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蛙啼き シービービーと 歩み居り |
最近同伴者は私に数歩遅れてついて来る。私としては同伴者と、飛び交う鳥や蝶々を眺め、会話を交わしながら歩みたいのだが、同伴者にはそれよりも大切なことがあるらしい。この一月たらずの間にたくさんの草花はあちらこちらで生い茂り、私たちの背丈に追い迫る勢いだ。同伴者はそのことが気がかりのようだ。雑草が蔓延(はびこ)るのが許せないようだ。
盛んに雑草の種が飛ばないようにと草をちょん切っているのだ。私は自然派で伸びるなら伸びていい、むしろ生態系を壊すから「やめろ」と言うのだが、一向に気にしない。使命感を感じているようだ。そんな同伴者が、散歩も最終地点に差し掛かったところで、写真のシービービーをまた見つけて草笛を吹いてくれた。
実は二、三日前に同伴者がシービービーを採って、試みに草笛を吹いてみたのだ。その時私はその所作を知らず、耳の側で何やら聴き慣れない音が聞こえて来たので、てっきり補聴器が壊れたのだと思った。が、そうでなく、同伴者が私を驚かせようと私の耳元で草笛を吹いたのであった。そう言えば、その時すれ違った、乳母車に赤ちゃんを乗せた若いお母さんが、何か顔を輝かせて私たちの方を見ていた。老夫婦が「シービービー」と草笛を吹いて楽しんでいる、微笑ましいと思ったのだろう。
その時、同伴者は実に何十年ぶりだと喜んで言った。私にとっても幼い時に女の子たちが楽しそうに草笛を吹くのだが、自分では出来ないので、それっきりだった代物であったので童心に帰って嬉しくなった。
だから同伴者に今日も草笛を所望したのだ。ところで、すぐそばには未だ田植えをしていない田が広がっていた。その田んぼにどれだけの蛙がいるのだろう。それこそシービービーの草笛の音、何のその、特有の啼き声を聞かせてくれた。今夜にでも雨が降るのだろうか。
家に帰ってこの記事を書くうちに二枚の写真を見せ、同伴者に写真はどちらが良いか尋ねたら、完全に意見が分かれた。最初の冒頭の写真が私の載せたい写真。下を良いと言うのが同伴者の考えだ。読者はどちらがいいと思われるだろうか?
さて、私がこの記事を書く気になったのは、二千年前のイエス様と弟子たちの牧歌的な記事が念頭にあった。そのくだりを以下に写しておく。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。(新約聖書 マタイ11章28節〜12章1節)
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