2016年8月28日日曜日

手、その力の仕組み

盛夏去り 天懸ける虹 主の愛※ 

あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。(伝道9:10) 
私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。(エレミヤ3:41)
 
 ちょっとと立ちどまって、この小さな本を読む時、この本を支える、自分の手をごらんなさい。手がいかに驚くべき方法で作られているかを知りなさい。手は、しなければならないことをするためにどのように完全にぴったりと合っていることでしょうか。手が、瞬間的、本能的な服従に身を任すためにどのように巧妙に頭脳とつながりを持っていることか、もしその服従がなければ、その美しい仕組みは私たちにとってほとんど良くないものとなることでしょう。

 あなたは自分の手だと言いますか。手が、楽な生活のために柔らかく白いかどうかはともかく、また、仕事をするために手荒く強いかどうか、病気のために白く弱いかどうかはともかく、手は主イエス・キリストのものです。

 手は絶対にあなたのものではありません。手の持ち主は主です。主が手を造られたのです。なぜなら、主なしに造られた何物も造られなかったからです。あなたの手だってそうです。そして主は購入する権利を付加されたのです。すなわち、主はご自身の道具の一つとするために手を買われたのです。

 私たちはこのことを大変良く知っていても、そのことを完全に理解したことがあるでしょうか。私たちは、主に私たちのものとなった手の使用を、ほんとうにおまかせしたことがあるでしょうか。きっぱり誠実に、主にご自身の御用のために手を支えてくださるようにと、求めたことがあるでしょうか。

イエス様 私がお仕えする主よ 
たとえどれほど弱く病があろうとも 
強められた手と心と神経は全部
あなたの命令を実現するためのもの

あなたは私の目を開いて
あなたが私のために備えられている全部の働きを
見えるようにしてください 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/august-28-hands-a-mighty-mechanism/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97405です。

※Godhold Beck (6)
 今日はベック兄の葬儀が午後1時から始まった。想像を超える人々が北から南からと集まって来た。その数は1000は優に越していたように思う。久しぶりに懐かしい顔を拝見できた方が多かった。

 葬儀はベック兄を60数年前に日本に送ってくださった主への感謝に満ちあふれていた。賛美、祈り、メッセージ、賛美、祈りと導かれ、最後は有志によるメサイアによるハレルヤコーラスが歌われ、ご遺族のあいさつで終えた。そしてそのあいさつによるとベック兄が再臨の主を今日か今日かと待ち焦がれ、いつにても主の前に出られるように用意されていた有様が改めて明らかにされた。

 そして、私にはこのベック兄が伝えられた福音をとおして1000有余の人々がともに一つとなったこの不可思議な天来の力に刮目させられた一時であった。

 天来の力と言えば、葬儀中には晴れ間さえあったのに、ちょうど帰るころには少しぽつりぽつりと雨が空から降り始めた。今ごろ軽井沢の墓地で愛する方の手によりベック兄の埋葬が行なわれていることに思いを馳せていた。その時、佐久平インターチエンジに入る谷間の橋を渡るとき、本物の虹の橋をうっすらと空に見ることができた。虹はもちろん神の契約のしるしである。

「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」創世記9:13〜16

 そして私は忘れていたが、この夏の日曜日の朝、御代田のキャンプに参加し、ともに泊まっていた二人の子どもに「ベック兄が召される夢を見た」と言っていたそうだ。その時、夢の中で自分が悟らされた事柄があったが、夢を見たこと自体を忘れていた。そのくらいだから、今となってはその事柄も確かに思い出すことはできないが、主はそのようにして、すでに私にその覚悟をするようにそれとなく導いておられたようだ。)

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