2016年8月3日水曜日

私たちのために

アロンとその子らは、その罪のためのいけにえの雄牛の頭の上に手を置いた。(レビ8:14)

 祭司の手がささげ物の象徴で満たされる前に、手は罪の贖いの象徴の上に置かれねばならなかった(レビ8:14など)。 それが先ず最初になされた。そのようにして、その行為によってあらわされるように、私たちの代理人であるお方に罪過が移されることが、神への私たち自身の献身の先駆けとならねばならぬ。


私の信仰は手を
主の愛するかしらの上に
私が告解者のように立ち
そこで私の罪を告白している間に
置かれよう 
 
 その聖なる代理人であるお方の血は「贖いをする(レビ8:15)」ために流された。その和解なしには私たちは自分自身を神の前にささげることも、出ることもできない。しかし、このことがなされたのでキリスト御自身が私たちの前にあらわれなさる。そしてあなたは時には遠ざかり、心では悪い行ないによって敵となっていたが、今や主の肉の体にある死をとおして和解し、聖く傷なく非難されるところのない者として主の御前に出られるのだ。

 その時、モーセは「全焼のいけにえの雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。・・・モーセはその雄羊全部を祭壇の上で焼いて煙にした。これはなだめのかおりとしての全焼のいけにえで、主への火によるささげ物であった(レビ8:18、21)。」このようにしてキリストのささげものはまことに全部、その体も魂も霊も、それぞれ全部が死にまでの苦痛を味わされたものだった。このような贖いの苦痛が私たちのために神が受けられたもので、私たちの自由な行為によって、私たちが受け入れる基盤として私たちに受け入れられるのだ。

 それから、贖われ受け入れられて私たちは献身の準備ができるのだ。なぜならその時「彼はもう一頭の雄羊、すなわち任職の雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた(22節)。」ここに私たちはキリストを「永遠に全うされ、立てられた方(ヘブル7:28)」として見るのだ。私たちは信仰によって「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです(ヨハネ17:19)。」と言われた方とのお交わりに信仰によって入るのだ。

私の罪のために傷つけられ
痛みに襲われたのは
私がもう罪を犯すことのないためだ

弱くされたのは
私がいつもあなたにあって強くされるように
縛られたのは
私が自由になるためだ

私が
永遠に続く流れのうちに
喜びに満たされるのを
知るだけのために
悲しみを味わわれ 
あなたの十字架と悲しみ
そしてあなたの尊い死
私が永遠の死を招く息をしている間
私の愛と行ないと賛美の泉が
私の日々の生活のすべてのいのちとなりますように

このすぐれた愛の不思議が
栄光のうちに解決されるまで
栄光の終りなき主題だ

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