2010年3月31日水曜日

それは水曜日のことだった


さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエ スを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。(新約聖書 ルカ22・3~6)

 今週は今年の受難週に入っている。受難週は主イエス様の十字架の死を思い、私たちそれぞれが自分の罪を思うのにもっともふさわしい時であろう。ジェームズ・ストーカーの『キリスト伝』(村岡崇光訳156頁)から以下引用する。

 イスカリオテのユダは、人類の物笑いの種である。ダンテはその作品「地獄の異象」の中で、サタン自身と一緒に最も苦しい刑罰を受けるただ一人の者として、地獄におちた亡者どもの中で彼を一番低い位置に置いている。そしてこの詩人の評定は、同時に人類の評定でもある。

 とはいっても、彼は全く理解や同情すらないような極悪非道の男ではなかった。彼の下劣な驚くべき堕落の歴史は、完全に理解できる。他の使徒たちと同じように、政治革命に参画して、地上の王国では名誉ある地位を占めることを期待して、イエスの弟子に加わったのだった。かつて、ユダのどこかに、ある高潔な熱心とイエスへの愛着があったからこそ、イエスは彼を使徒に選ばれたのであろう。彼が人並みすぐれた精力家で、金銭の管理がうまかったということは、彼が使徒団の会計係に選ばれたという事実から察せられよう。

 しかし彼の性格の根底にはガン腫病ができていた。それが徐々に、彼に備わっていた一切の優秀なものを吸収していって、暴虐な激情と変わった。金に対する愛がそれだった。彼は、イエスが弟子たちの必要のためや、日々接しておられた貧者に施すために友人から受けられた小額の献金を、少しずつ着服してこの菌を養った。彼は、新しい国の大蔵大臣になった暁には、その菌に思う存分ふるまってやれることを夢みていた。

 他の使徒の考えも、初めは彼と同じように世的なものであったろう。しかし彼らと主との交わりの歴史は、まるっきり異なっていた。彼らはますます霊的になり、彼はますます世俗的になっていった。もっとも彼らとても、イエスの在世中は、地上の国を離れて、霊的な意味での天国の概念にまでは達し得なかった。しかし主がその物質的考えに加えるように教えられた霊的な要素は、いよいよ目立ってきて、ついに地上的なものを駆逐し、あとには殻のみが残り、それも時がくれば、潰されて吹き飛ばされるべきものであった。

 だがユダの現世的な考えはいよいよひどくなり、霊的な面は、一つ一つと除かれていった。自分の思っている天国がいっこうに来ないのが、もどかしかった。説教やいやしは、時間の浪費のように思えた。イエスの清純さ、脱俗的態度がはがゆかった。どうしてイエスは、いますぐ天国をもたらされないのだろう。説教なら、それからでも好きなだけできるのに、と思った。

 最後には、自分が望んでいるような天国は、来ないのではないのかと疑いだした。だまされたと思って、主を侮るばかりか、憎むことさえしだした。しゅろの聖日に民衆の気持ちを利用しようとしてイエスが失敗された時(※)、彼はこんな夢にいつまでもしがみついているのは無用だということをはっきりと知った。彼は船が沈没しつつあることを見てとって、脱出を決意した。

 自分の金銭欲をも満足させ、権力者たちのひいきをも得られるようなやりかたで、それを実行した。彼の申し出は、全く時機にかなっていた。彼らはそれに意地汚く飛びついて、この卑しむべき男と値段を取りきめ、裏切りにつごうのいい機会をさがさせにやった。機会は彼らの予想以上に早く見つかった。―それは、あの低劣な取引が結ばれた翌々晩のことだった。

※聖書を読むときこの部分は事情が違うのではないかと思う。すなわちイエス様が民衆の気持ちを利用しようとされたところは一切見当たらないからである。ストーカー氏がなぜこう書いたのか疑問に思う箇所ではある。ひいき目に考えればそうユダは考えたという叙述になるだろうか。

(写真は一昨日用事で出かけた街中で見かけた「白モクレン」。天候の変わりやすい一日であったが、この時ばかりは空が青かった。この日も日ごろ祈っていて住所を失念し、こちらから連絡が取りえず中々会えなかった人と街路でばったり出会えた。主は私たちの声に出さない叫びをいつもチャンと聞いておられる、と思った。昨日は珍しく、朝から晴れ渡っていた。「空の青 ユダの心を  持つか我」)

2010年3月30日火曜日

11章 THE GOSPEL IN SONG (4) 補遺 聖歌476番のこと 


 以下は以前のブログ記事「泉あるところ」で記した「一つの賛美歌の誕生の舞台裏」(2008.11.25)と題して述べたものの再録である。

 35、6年前、私は教会で一人の良き信仰の先輩を亡くした。中学校を出てすぐ家具製造職人として働いていた人だった。当時私は足利に住んでいて電車で時間をかけて春日部の教会まで通っていた。帰りが遅くなり電車がなくなると、彼が気前良く車に乗せて私の家まで送ってくれた。気さくでどんな人も愛する人であった。その彼が癌で亡くなったのであった。葬儀の席上で彼の愛唱歌(聖歌476番賛美歌520番)を歌った。

 安けさが 川のごとくに心を浸すとき
 悲しみが 波のごとくにわが胸を満たすとき
 道がいかなるときにても なんじは教えて言わ しむ
 安し 安し 心安しと

 まだ、主を信じていてもイエス様のよみがえりを心の底で受け入れていなかった私にとって彼の死は悲しみの方が多かったように思う。爾来この歌を歌 うたびに35、6年前の彼の葬儀を思い出す。ところが昨日ある本を読んでいたらこの歌の出典が書いてあった。それで少しインターネットで調べてみた。

 この歌詞の作者はH.G.スパッフォード(1828-1888)である。彼はシカゴの裕福な実業家であり、十四歳年下の奥様との間に四人の女の子 が与えられ何不自由もない幸せな生活を送っていた。その彼が二つの衝撃的な出来事に遭遇したことがきっかけでこの歌詞は生まれたと言う。

 先ず第一は1871年にシカゴの大火に見舞われ、彼が投資していた不動産が全部灰燼に帰したできごとである。それから2年して彼は奥様の健康を気遣い、一家でヨーロッパへ休暇に出かけようと計画を立てた。汽船で大西洋を横断してパリへと行く予定だった。ところがいざ出発となって彼の仕事が入り、奥様とお子さんが先に行くことになった。

 惨事はその大西洋航路で起きてしまった。これが第二の出来事だ。イギリスの帆船が奥様お子さん方を乗せていた「ル・アーブル市号」というその汽船に衝突し乗客は冷たい海に投げ出され、226人の人々が犠牲になったのだ。その中に彼の子どもたち全部がふくまれていた。奇跡的に奥様は救い出される。9日間後に別のイギリス貨物船でカージフに上陸した彼女は夫に打電する。「ヒトリスクワレタ」。

 報せを受けてスパッフォードは妻を迎えに大西洋航路に乗り込む。船長より海難の場所を通過する際に説明を受け、深さ3マイルの深海を見つめる。悲 しみが海の波のように彼の心を浸したのだ。しかしその時、彼の心には先ほどの歌詞が天啓のごとくわきあがってきたと言う。(くわしくは http://www.loc.gov/exhibits/americancolony/amcolony-home.htmlを見られると良い。その サイトには奥様の打たれた電文、彼の用いた聖書などがネットで見られる。)

 「昔、ペット殺され」。昨日の東京新聞の朝刊の見出しであった。34年前の出来事が今もトラウマのように彼の心を縛り、信じられないような殺害がなされた。スタッフォードにとって二つの大きなトラウマがあった。そのトラウマがトラウマとならなかったのは

 道がいかなるときにても なんじは教えて言わしむ
 安し 安し 心安しと

言われる、「なんじ」であるイエス様に対する信頼であった。娘たちは深海にいるのではない。彼らとまた天の御国で再会できると彼は思い定めていた。 彼はその後与えられた長男をまたしても病気で幼くして失う。波乱万丈、しかし彼の主への思いは尽きなかったようだ。後年イスラエルに移住しアメリカ・コロ ニーを創設し、エルサレムで亡くなる。(なおこの讃美歌を作曲した方もその後列車事故で亡くなる。不思議な作品ではある。)

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。(新約聖書 ピリピ4・11)

 ここまでが以前のブログの再録である。ところで今回私たちの敬愛する若くして有能なる医師Tさんが45歳で召され、その葬儀がつい二週間前持たれた。最初に歌われた歌はやはりこの歌であった。歌詞は以下のものであった。

 安けさは 川のごとく 心ひたす時
 悲しみは 波のごとく わが胸 満たす時
 すべて 安し 御神 ともにませば

 悪しきもの 迫りくとも 試みありとも
 御子イエスの血の いさおし ただ頼む わが身は
 すべて 安し 御神 ともにませば

 見よ わが罪は 十字架に 釘づけられたり
 この安き この喜び たれも 損ないえじ
 すべて 安し 御神 ともにませば

 よし天地(あめつち)崩れ去り ラッパの音とともに
 御子イエス あらわるるとも などて 恐るべしや
 すべて 安し 御神 ともにませば

 遺された4人のお子様、奥様が別離の悲しみがある中で、天国での再会の約束をしっかり握っておられた。奥様は最後の御挨拶で医師としての御主人の働きがいかに人のいのちを守るための血みどろの戦いであったかを主にある尊敬をもって話され、御主人の病のためにいただかれたさまざまな人々の愛に感謝し「私たちはこんなに神様に愛されています、幸せです」と証された。私自身もあの30数年前とは異なり、なぜか最後のフ レーズが今回繰り返し思わされた。それは主イエス様が再び来られることを心から信じられる平安である。げにD.L.Moody By C.R.Erdmanが描くごとく、福音賛美歌は私たちの心の中にまことの信仰を植えつけるものだ。

 大黒柱を失ったTさん御一家の今後のために祈り続ける者でありたい。

(写真は庭先の椿の花。知人は先日部屋に入って来るなり、この椿を見て「優雅ですね、優雅ですね」と感にいっておられた。家人によるとかつて所属した教会の母の日にプレゼントしていただいた丈2、30センチ足らずのものが始まりだということだ。さて本日の記事は、受難週のユダの裏切りの曜日を間違えて記してしまい、いったん本日分として載せたが、途中で間違いに気づき、明日の分として載せることにした。実は内心自信がなかっ たので気になっていたが、パスカルの『要約イエス・キリスト伝』の叙述で、間違いを確かめた。彼の書き方は独特なのだが「その翌日3月12日火曜日、朝、弟子たちはまた、いちじくの木のそばを・・・、3月13日水曜日、朝、イエスは、ふつかの後には過ぎ越しの祭りになることを告げられた。・・・、その日、イスカリオテ・ユダにサタンがはいった・・・」と記している。日時の限定は当時のフランスの聖書知識によるものだと思うが、曜日はほぼこの通りだと思う。申し訳ありませんでした。

2010年3月29日月曜日

春場所終わる


 中々天気が良くならない。しかし、木々や草花はそれぞれ健気にこの寒天下で装いも新たに生きている。今朝も、写真の「あせび」に小鳥が二羽、三羽と餌をついばみにやってきた。庭の草木が静かにしている中で、あせびだけが揺らいでいる。風でもなく、何なのかと窓越しに目を見やると、小さなメジロが見えた。綱渡りよろしく、小さな小枝に乗りながらせっせと花に顔を突っ込んでは食探しに余念がない。

あせびには 馬酔わす木と 当てるのに メジロ二三羽 お構いなしよ

メジロ色 あせびの中で 動きたり

 昨日の千秋楽、久しぶりに大相撲を観戦した。ひいきの魁皇は何とか勝ち越しで千秋楽を迎えた。でもこの日、目の前で腰が折れるように崩れて心配した。年端は37歳でわが息子と歳は変わらないのに、それ以上に見えるのは不思議な力士の世界だ。朝青龍が引退して、一時どうなるかと危ぶまれた大相撲だが、救世主のごとく「バルト」が現れた。まだ漢字変換では「バルト」が漢字で出てこない、そんな御仁だ。あわよくば優勝を狙いかねない勝ちっぷりだった。

 優勝力士のインタビューでは白鵬がしきりに「疲れた」と連発していた。その中で面白いやり取りがあった。

アナウンサー 「今場所は負けないつもりで土俵に上がったのですか」
白鵬      「勝つつもりで上がりました」
アナウンサー 「勝つことだけを考えていたのですね」
白鵬      「いや、勝たないことを考えていました」
アナウンサー 「勝たないことですか?」
白鵬      「深い意味でね・・・」

 正確でないが、大方こんなやり取りが合ったような気がする。解説をしていた北の富士も15戦全勝した白鵬に敬意を表したか、いささか感心した様子で、「深い意味があるんですね」と珍しく辛口批評を控えて、後輩の活躍に期待感を示した。向こう正面の舞の海も朝青龍なきあとの大相撲の復興振りに安堵したのか、語り口がさわやかであった。

 あせびの木 春場所とて メジロ乗せ ゆらりゆらりと 15日経ちたり

 ちなみにこの写真は三月中旬のものだ。早く本格的な春が来て欲しい。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。(旧約聖書 伝道3・1~2)

2010年3月28日日曜日

まちがってはいけない クララ


 「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」(ガラテヤ6・7)「まちがってはけない。悪い交わりは、良いならわしをそこなう」(1コリント15・33)

 ある有名な説教者がその晩年、もはや余生も短くなったある日、つくづくと述懐し「もしも神が再び私を世に遣わして下さるならわたしは生涯をかけて、人は自分のまいたものを刈りとるとの聖言の真理を叫びつづけるであろう」と言いました。わたしもこの晩年、歳月を重ねた目をもって見る世界の歴史も個人の生涯も、この真理を厳かにもの語っていることに気づきます。一日一日蒔きつづけて行く種はよかれあしかれやがて私共銘々の心の蔵に収穫されるようになるのです。「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない」のです。

 アダムとエバは神のお言葉を曲げて自分の欲を成しました。彼らは夕風涼しい園に神の足音を聞いて木かげに身をかくしましたが、神の御目からかくれる事は出来ませんでした。そして彼等は自らの蒔いた反逆の実を刈り取りました。ヤコブは兄の衣を着て父イサクを欺き、兄の祝福を横取りしましたが、神を欺くことは出来ませんでした。彼は伯父ラバンの許にあった日、幾度だまされたことでしょう。そればかりではなく、自分の子供達から、愛するヨセフが野の獣に喰い殺されたと、血で色どった衣をもってだまされ、涙の谷につき落とされるような刈り入れをしなければなりませんでした。

 イスラエルの悪王アハブは一人の農夫の美しい葡萄畑を欲しくなり、彼を殺して畑を奪いました。神は見のがし給いません。ある戦場で彼は王衣をぬいで変装して戦車の中にいましたが、神よりの流れ矢は間違いなく彼の胸を射ぬきました。

 世の歴史が始まって以来、どんな知者でもいまだかつて神をだまし得た者はありません。「人は自分のまいたものを、刈り取る」とは神の定めであり事実です。

 さらにわたしどもが注意しなければならないことは、「まちがってはけない。悪い交わりは、良いならわしをそこなう」という人類への教えです。悪しき交わりの結果をわすれてはならないことです。日本の古語にも朱に交われば赤くなるとあり、詳訳には「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ良い習慣がそこなわれます」「悪い友だち関係は良い道徳的品性をそこないます」とあります。自分勝手な神を恐れないこの途を歩む人々がいかに恐ろしい窂に陥ったことでしょう。主はある盲人の目を開かれる時、彼を群衆から引き離されました。ザアカイは自らの低い身の丈を知って桑の木に登り群衆の思考や流行から離れて自分の在り方を新しくし、真実な存在と変えられました。

 お互いにこの世の群衆にだまされてはいけない。開かれた目をもって錯覚に狂わせられず、だまされず、やがての刈り入れをまちつつ目さめた途を歩みましょう。

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著89頁より引用。写真は先週日曜日のM新夫妻の結婚式のおり、お庭で拝見したボケの花。日本はこの春かつて経験したことのない寒い日々となっている。「庭先に 彩り添える ボケの花 新婚夫婦 寿ぎの宴」「ボケの花 朱に染めたり 庭園に 花婿語り 花嫁答う」)

2010年3月27日土曜日

服従の学課 


 昨日、某大学病院で集会の方と出会った。ご主人の手術のために待機されているところだった。ご主人のお兄さんお姉さんが傍にすわっておられた。弟さんのことを聞きつけて心配のあまり駆けつけて来られたのだろう。「兄弟姉妹」とはかく麗しいものだ。

 先日、高校の同級生にご親戚の吉田悦蔵氏(「近江の兄弟」の著者である)について電話でお聞きしたいと思ったが、生憎不在であった。後ほど私宛てに丁寧な手紙とご本が送られてきた。私がてっきりその本を持っていないのではないかと思い、わざわざ新版を送ってくれたのだが、その扉に彼の字で次の聖句が書きとめられてあった。

天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マタイ12・50)

 彼はどんな思いでそれを書きとめたのだろう。数年前彼といっしょに鎌倉を散歩しながら聞かされたのは名ばかりのキリスト者の存在に対する批難とも何とも言えない彼の怒りであった。彼が幼い時から体験してきたのはヴォーリズさんをとおして示された主の愛であったのに・・・。キリスト教に理想と期待を抱きながら未だに心傷ついている人が私の身辺にはたくさんいらっしゃる。

 以下に掲げる一中国人の証は、あの日中戦争のさなか1936年10月福建省で証されたものである。国家がどうあろうとも脈々と生き続けている「キリストのいのち」の流れを見ることができる。それはもはや「キリスト教」という宗派に堕したものからは窺い知ることのできない一キリスト者の証である。「兄弟愛」とはかくしてこそ成り立つのか。「近江の兄弟」では知り得ぬもう一方の「中国の兄弟」の証をしるす。

 1923年に、わたしたちのうち7人が、ともに主のために働きました。わたしともう一人の五歳年上の同労者が、先頭に立っていました。わたしたちは毎週金曜日に同労者の集会を持ちましたが、しばしば他の五人が、わたしたち二人の争うのを聞かされました。

 当時わたしたちはみな若く、それぞれ自分なりの考え方を持っていました。わたしはその同労者の間違いを責め、彼もまたわたしを責めたりしていました。その当時、わたしの血気はまだ対処されていませんでしたから、すぐにかっとなりました。今日(1936年)、わたしは笑うことができますが、その時は、笑うどころではありませんでした。二人の論争で、多くの場合、わたしが間違っていたことを認めます。しかし彼も、時には間違いました。

 自分の間違いを赦すのは容易であっても、相手の間違いを赦すのは容易ではありません。金曜日に争って、土曜日にはバーバー姉妹のところへ行き、その五歳年上の同労者のことを訴えました。わたしは言いました、「この同労者にこの方法でするべきだと言った時、彼は聞こうとしません。どうか彼に言ってください」。バーバー姉妹は答えました、「彼はあなたより五歳も年上です。あなたは彼の言うことを聞き、彼に従うべきです」。わたしが「理屈に合っても合わなくっても、彼に従うのですか?」と言うと、彼女は「そうです。若い人は年上の人に従うようにと、聖書は言っていますよ」と言うのでした。わたしは言いました、「そんなことはわたしにはできません。クリスチャンとはいえ、道理にかなって事をなすべきです」。彼女は言いました、「理由があるかないとかは問題にするべきではなく、聖書は、年下の者は年上の者に従うべきだと言っています」。わたしは心の中で怒って、聖書はそのようなことを言っているのだろうか、と言いました。憤りをぶちまけたいと思いましたが、それもできませんでした。

 毎週金曜日の論争の後、わたしは彼女のところへ行って、やるせない気持ちを訴えました。ところが彼女はいつも聖書を引用しては、わたしが年上の人に従うべきである、と言いました。時には、金曜日の午後、論争し、夜になって泣けてきました。そこで次の日、自分を弁護してくれることを期待して、バーバー姉妹のところへ行って、自分の気持ちを訴えました。しかし土曜日の夜、彼女の答えを聞くと、また家に帰って泣きました。わたしは、どうして彼よりももう少し早く生まれなかったのかと悔やみました。

 ある時の論争では、自分が理にかなっていることは、あまりにも明らかでした。そこであの同労者がいかに間違っているか、自分がいかに正しいかを指摘しました。ところが姉妹は言いました、「その同労者が間違っているかどうかは別の問題です。あなたは今わたしの前で、兄弟を訴えました。あなたは十字架を負っている人のようでしょうか?あなたは小羊のようでしょうか?」。彼女がこのように尋ねると、わたしは本当に恥ずかしく感じました。それを今でも決して忘れることができません。その日のわたしの言葉と態度は確かに、決して十字架を負った人のようでも、小羊のようでもありませんでした。

 このような状況の中で、わたしは年上の同労者に服することを学びました。その一年半に、わたしは生涯のうちで最も貴重な学課を学んだのです。わたしの頭にはさまざまな理想が詰まっていましたが、神はわたしに霊の訓練を受け入れるようにさせたかったのです。その一年半で、わたしは十字架を負うとは何かを、認識するようになりました。今日(1936年)、わたしには五十数人の同労者がいますが、もしあの一年半に服従の学課を学んでいなかったなら、今どんな人とも主のためにともに働くことはできなかったと思います。神がわたしをあのような環境に置かれたのは、わたしに聖霊の管理を受けさせるためでした。この18ヶ月の間、わたしは自分の提案を主張する機会が全くなく、ただ涙を流して、苦しみを耐え忍ぶだけでした。しかしもしこのようでなかったなら、わたしは自己がこんなにも対処しにくいものであることを知らなかったでしょう。神はわたしの性格上の出っ張りを削り取り、鋭い角を取り去ろうとされました。これは容易なことではありません。しかし神に感謝し、賛美します、神の恵みによって、彼はわたしを通らせてくださいました!

 今わたしは、若い同労者たちに言うことができます。もしあなたが十字架の試練に立つことができないのでしたら、役に立つ器にはなれません。ただ小羊の霊だけを、すなわち、柔和、謙そん、平和の霊を、神は喜ばれるのです。あなたの野心、大志、才能も、神の前にはみな無用です。わたしはこの道を歩んできて、自分の短所を告白しないわけにはいきません。すべての持てるものは、神の手の中にあります。問題は、正しいか間違っているかではなく、十字架を負う人のようであるかどうか、ということです。集会の中では、正しいか間違っているかは問題でなく、重要なのは十字架を負い、その砕きを受け入れることです。このようにしてはじめて、神のいのちを流し出し、神のみこころを成就することができるのです。

(引用文はウオッチマン・ニー兄弟の証より。一部表現を変えたところがある。バーバー姉妹が指し示した聖句の中には次のようなものもあったのではなかろうか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」(ローマ8・36)写真は東武線路脇で見かけた自生(?)せる「スノードロップ」の花。)

2010年3月25日木曜日

五、バイブル・クラス


 『M先生と、ヴォーリズさんが同居をしたそうやなあ、君』
 『うん、昨夜、僕がなあ、ポリスさん所へいったら、僕と君とに宿替えして、うちへ来いというてたぜ、どうしよう』
 商業学校の二階廊下でOとよばれるデブ青年で、機械体操の金棒にぶら下がると、金棒が湾曲するので有名な体重十九貫の本科二年生と、Iとよばるる棹竹のようにヒョロ長い、子供子供した同級生が話していた。
 『春休みが来たら、それじゃ、宿替えして異人さんと同居しようか』
 『うん、しかし、ポリスさんて、妙な人やぜ、入る部屋もないのに同宿するというのやからなあ、それ、入り口の上の六畳は片目のコックがいるやろう、その次の間は玄関の隣で、靴のままポリさんがどしどし上がってくるし、奥は主人公の占有する所、その隣はM先生とくる。僕等は差し詰め何処においてくれるつもりかしらんて』
 『そいつは聞かなかった。しかし来いというからには場所があるに違いはあるまいぞ』

 明治三十八年の三月が来た、学年試験もすんで、ホッと重荷を下ろしたように感じた。OとIはある日、ヴォーリズさんの暗い借家に出かけていった。
 『カム、イン』とニコニコのヴォーリズさんが、ムッとするほど暖かくした部屋から出てきて、両人を手を取るばかりにして、自分の部屋に案内する。
 英語でヴォーリズさんは、新しい部屋ができた旨を話してくれたが、その要領は次の通りであった。

 『日本人が家をたてると、屋根裏の利用と、煙突を作ることを考えないらしいです、この私の借家には屋根裏が大きく明いていますから、街道の方に硝子窓を二つ大工につけさせました。君たち両人は表の屋根裏に住むことにしてください。私は明日君達といっしょに屋根裏の、煤けた梁や柱に新聞紙をはってあげる。壁は白い洋紙一枚二銭のを二重張りにすると、白壁の代用になるから、早速、明日は部屋の準備に二人から朝早くからきてください』

 OとIは度肝を取られてしまった。何しろ、異人さんは、建築の趣味があるというので、無暗に屋根裏へ靴のままガサガサ上っていって、柴やら炭俵の古いものを積みあげてある湖畔地方の、ツシと呼んでいる物置に我等を親切にもいれてくれる考えであるらしい。てっきり、鼠と合住居をやらされるのだ。デブにヒョロの二人が、縦にも横にも屋根裏の柱とに衝突することなんかお構いないらしい。

 『おい、O、どうしよう。僕は生まれてから、あんな屋根裏に上がった事もない。鼠の糞が1斗位あるぜ』
 『I君、僕等は辛抱して今のうちに異人さん所の書生になって、英語をうんとたたきこんどくと、将来の力になるからな、辛抱して宿替えしてくることにしょうや』

 その翌日、OとIがヴォーリズさんの借家にくると、大きな西洋皿に姫糊がいっぱい、大はけ二つに、古新聞と洋紙の、材料が整っていた。二人は屋根裏にのぼった。煤と、塵と、鼠の糞の異臭のなかに、ヴォーリズさんは総指揮官で三人は表具屋とも、掃除屋ともしれぬ仕事に一日を暮らして部屋を作った。そして畳屋がきて、床には新しい上敷きをしいてくれた。
 それからOとIの二人は屋根裏ではあったが、ヴォーリズさんと同居することになった。
 しばらくしてその他にはM先生の部屋に割り込んできたKと、コックさんに頼んで同居を許してもらったYがあった。そしてヴォーリズさんは、学生四人とM先生を同居させたわけである。

 その頃、学生は絶えずヴォーリズさんを訪問した。ヴォーリズさんはバイブルクラスをしてやろうとその学生達に話したから、好奇心にかられて、クラスに来ますと約束すると、ヴォーリズさんが戸棚の中から立派な一冊五十銭もする、五号活字略註附新約全書を幾冊でも出してきて、惜しげもなく学生にくれてやるばかりか、表紙をひろげて、一々美しい英文で、

 「この律法の書を汝の口より離すべからず。夜も昼もこれを思いて、その中にしるしたる所をことごとく守りて行え。然らば汝の途、福利を得、汝かならず勝利を得べし」

 と書いてウィリアム・メレル・ヴォーリズと、日本字で言えば上手な髯題目、南妙法蓮華経とハネ上げた字風を横にしたような、シグネチュアー(自署名)をして一人一人に、ロハでくれた。それで大勢の学生は大喜びで聖書研究会にくることになった。

 人生意気に感ずるという事がある。若いアメリカの青年ヴォーリズさんが太平洋を渡るにも借金をして旅費を作ってきておりながら、八幡に到着するなり、第一ヶ月目の月給から惜しげもなく大金五十幾円を割愛して、聖書を百幾十冊も買い込んで、戸棚にいれておいて、学生にロハでくれてやった程、綺麗サッパリした気前には、隠れたるもの顕われざるはなしで、引きつけられ、吸いつけられ、遂には学生連の愛慕の的とまで変じていった。実にヴォーリズさんは、金ばなれのよい切れ手であった。

 聖書研究会の最初の夕は四十五名であったが、度かさなるに従って、その来会者の数はまし、一週二晩二組として、出席者二百十二名となった商業学生の全数は三百余であるから約三分の二強は喜んで出席している有様になったのである。そしていよいよ宗教運動がヴォーリズさんを中心として捲き起こることとなった。

 以上が第五章「バイブルクラス」(『近江の兄弟』吉田悦蔵著15~19頁より引用)である。読めば読むほど驚くばかりだ。昨日高校の同級生で悦蔵氏の親戚に当たる方からお手紙と同書が送られてきた。私はヴォーリズさんに会ったことはないが、彼は生前のヴォーリズさんに会っているし、今は惜しいことに壊されてしまったようだがヴォーリズさん設計の家だった、と聞いている。今日も絵(「シロの話」連作7枚のうち二枚目のもの)を拝借させていただいている谷口幸三郎さんの父君も先年主イエス様を信じて召されたが、この商業学校の出身である。こうして考えてみると意外に近江にもたくさんの兄弟がいることに気づく。ヴォーリズさんが美しい英文を書いた聖書の箇所はヨシュア記1・8である。ヴォーリズさんに敬意を表して、以下欽定訳聖書の同箇所を写し取っておく。

This book of the law shall not depart out of thy mouth; but thou shalt meditate therein day and night, that thou mayest observe to do according to all that is written therein: for then thou shalt make thy way prosperous, and then thou shalt have good success

 

2010年3月24日水曜日

四、世界の中心


 その頃は明治三十八年の春である。滋賀商業学校に名物男があった。それはボーィと綽名された、助教諭で背の高くない、身体の割合に首から上が重そうに大きくみえ、歩行の時にユラユラと前後にその頭をふるので学生の注意を、一身に集中したM君である。

 紀州和歌山の人で、大阪の書籍店の小僧をしていたが、近江商人の風をしたって八幡まで勉強にきたのだそうだ。比較的年がふけていたのと、堅実な努力主義の人であるので同級生の尊敬を受けていた。優等で卒業すると、直ちに校長Y氏の勧誘で母校にいすわり、英語科の助教諭となったのだ。
 M君の机の上には、バイブル、内村鑑三著求安録、同基督教信徒のなぐさめ、木下尚江著火の柱、平民新聞、聖書の研究、新人等の書物や雑誌が常にのっていた。
 M君は前英語教師アボット時代からキリスト教に帰依して、土地の組合キリスト教会の信者になっていたのだ。

 ヴォーリズさんは、学生達の倶楽部として、その一ヶ月家賃三円の暗い家を提供して、腕白連を歓迎し「おとなし屋」連に英語の課外授業をしているうちにM君を発見した。
 『ユー、カム、エンド、リヴ、ウイズ 、ミ』
 『ウム・・・』
 M君は頭の中で日本語で文句を考えた。英文典、上、中、下編の公式を定義として、和文英訳しかも美文?を作って後、口外に発表する人であった。
 『なるほど、ヴォーリズ君は俺と同居したいんだな、どう返事をしようかしら、「川止めに渡し舟」はちょっと英語にならんし、「待ってました」は露骨すぎるし、無難間違いなしは「サンキュー」だなあ』と考えたかどうかは保証の限りでないが『サンキュー、ありがとう』と彼は直ちに一決に及んだ。

 M君はその頃寝てもさめても太平洋の波の音、星とダンダラ染の三色旗の国を夢みていた。その友人は既にヨルダンの彼方―乳と蜜のしたたる北米の天地に青雲の志を遂行しつつあるのだもの。
 M君は実力実力と、己によくいい聞かせて努力した人だ。そして人なき森に、寄宿舎の舎監室に、学校の当直室に、熱い涙を湛えながら祈ったそうだ。

 『天地の神、我等のお父様、湖畔の天地は暗黒です。学生は性欲の奴隷です。酒と汚れと金のために、サタンのものとなりつつあります。外国からでもよろしいから、精神界の巨人をこの八幡に遣わしてください』と。

 M君の手荷物や夜具類全部は、ただ一回の手車で、ヴォーリズさんの家に運ばれてしまった。宿替えは簡単であった。
 ヴォーリズさんの当時の筆記を今になって出してみると、
 『私の八幡町に落ちつくようになったのはM君の祈りと神の計画から、そうなったのです。最早日本―近江―八幡町は世界の中心です』

 著者は往年、英京ロンドンの中心トラファルガー・スクェアーのグランド・ホテルの一室に、一英国紳士と話したことがある。その時、その人の話はこうであった。
 『君の友人のヴォーリズ君は、先年ロンドンにきて、私の教会で演説をたのんだ時に「世界の中心は近江八幡マチにある」といっていたよ。私達はそれだから、世界の中心は、ずいぶん探すのに骨が折れる筈だというて笑ったのさ』

 地球が完全球であれば、どの点でも、ある中心になることができる道理である。学者が地球は球形ではない、みかん形であって両極が引っ込んでいるというても大体は球で通用する。紺碧の大空に輝く大熊星座のつくる大柄杓の先は、北極星をさすと極まったものである。綿密に計算して、真直線にさしていないと、揚げ足をとるのも変なものだし、閑もかかるわけである。

 ヴォーリズさんは、よく諧謔を談話に交える人である。その語呂合わせ、日米混淆は天下一品である。
 『飲み水は蚤水です。日本の西洋料理屋では、サイダーを売るために少しばかり、蚤の飲み水ほどしか持って来てくれないです。蚤は英語でFleaだが、日本ではFreeと発音するから日本では飲み水を、ただくれそうなものですね』といったような事に笑い興じることがある、が然し、この世界中心説は丹波綾部の世界中心説より、慥に確実で宗教的に真面目である。

 ヴォーリズさんは明治三十八年から、今に至る三十数年近江八幡を動かない。そして今後死に至るまで永住する、そして自身の墓地もすでに選定して、美しい湖岸で昔の代官屋敷を二反歩買い込んである始末。
 何故近江八幡がヴォーリズさんの世界の中心であるかは、この物語が回を重ねて説明するところであらねばならぬ。
 とにかくM君とヴォーリズさんは同居することとなった。

 以上が第四章「世界の中心」(『近江の兄弟』吉田悦蔵著11~15頁より引用)である。文中のM君の祈りは、聖書中のマケドニア人の嘆願を思い出させる。

ある夜、パウロは、幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。(新約聖書 使徒16・9~10)

 今日の写真は現在展示開館中の谷口幸三郎氏の作品である。題は忘れた。