朝日浴び 新春の気 漲(みなぎ)れり 2025.1.4 |
昨夕、家内の財布が見当たらなくなった。家内は、買い物袋、ポーチ、服のポケット、また部屋の中などありとあらゆるところを必死に探してみるが、どこからも出てきそうにない。そう言えば先週、友人が雑談の中で、自転車で外出して財布を落としたが、拾った人が警察に届けてくれて見つかったと嬉しそうに話したのを耳にしたばかりだった。その際、友人は「(悪いニュースばかり流れるが、)こんなふうに、世の中には正直に届けてくれる人がいるんだよね」と感にいると言わんばかりであった。それもそのはず、友人はその財布に大切なものを一切合切入れていたのだ。
こんな時、いつもなら家内の失策をあげつらって私はガミガミ言うのだが、昨晩は我ながら、落ち着いていて、家内を責めるでなく、一緒になって、室内をなめるが如く、徹底的に探した。かれこれ一時間程度探したであろうか。それでも見つからない。こうなるとどこかで落としたに違いないと結論づけるしかなかった。記憶できない家内に代わり、財布の所在を遡って思い出すことにした。昼前、「ダスキン」の人が来て、家内がお金を払った。その後、自転車に乗り、古利根川べりの散歩に出かけ、その足で「ベルク」に買い物に出かけ、そこでも家内が代金を払った。自転車で家に戻る途中、何とかと言う薬チェーン店に立ち寄ったが、お目当ての品物がなく、買わずに店を出てきた。そこまで思い出せた。
多分、その間のどこかで財布が落ちたのに違いない。でも見つからないだろうと、思いながら、先日の友人の話もあるので、とりあえず警察に電話した。受付の方が丁寧に応対してくださった。遺失物届けである。遺失物の内容を問われて家内が出たが、一枚のキャッシュカードが入っていることは確かだが、その他のものは思い出せなかった。生憎、警察には現時点では届いていないと言われ、万事休すであった。ただ、その時、「ベルク」や「ウエルシア」に立ち寄られたのなら、そちらのお店にも聞いてみられてはどうですか、と言われた。
それで先ず、「ベルク」に電話したが、「(そのようなものは)ありません」という答えだった。「ウエルシア」では店内には入ったが、お目当ての品物がなく、買い物もせず、そのまま出てきたので、電話しても無駄だろうと思ったが、一か八かで電話した。しかし、何とそのお店に件(くだん)の財布はあった。その一報を耳にして家内も私もどんなに喜んだことか。家内は自分の不注意で夫にも迷惑をかけ、またキャッシュカード紛失届に銀行に赴かなければならないと覚悟していただけに大変な「救い」を体験したに違いない。
買い物をしなかった「ウエルシア」にその財布(実は「小銭入れ」だったが)が届けられていたとは不思議だった。つらつら考えてみると、お金を持っていなかった私が家内から小銭入れを預かって、店内に入り、お目当ての品物がなく、店外で待っていた家内と合流して帰ってきたのではなかったか。その辺の記憶は家内には全然ないし、私にも記憶がない。ただ合理的な根拠を次々と時系列で詰めてみるとそうではないかと思った。
財布の手渡しが駐車場で行われ、その際どちらかが意識しない形で『財布君』は私たちの手元を離れたに違いない。そして、通られた来客のどなたかに拾われ、お店の人に届けられ、のちに持ち主である私たちからの電話で、『財布君』は無事に私たちの元に帰ってきたのだ。数日前の友人の話に続き、また新たに人の善意を覚える昨夕の出来事となった。そして財布をなくした妻をいつものようには責めなかった私に、主なる神はすでに私の不注意だということを知らしめようとしておられたのではないだろうか。
こんな時、いつもなら家内の失策をあげつらって私はガミガミ言うのだが、昨晩は我ながら、落ち着いていて、家内を責めるでなく、一緒になって、室内をなめるが如く、徹底的に探した。かれこれ一時間程度探したであろうか。それでも見つからない。こうなるとどこかで落としたに違いないと結論づけるしかなかった。記憶できない家内に代わり、財布の所在を遡って思い出すことにした。昼前、「ダスキン」の人が来て、家内がお金を払った。その後、自転車に乗り、古利根川べりの散歩に出かけ、その足で「ベルク」に買い物に出かけ、そこでも家内が代金を払った。自転車で家に戻る途中、何とかと言う薬チェーン店に立ち寄ったが、お目当ての品物がなく、買わずに店を出てきた。そこまで思い出せた。
多分、その間のどこかで財布が落ちたのに違いない。でも見つからないだろうと、思いながら、先日の友人の話もあるので、とりあえず警察に電話した。受付の方が丁寧に応対してくださった。遺失物届けである。遺失物の内容を問われて家内が出たが、一枚のキャッシュカードが入っていることは確かだが、その他のものは思い出せなかった。生憎、警察には現時点では届いていないと言われ、万事休すであった。ただ、その時、「ベルク」や「ウエルシア」に立ち寄られたのなら、そちらのお店にも聞いてみられてはどうですか、と言われた。
それで先ず、「ベルク」に電話したが、「(そのようなものは)ありません」という答えだった。「ウエルシア」では店内には入ったが、お目当ての品物がなく、買い物もせず、そのまま出てきたので、電話しても無駄だろうと思ったが、一か八かで電話した。しかし、何とそのお店に件(くだん)の財布はあった。その一報を耳にして家内も私もどんなに喜んだことか。家内は自分の不注意で夫にも迷惑をかけ、またキャッシュカード紛失届に銀行に赴かなければならないと覚悟していただけに大変な「救い」を体験したに違いない。
買い物をしなかった「ウエルシア」にその財布(実は「小銭入れ」だったが)が届けられていたとは不思議だった。つらつら考えてみると、お金を持っていなかった私が家内から小銭入れを預かって、店内に入り、お目当ての品物がなく、店外で待っていた家内と合流して帰ってきたのではなかったか。その辺の記憶は家内には全然ないし、私にも記憶がない。ただ合理的な根拠を次々と時系列で詰めてみるとそうではないかと思った。
財布の手渡しが駐車場で行われ、その際どちらかが意識しない形で『財布君』は私たちの手元を離れたに違いない。そして、通られた来客のどなたかに拾われ、お店の人に届けられ、のちに持ち主である私たちからの電話で、『財布君』は無事に私たちの元に帰ってきたのだ。数日前の友人の話に続き、また新たに人の善意を覚える昨夕の出来事となった。そして財布をなくした妻をいつものようには責めなかった私に、主なる神はすでに私の不注意だということを知らしめようとしておられたのではないだろうか。
これらの文章の最後は私の推測であって、本当のところはどうだったかはわからない。ミステリーと言えばミステリーである。さて、このような失くしものとそれが見つかった時の喜びはこの上もないことはどなたも経験しておられるのではないだろうか。
私は家内のなくし物を家内と一緒になって探したが、それは言うまでもなく、下の聖句にある女の人の「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか」に促されての行動だった。だから、それが出てきた時の喜びを一瞬のうちだが、家内と共に共有できた。そこには拾ってくださった方の善意があっての結果だったことを覚える。それは小さな喜びであったが、ここでイエス様は、なくなった銀貨が見つかった人の喜びがたとえようもない喜びであったことを、私たちに注意させておられる。その喜びはまた「わき起こる」とも言っておられる。私たち自身が『財布君』であることを覚えたい。
女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(新約聖書 ルカの福音書15章8節〜10節)
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