2025年6月3日火曜日

夜ふけの川辺に・・・

中堀から望見する佐和口多聞櫓と天守(彦根城) 2015.5.27
 昨日のKさんはCDと一緒に、聖歌558番、532番の歌詞・詩を是非味わってくださいと手書きでコメントされていました。それで手元にある1992年版の『聖歌』から558番の歌詞を写させていただきました。原詩はイギリスのチャールズ・ウエスレー(1707〜1788)のものです。どなたが訳されたのかわかりませんが、きれいな日本語に訳されていて感謝です。この場を借りてお礼申し上げます。

夜ふけの川辺に
友らと別れて
ただひとり ものを思い居(お)りし時
この身に挑(いど)みて 組み打ち始めし
目に見えぬ人よ
名を証(あか)し給え

如何(いか)なるお方ぞ
この身の悩みと罪・咎(とが)
ことごと見抜き給いしか
この身は知らねど
祝し給わずば
汝(なれ)をば去らせじ 夜明けとなるとも

君は我がために
身代わりとなりて
数多(あまた)の悩みを
受けさせ給いしお方にあらずや
祝し給え
今、よしこの腰骨(こしぼね)砕かせ給うとも

腰は立たずとも
この手はゆるめじ
汝(な)が恵みなくば 生くる甲斐もなし
死力を尽くして 取り組むこの身を
いざ祝し給え
明け方来ぬ間に

闇夜は明け行き
朝(あした)は来(きた)れり
古きは過ぎ去り 新しくなれり
砕かれ尽くして 明け渡しし今
罪の力にも
この身は勝つを得ん

小鹿(おじか)のごとくに
ヤコブさえおどり
神の御力をほめたたえまつる
世にあるかぎりは
「ペヌエル」証(あか)しせん
げに「こころきよきものは神みる」と

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(新約聖書 マタイの福音書5章8節)

2025年6月2日月曜日

「水無月」の始まり

 昨日から6月に入った。古利根川の堤を降りて、果たして田植えは始まっているのだろうかと、目を凝らして見れば、遠くからではあるが、水田が前日までとは違い、うっすらと緑がかっていることに気づいた。近づくとつがいの鴨二羽が悠然と水田を屯しているではないか。慌てて、iPhoneをショルダーバッグから取り出し、二枚ほど写真に収めた。しかし、私のこの所作は彼らに警戒心を与えたのだろう。すぐに二羽して飛び立ってどこかへ行ってしまった。

 今年も鴨家族の姿を観察できるのだと思うと嬉しくなった。ちなみに昨年のブログはどうだったのかと検索してみたら、次のようであった。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post.html
 昨年は私にとって初めての体験であったから、興奮気味の文章を綴っているのが、何となく伝わってきた。あれから一年経つのだと思うのはやはり何となく寂しいし、辛い。自分はどこに座標軸を置いて生きているのだろうかと、改めて時の迫るのを覚えさせられるからである。

 けれども昨日はもう一つ嬉しいことがあった。それはKご婦人のオカリナ演奏のCDをYさんを介していただいたからである。昼間の礼拝の後にいただいたのだが、私はあまり関心を示さず、うっちゃっておいた。これも私のどうしようもない生まれながらの性質ではある。しかし、その後、Yさんから、なぜKさんがこのようなCDを私たちにくださったのかを、メールで知らされ、襟を正され、家内と二人で聞いた。

 全部で67曲のオカリナによる演奏であった。聖歌、讃美歌、日々の歌、童謡、ショパンの別れの曲などが入り混じって次々と演奏されていた。Kさんは左親指が不自由だそうだ。そんなこととは想像もできない。試練の中でオカリナ演奏は、主イエス様への問いかけ、祈りの時ではなかったかとYさんは書き寄越して来てくださっていた。まさにその通りだと思わずにおれなかった。

 その上、家内がこのオカリナ演奏を喜び、それぞれの曲目に私以上に歌詞を、全部ではないが、すらすらつけて歌っていることにびっくりさせられた。このまま回復するのじゃないかと錯覚させられるほどだった。「音楽」と「美術」は彼女の昔取った趣味の杵柄(きねづか)だのに、絵はここ数年とんと描かなくなった。しかし、歌は今も歌うが、このKさんのオカリナ演奏を通して伝わって来る息遣いは、私たち夫婦の魂を揺さぶるのに十分だった。

 こうして、昨日は、私も遅ればせながら、そういう生き方、Kご婦人のような生き方ができればと思わされる、「水無月」の始まりの日となった。

神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(旧約聖書 創世記2章7節)