2016年8月6日土曜日

義と恵みは神の愛から

青空に 黄いばむ葉先 沢胡桃※

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(1ヨハネ4:9) 
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(1ヨハネ4:19)

 まず、主が私たちを愛されます。次に、このことを知った私たちは主を愛するように導かれます。それから主は私たちを愛されるゆえに、私たちを所有し、私たちが完全に主のご意志にまかせる者となるのを願われます。その結果、私たちのうちにあり、私たちのための愛の働きはどんな邪魔もみつけないでしょう。

 次に、私たちは主を愛するので、私たちは主の主張を知り、自分を明け渡します。このようにして明け渡されるので、主は私たちを主のところにもっと近く引き寄せ、私たちを言わばより緊密な親しさにある者として、認められます。その結果、私たちは主の完璧さをより近く、より真実に知ることができるようになります。

 次に、これらの完成の不変性が私たちにとってさらに明確になります。今や私たちはキリストの十字架とは分離されない流れのうちに流れ込んでいる主の義と恵みを見るだけでなく、私たちはそれらが暗やみの不思議なゆがみ、罪の偽りのガラスがそのように見させても決して分けられなかったこと、その両者は神の聖なる愛のあらわれでしかないことを知ります。

 次に、この聖なる愛を知り信じて、私たちは彼のご意志がばらばらでなく、行為における唯一の愛(そしてそれゆえにあらゆる主の特性)であることをさらに知ります。すなわち愛は主の御存在の最重要な本質であり、その他のあらゆるものはその筆舌に尽くし難い本質のあらわれと結合の結果であると考えます。なぜなら神は愛であるからです。

主はあなたを愛されました
そして主は知っておられます
あらゆるあなたの不安 
あらゆるあなたの敵を
 
あなたは確実に勝利者となります
あなたに対する主の愛をとおしてとこしえに
この静かな喜びのうちに憩いなさい
主より偉大な愛は誰も持っていません
だから
これがあなたの人生の歌
あなたを愛する主に対する愛と
なりますように
(今日の箇所http://bibletruthpublishers.com/august-6-justice-and-mercy-from-gods-love/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97383はです。今日の箇所はThenと言うことばが、何と6個も登場した。果たしてこのような訳で良かったのか?

※真夏日の信濃路の今日。しかし浅間山麓は下界より涼しく、一足早く初秋の薫り。) 

2016年8月5日金曜日

来なさい! 今です!

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。(イザヤ1:18) 
ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば(ヘブル3:7) 
パロが「あす。」と言った(出エジプト8:10)

 「さあ、来たれ。」。これほど簡潔なことばはない。それゆえ、もし、あなたが来るのを延ばすなら、あなたは神に黙して不服従の態度を取っているのだ。私たちがこどもに「来なさい」と命令したとき、その場ですぐ、ただちにこどもが来ないなら、従順な子どもだとは思わないだろう。

 もし、彼が気にもとめないで、冷やかに、自分はほんとうは来ることを考えている、あなたがどれだけ自分を呼び続ける道を選ぼうとしているのか見るために待っているのだと告げるなら、従順ではないだろう。

 私たちは言うことをきかない子どもが私たちを大事に考えているとは思わないのと同じように私たちの聖なる主を大切にしているどんな正しさを持っているだろうか。主はおっしゃる。「今来なさい」そして「今」は明日を意味してはいない。「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない(ヘブル3:7〜8)。」

 もし、今晩神があなたのたましいを必要とされ、あなたが来なかったらどうなるのか、自分自身に置き換えてみよ。尊い血があなたが近くに来れるように用意されたのに、招き人が依然としてあなたがまだ遠くにいるのを知ったとしたら、どうなるだろうか。

尊い 尊い イエスの血潮
カルバリで流され
敵のために流され
罪人たちのために流され
私のために流された

尊い血潮
その方の完全な贖い
私たちを神の御そばに近づける

尊い血潮
私たちの栄光の歌を
賛美せよ 声高らかに 

2016年8月4日木曜日

主によりて、主に対して、主にあって、主のために

供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。(マタイ23:19)

 供え物を聖いものとする祭壇ゆえに神に感謝せよ、あまつさえわれらの主イエス・キリストにも。主によって、私たちは神の御許に近づく。主に対して、父なる神とともにいる者として、私たちは生けるささげものをささげる。主にあって、父なる方の愛される者として、私たちが受け入れられていることを知る。

 そのように、愛する友よ、ひとたび、主が私たちのうちに主ご自身と一緒にいたいという強い思いを起こされ、私たちの心のうちに「私のいのちを取ってください」という祈りを置かれる時、主が私たちのいのちを、私たちの手足を、私たちの声を、私たちの関心を、私たちの意志を、私たち自身を取り上げて、とこしえに主のためのすべてとだけしてくださったことを喜び信じ、己が道を歩み続けよう。

 そのことを祝福された確かなことだと考えよう。私たちが感じたり、言ったり、なしたことのゆえでなく、私たちが主が私たちのことを聞いてくださることを知り、かつ主はご自身のみことばにとって真実であることを知っているのだから。 

死すべき者の力に過ぎない
どんなに彼らがその力を完全に働かせても弱い
数時間の息をつく閃光にすぎない
どんなにいつまでも延ばそうとも短い

すべてだ
私が運ばねばならないすべてよりも
はるかに多くのものを私は負っている

すべてを
私を愛する私の救い主のために
そう

すべてだ
私は私の王を愛するから 

2016年8月3日水曜日

私たちのために

アロンとその子らは、その罪のためのいけにえの雄牛の頭の上に手を置いた。(レビ8:14)

 祭司の手がささげ物の象徴で満たされる前に、手は罪の贖いの象徴の上に置かれねばならなかった(レビ8:14など)。 それが先ず最初になされた。そのようにして、その行為によってあらわされるように、私たちの代理人であるお方に罪過が移されることが、神への私たち自身の献身の先駆けとならねばならぬ。


私の信仰は手を
主の愛するかしらの上に
私が告解者のように立ち
そこで私の罪を告白している間に
置かれよう 
 
 その聖なる代理人であるお方の血は「贖いをする(レビ8:15)」ために流された。その和解なしには私たちは自分自身を神の前にささげることも、出ることもできない。しかし、このことがなされたのでキリスト御自身が私たちの前にあらわれなさる。そしてあなたは時には遠ざかり、心では悪い行ないによって敵となっていたが、今や主の肉の体にある死をとおして和解し、聖く傷なく非難されるところのない者として主の御前に出られるのだ。

 その時、モーセは「全焼のいけにえの雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。・・・モーセはその雄羊全部を祭壇の上で焼いて煙にした。これはなだめのかおりとしての全焼のいけにえで、主への火によるささげ物であった(レビ8:18、21)。」このようにしてキリストのささげものはまことに全部、その体も魂も霊も、それぞれ全部が死にまでの苦痛を味わされたものだった。このような贖いの苦痛が私たちのために神が受けられたもので、私たちの自由な行為によって、私たちが受け入れる基盤として私たちに受け入れられるのだ。

 それから、贖われ受け入れられて私たちは献身の準備ができるのだ。なぜならその時「彼はもう一頭の雄羊、すなわち任職の雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた(22節)。」ここに私たちはキリストを「永遠に全うされ、立てられた方(ヘブル7:28)」として見るのだ。私たちは信仰によって「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです(ヨハネ17:19)。」と言われた方とのお交わりに信仰によって入るのだ。

私の罪のために傷つけられ
痛みに襲われたのは
私がもう罪を犯すことのないためだ

弱くされたのは
私がいつもあなたにあって強くされるように
縛られたのは
私が自由になるためだ

私が
永遠に続く流れのうちに
喜びに満たされるのを
知るだけのために
悲しみを味わわれ 
あなたの十字架と悲しみ
そしてあなたの尊い死
私が永遠の死を招く息をしている間
私の愛と行ないと賛美の泉が
私の日々の生活のすべてのいのちとなりますように

このすぐれた愛の不思議が
栄光のうちに解決されるまで
栄光の終りなき主題だ

2016年8月2日火曜日

超越した満足

このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう。(エゼキエル14:23)

 人は私たちが愛する主のこの偉大で永遠なる弁明についての考えを非常に喜ぶ。主の方法、主の働き、主のことばはすべて正しいとされ、これからは栄誉と栄光と祝福を受けるためにのみ沈黙せる宇宙にご自身が啓示される。それはまるで私たちは主がこの経験を越えた満足のうちに来られる栄光と喜びの分け前をほとんど忘れるべきであるかのようである。

私たちの父なる方よ 私たちは 栄光の日を 待ち焦がれています
その日には すべてのものが あなたをあがめ 従うことでしょう 
おお あなたの御国を 急がせてください
おお あなたの御力を 前方にお示しください
そして 諸国民の上に あなたの右手の笏を 振りかざしてください
おお あなたの宝石 あなたの愛の冠を 整えてください
そして 私たちの心を 治めてください
あなたが 君臨される通りに
なぜなら あなたのものは 力あるものですから

2016年8月1日月曜日

小さな欠乏が多くの自由を邪魔します

そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。(詩篇106:12) 
あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。(ヘブル3:12) 
「どうして、昔のほうが今より良かったのか。」と言ってはならない。(伝道7:10)
 
 多くの心は小さな歌を繰り返していた:私のいのちをとってください 主よあなたにささげさせてください 

 しかし、これらの繰り返しはどんな場合にもあらゆる時にも、私たちが望み恐らく期待したほどには大変明瞭な、完全にして、堅い絶えざる喜びではありませんでした

 私たちのある者は言いました:私は乗り出します 無限の愛とやさしさの海へ

 そして、しばらくして私たちは知りもし、想像もしました、私たちの船には隠れた水漏れがあるのではないかと。そして私たちは依然として疑いもなく海上にいるのですが、最初のように大喜びで確信をもって同じ自由で航海していないのです。

 私たちの献身の歌の響きを鈍くも弱くもしたのは何でしょうか。私たちの献身生活の素早く軽快な道を邪魔している小さな漏れとは何ですか。それはかつて私たちのやさしい主が最も簡潔で平易なことばで言われた信仰の欠如はもちろんのこと、もっとも簡単な事実のうちにあるもっとも単純な信頼が欠乏しているところから生じているのかも知れません。端的に主が私たちのことを耳にされる不信仰という事実。私たちが全体重をあずけたり、私たちがかつて疑ったり今では「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません(ヨハネ6:37)。」を疑う恐れが生ずるとは少しも考えもしなかった、それらの平たく広い土台石が随分前から不信頼のことばとなっています。

これが神の平和ですか 
この奇妙な甘い静けさが
疲労の日はまだ絶頂です 
まるでいくつかの冷たい澄みきった小川のそばにいるかのように
暗い静けさを通して一篇の夕べの詩篇が浮かんだ
そしてあらゆるいのちあるものの物音は静かにさせられた
そして穏やかな喜びがやさしくなだめる揺らぎをもってあたりをおさえた
ちょうど今はそうではなかった
私はうずく頭と曲げられてもっとも痛む胸を脇へよけた
私のまわりには圧倒的な群衆のうちに不安と悲しみが
増進する潮に弱く不十分な感覚、そして
罪、恐れ、暗やみ、疑いが
巻き込む力ある洪水のうちに浮かぶだけだったが

私は弱さを感じない
あなたが私の力だ
私は罪を少しもみることなく
あなたの赦しの愛
そしてすべてに十分な恵みをもっとたくさん見る 
あらゆるはためかす思考が静められ
私は休むだけ
そしてあなたが近くにおられることを感じ
私は祝福されると知る

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/august-1-a-little-want-hinders-much-freedom/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97378です。今日の文章もきわめて難解であった。8月早々、ハヴァガルに久しぶりに苦しめられた!読者の直しをお願いします!)

2016年7月31日日曜日

王の恵み

やさしきは ムクゲの花の 笑顔なり(西軽井沢国際福音センターにて)

「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。(イザヤ65:1)

  全宇宙の中心テーマを見なさい。それは世界歴史だけでなく、永遠の中心の時であります。救い主を見なさい、この方は「自分から十字架の上で、私たちの罪を その身に負われました(1ペテロ2:24)。」 その恐ろしい罪の重荷のもと、血を流しながら頭を垂れたお方です。なぜなら主の誠実さは死に向かうものであり、主の愛は死より強かったからです。

  あなたが主のことを聞き、その忍耐と完全な宣教の年月を通して主を観察するまで、善事に取り組まれた主のこの上なく見事な勝利の方法のすべてを探し出しな さい。 そして「わたしのところに来なさい(マタイ11:28)。」とあなたに言われるのは主であることを四六時中思い起こしなさい。主は人としてのキリスト・イ エスであり、同情のかたまり、その上やさしくも王の恵みに満ちているお方です。

見よ あなたの王を 
悲しみを冠せられた方
谷間をひとりでただひとりで歩まれるお方
死のかげがまわりに集まって来る

十字架がゲッセマネにつづかねばならない 
段々暗く闇は落ちねばならぬ
杯は満たされる
彼は杯を飲みほさねばならない

おお 主の悲しみを思え
私たちは知ることができますように
主の驚くべき苦悩のうちにある
驚くべき愛を