2009年12月31日木曜日

Se son rose, fioriranno.


 あわただしかった一年、それが凝縮されたかのような12月になった。

 年末、12月23日次男が結婚に導かれた。多くの人々の祝福と祈りをいただいた結婚式だった。式では双方で6人余の方から祝辞をいただいたが、その中のお一人が標題のイタリヤのことわざ(もしそれが薔薇ならば咲くだろう)を紹介してくださった。

 ところが、それで終わると思いきや、その方は思わず次のように言って祝辞を閉じられた。信夫さんの「信」とは信ずることでしょう、恵さんは「恵み」です、これは何か偶然とは思えません、お二人の結婚の宣誓を聞いていて、そう思わざるを得ませんでした、お二人が末永くお幸せでありますようにお祈りします、と。

 次男の名前が小説『塩狩峠』の主人公にちなんだ名前であることは、以前紹介させていただいた。ところが、新婦の恵さんはお祖父様を通して、幼き時から、目に見えない神様に仕える信仰を体得したということだった。ご来賓の祝辞はその「信夫」と「恵」という両者の名前が切っても切れない関係にあることを慧眼にも見抜かれてのご挨拶であったように思う。ところがこの両者の関係を物の見事に作品化している文章に一昨日出会った。マルチン・ルターの「ガラテヤ大講解」の以下の文章である。直接には「(彼らは)キリストの福音を歪めようとした」(ガラテヤ1・7)の註解ではあるが・・・。

 律法の義が支配するならば、恵みの義は支配できない。反対に、恵みの義が支配すれば律法の義は支配できない。一方が他方に譲らなければならない。神がキリストのゆえに罪をゆるしてくださることを信じることができなければ、あなたはどのようにして、律法の行ないかあなた自身の行ないによってゆるしてくださることを信じるのか。このように、恵みの教えはどのようにしても、律法の教えと両立できない。律法の教えが全く否定され、取りのけられて、恵みの教えが確立すべきなのである。

 ルターのこれらのことばに若干の注釈をつけ加えさせていただくならば、「恵み」とは神が私たちのわがまま(=罪)のためにご自分の独り子イエス・キリストを十字架にかけられた事実を指している。本来私たちが罰せられるべきなのに、その身代わりとしてイエス・キリストが罰せられた、だから「恵み」であるのだ。この「恵み」は、このイエス・キリストの恵みを「信仰」をもって受け入れる者をとおして体得される。「律法」の教えとは、これに反して、このイエス・キリストの十字架は無用・無意味とし、自分の力、徳行で神の前に十分正しくなれるという考えである。 ルターは、この「律法」の教えがいかに強力に人を支配しているかに言及しながら、さらに次のように続ける。

 こうして、恵みと信仰の義が放棄され、律法と行ないの、いまひとつの義が高められ、守られることになる。だがキリストは彼に属する者ともども、弱くあり、福音は愚かな説教である。逆に、この世とその君、悪魔は強力であり、さらに肉(=キリストを認めない、生まれながらの人間のこと。引用者註)の知恵はよりよい外見をもつ。だが、悪魔がその手下とともに、欲するものを打ち立てることができないことは、われわれの慰めである。彼は何人かの人を撹乱することはできるが、キリストの福音を覆すことはできない。真理は危険にさらされることはあるが、滅びることはない。攻められることはあるが、征服されることはない。なぜなら「主のことばは永遠に存続する」(1ペテロ1:25)からである。

 律法と行ないを確立するよう教えることは非常に小さいことのように見えるが、それは、人間の理解力が理解できる以上の害をもたらす。それは恵みの認識をあいまいにするばかりでなく、キリストをそのすべてのいつくしみともども取り除いてしまい、パウロがここで言っているように、福音全体を歪めてしまう。このような大きな悪の原因はわれわれの肉であって、それは罪の中に沈んでいるから、行ないによる以外に、そこから出るほかの手段を見ることがない。こうしてわれわれの肉は律法の義のうちに生き、自らの行ないに信頼を寄せようとする。だから、信仰や恵みの教えについては全くか、ほとんど知らない。だがそれなしでは、平穏な良心を得ることは不可能である。(『ルター著作集第2集11巻』1985年刊行、84~85頁から引用)

 二人が恵みの認識をあいまいにするのでなく、福音に全幅の信頼(信仰)を抱いて結婚生活をスタートしてもらいたいと思う。それが、主イエス様の恵みをまだご存じないご来賓の方をして、咄嗟のうちに思わず言わしめた祝辞の本意ではなかっただろうか。

 式後のあわただしい一週の間に、両人は沖縄に出かけ、さらには一昨日は病臥中の私どもの祖母を滋賀に訪ねた。また昨日は新婦のお祖父様ご夫妻を千葉のお宅、西荻の私の従兄宅などを訪ね、夜は長男主催の家族全員が集合する会食会に出席できた。そして今朝、新婚生活の拠点となるパリの家へと旅立った。恐らく今頃は疲れでぐったり来ていることだろう。しかし、そこには心地良い主のあわれみと守りがあることと信ずる。

 寄り添うて 恵みと信仰 百合の花

 最後に愛する兄が結婚式の冒頭で読み上げられた聖句と二人が結婚のために導かれた聖句を掲げておく。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103・2)

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。(1ヨハネ4・16)

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