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いちじくを味わい 心満ち足りる |
イエス様が言われるように、「平和をつくる者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:9)だろう。明らかに、知人・隣人の私たちに寄せてくださっているご行為もまた、小さくとも「平和をつくる」一里塚だと覚えさせられる。また、このようにもおっしゃっている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:3〜4)
恩恵をひたすら受けている者が、あえて引用すべきみことばではないと思うが、引用させていただいた。冒頭のいちじくの贈り主は、突然現れなさったが、実はその数分前に、マルコの福音書10章を読んでいて痛く示されることがあり、その時、チラッとその方のことをも思い浮かべさせていただいていたのだ。主なる神様との以心伝心、父なる神様がこんな小さな者の思いも導いていてくださることを心から感謝する。
さて、いちじくがどんなに昔から用いられていたかを示す旧約聖書のことばを写しておく(※)。それは、ナバルという男が、当時王に追われて放浪せざるを得なかったダビデから飲食を求められたが、それまでにダビデから受けたご恩を忘れてしまったかのように、けんもほろろに追い返した時、妻アビガイルは夫と違い聡明な女で、かつてのダビデから受けた恩を忘れず、夫の非を詫びるため、糧食をもって赦しを乞い願う場面だ。
そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。彼女がろばに乗って山陰(やまかげ)を下って来ると、ちょうど、ダビデとその部下が彼女のほうに降りて来るのに出会った。(旧約聖書 1サムエル25章18〜20)
この結末がどうなるか、復讐に燃えるダビデがナバル討伐に向かう、片や、主の愛に動かされるが如くにナバルの罪をかぶってダビデのもとに急いで向かう、さて両者の攻防や如何に、興味津々たる思いがするが、聖書の続きの個所でご確認いただきたい。それにしてもこの執りなしに用いられている糧食の始めがパン二百個であり、最後にやはり二百個の干しいちじくであったとは、なかなかどうして「いちじく」とは味わい深い食べ物だ。
※聖書には旧約新約を問わず、いちじくに言及した個所がたくさんある。極めつきは、創世記3章7節、ヨハネの福音書1章48節、マルコの福音書11章12節以下などであろう。
いちじくを味わい 心満ち足りる
返信削除と表記した方が、意味が伝わります。俳句は普通間を空けず書きます。(前に一度伝えたことがあるかも)が、575で区切って書く人もいます。まあ自由なのですが「味わい心」では意味をなしません。(またまたお節介を…)
当然ですよね。文意はまさしく、その通りなんです。それを無理して、変なところで、五七五に合わせるべく区切ってしまいました。俳句に無知なる者の仕業です。良くぞ、ご指摘くださいました!
返信削除失礼しました。本文も直していただいて。
返信削除私は17文字を続けて書いています。どこで切るのかは、読者にお任せ。読者によっては、こちらの意図しない区切り方をして、全く違う解釈をされた方もいます。でもそれもありかと。