのなら、そちらのお店にも聞いてみられてはどうですか、と言われた。

 それで先ず、「ベルク」に電話したが、「(そのようなものは)ありません」という答えだった。「ウエルシア」では店内には入ったが、お目当ての品物がなく、買い物もせず、そのまま出てきたので、電話しても無駄だろうと思ったが、一か八かで電話した。しかし、何とそのお店に件(くだん)の財布はあった。その一報を耳にして家内も私もどんなに喜んだことか。家内は自分の不注意で夫にも迷惑をかけ、またキャッシュカード紛失届に銀行に赴かなければならないと覚悟していただけに大変な「救い」を体験したに違いない。

 買い物をしなかった「ウエルシア」にその財布(実は「小銭入れ」だったが)が届けられていたとは不思議だった。つらつら考えてみると、お金を持っていなかった私が家内から小銭入れを預かって、店内に入り、お目当ての品物がなく、店外で待っていた家内と合流して帰ってきたのではなかったか。その辺の記憶は家内には全然ないし、私にも記憶がない。ただ合理的な根拠を次々と時系列で詰めてみるとそうではないかと思った。

 財布の手渡しが駐車場で行われ、その際どちらかが意識しない形で『財布君』は私たちの手元を離れたに違いない。そして、通られた来客のどなたかに拾われ、お店の人に届けられ、のちに持ち主である私たちからの電話で、『財布君』は無事に私たちの元に帰ってきたのだ。数日前の友人の話に続き、また新たに人の善意を覚える昨夕の出来事となった。そして財布をなくした妻をいつものようには責めなかった私に、主なる神はすでに私の不注意だということを知らしめようとしておられたのではないだろうか。

 これらの文章の最後は私の推測であって、本当のところはどうだったかはわからない。ミステリーと言えばミステリーである。さて、このような失くしものとそれが見つかった時の喜びはこの上もないことはどなたも経験しておられるのではないだろうか。

 私は家内のなくし物を家内と一緒になって探したが、それは言うまでもなく、下の聖句にある女の人の「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか」に促されての行動だった。だから、それが出てきた時の喜びを一瞬のうちだが、家内と共に共有できた。そこには拾ってくださった方の善意があっての結果だったことを覚える。それは小さな喜びであったが、ここでイエス様は、なくなった銀貨が見つかった人の喜びがたとえようもない喜びであったことを、私たちに注意させておられる。その喜びはまた「わき起こる」とも言っておられる。私たち自身が『財布君』であることを覚えたい。

女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(新約聖書 ルカの福音書15章8節〜10節)

2025年1月20日月曜日

甲乙付け難し

鴨くん ごめんね みんなで寛いでいたのにね 2025.1.11

 歌は人間生活に欠かせない。そこには、「詩」がある。漢字は言偏に寺を宛てている、まさしくそういうものであろう。ところでキリスト者生活にはこの歌が欠かせない。この一ヶ月間年末から年始にかけても、聖書輪読と散歩は日々欠かしたことのない日課としてきたが、それに少しずつ讃美を加え始めた。その中で出会ったのがかの有名な『いつくしみ深き友なるイエスは』(※)「と三度も繰り返される讃美歌312番である(今の世、この歌に思い当たらない方も、you tubeで存分に聴くことができますね)。この歌が生まれるにあたってはそれなりの一人の人間の心が、「詩」があった。そして今やその「詩」は全世界に伝えられるようになった。

 この機会に邦文で知ることのできるその「詩」を三つ順次にあげた。いずれの邦文も甲乙付け難しである。読者諸兄姉はどう思われるだろうか。

讃美歌312番の歌詞は

いつくしみ深き 友なるイエスは、罪とが憂いを  とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、などかは下さぬ 負える重荷を

いつくしみ深き 友なるイエスは、我らの弱きを 知りて憐れむ。
悩みかなしみに 沈めるときも、祈りにこたえて 慰めたまわん。

いつくしみ深き 友なるイエスは、かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友我らを 棄て去るときも、祈りに答えて 労(いたわ)りたまわん。

と、なっている。
聖歌607番の歌詞は

罪とがを荷のう 友なるイエスに 打ち明け得るとは いかなる幸ぞ。
安きのなき者 悩み負う者 友なるイエスをば 訪れよかし。

試みの朝(あした) 泣き明かす夜 気落ちせずすべて 打ち明けまつれ。
われらの弱きを 知れるきみのみ われらの涙の もとを読みたもう。

気疲れせし者 重荷負う者 隠れ家なる主に すがれ直ちに。
なが友は笑い 迫害すとも 主はなれを抱(いだ)き 慰めたまわん。

一方、キリスト集会が使用している『日々の歌』180番の歌詞は

心を主イエスに注ぎ出す時、主はいと優しく語らいたもう。
悩みと憂いに沈むその時、主イエスは呼ばれる、みそば近くに。

試みにもだえ涙する夜、痛む心をば主イエスの前に。
私の弱さも涙のもとも、優しい御手もて、抱きとめたもう。

重荷を負う者、疲れた者に、「来なさい」と主イエス呼びかけたもう。
浮世に責められ嘲られても、主はいつも我と、共にいたもう。

※原曲歌詞は”What a friend we have in Jesus ”Joseph Scriven

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、我らの避け所である。(旧約聖書 詩篇62篇8節)