2009年12月2日水曜日
病床にあった妻の夫への手紙(2)
いつの間にか、師走に入ってしまった。私たちの親しんできた、あの遠い昔の異国の一女性の果断なく続く病との闘いは、その後どうなったであろうか。
前回お載せした彼女のその後を、簡単にスケッチしてみよう。「彼女はまた新たに、専門医の診断を受けねばならなかった。」のだ。しかしその間も彼女を愛する人々の祈りは続いていた。彼女はその事を感謝する便りを夫に次のように記している。
(ジュネーヴにて、1930年11月11日)
・・・それから皆さまがわたくしのために、お祈り下さったのでございます。このやうな啓示の対象となるために、わたくしのやうに苦しむといふことは、苦しみ甲斐のあることではございませんでせうか。わたくしの心は感謝で一杯でございます。もしまた神様のためにお仕事が出来るやうになりましたら、それを大きな愛をもってすると、お誓ひいたします。
そして今一度ローザンヌに引き返された。そして同じように病と闘っている友人の手紙を引用しながら彼女は夫に次のように認める。
(ローザンヌにて、1930年11月14日)
・・・ピエチンスカ夫人はその手紙の一つの中で、大体次のやうなことを書いて居ります。「すぐに今のこの瞬間をこえたところを眺めようとするわたくし共の想像力を用心しませう。そしてこの想像力が神様の御心の先回りをしないやうに、今のこの祝福を神様に感謝することで満足しませう。」・・・本たうにさうでございます。どうぞ神様が力をお与え下さって、神様がお送りになるものは良いものであれ、苦しいものであれ、それが御心である限りは受け容れることが出来ますやうに。その秘訣は絶えず祈って神様に近く身をよせて、事情が良くなったからと言って、すぐ簡単にやめてはならないといふことだと存じます。苦しい時に神様に向かって呼ぶことは、比較的やさしうございます。それは自然なことでございます。けれども、すべてが具合よくいってをります時には、怠惰がすぐに訪れます。・・・・
その後も病状は一進一退する。ある時には外出できた。それはニフェネジュの街角だった。家族連れの子どもたちを見、ロンドンの夫のもとに残してきたわが子を思い出し、涙を人知れず流す。母親ならではの悲しみだ。こうして彼女の品性は大いに練り清められてゆく。それとともに、意外や彼女の健康は日一日と確実なものになっていった。ジュネーブから来た専門医が、驚嘆してそれを保証する。この間、夫への手紙は11月10日、20日、22日、24日、26日、30日と認められている。メールもない時代、かえって手紙を通してゆったりとした人々の愛の交流があった。その良き時代をはるかに想い出させられる、というものだ。今から79年前の今日認められた彼女の手紙を載せよう。
(ジュネーヴにて、1930年12月2日)
・・・さうでございます。わたくし共のお祈りは聞き届けられたと申してよいのでございます。わたくし共には救いが与えられた―しかも、わたくし共自身もお医者さま方も二月前には本たうに予期していなかったやうな、大きな救いが与えられたと申してよいのでございます。G先生のところへ参ります前に、わたくしはベッドの前でひざまづきました。そして帰りました時にも、またさういたしました。
勿論、「すっかり癒りました。すっかり決定的に癒りました」と、あなたに申し上げられましたら、本たうによろしうございましたでせう。けれども今の状態はわたくし共の信仰生活にとりましては、それよりも多分ずっと尊いのでございます。
それはパウロの場合と同じやうに、「肉体の刺」ではないでございませうか。そしてわたくし共もパウロのように、「汝の恩寵(めぐみ)われに足れり」と言ふことを学ばねばならぬのではございませんでせうか。また活動をはじめるかも知れないかういう病気の源を、自分は相かはらず身中(みのうち)に持っている、しかもやはり神様は自分を支へて強くして下さる―このやうに考えますことは、良いこと、また素晴らしいことでさへございます。
・・・そして身中(みのうち)に持って居りますこの危険物は、わたくしを絶えず目覚ませておくのではございませんでせうか。また、自分が日毎に、いえ、一瞬毎に、圧し迫られて、神様の方へ向けられるやうに感じるのではございませんでせうか。わたくしを(人間的に申しまして)破滅させかねないものから、その御恵みだけが日々護って下さる(さうわたくしは心の底から信じます)あの神様の方へ、自分が向けられるやうに、感じるのではございませんでせうか。
もし急にすっかり癒るやうなことになりましたら、わたくしは神様に溢れるやうな感謝でお礼申したことではございませうが、また次第にそのことをすっかり忘れてしまったかも知れません。今のやうな状態なのでわたくしはそれを忘れないのでございます。このこと、おわかりになっていただけますでせうか。さうでございます。神様はわたくし共に大きな救いをお与え下さったのでございます。この救いは体をすっかり癒していただきましたよりも、多分そのままで、ずっと大きな救ひでございます。
どうぞわたくしのためにお祈り下さった皆さまに、皆さまのお祈りは聞かれた、聞きとどけられたと、おっしゃって下さいませ。二月前の死の怖れの後で、仕事をまた始め、また子供たちのところへ帰って育てることが多分出来る、といふ可能性を眼の前に見るとは、何といふ救ひでございませう。いいえ、すべてあれで良かったのでございます。すべては良いのでございます。きっとあなたも、わたくしに賛成して下さることと存じます。
私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。・・・このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(新約聖書 2コリント12・7~9)
(明日は寒くなるらしい。二三日前の拙宅のオキザリス。朝日を浴びているところを撮影した。)
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