13年前だったんですけども、9月の11日、アメリカでとんでもないことが起こってしまったのです。急に数えられない人々は結局殺されてしまいました。このニューヨークの消防署で書かれた言葉があるんです。
No Farewell Words Were Spoken 誰も別れのことばを話しかけなかった。
No time to say Goodbye さようならを言える暇もなかった。
You were gone before we knew it, and only God knows why. 私たちは知る前にあなたがたは召された。
どうしてかということを主なる神しかわからない。そういう文章が公けになったのです。結局、どうして、なぜと考えても、答えられる人間はいない。一番危ないなのは宗教的な考えです。不幸を経験すると、宗教は必ずあなたはわがままだったから、おじいちゃんも変なことやったから、天罰だよ(と言います)。嘘です。
人間を罰する神はいないんですって。これは聖書の言わんとすることです。どうしていないかと言いますと、必要ないから(です)。イエス・キリストは人間のわがままのゆえに罰せられたから、人間を罰する神は存在していない。これこそすばらしい事実じゃないでしょうか。この事実に基づいて前向きに生活することができるのです。2千何百年前でしょうか、イザヤという預言者は次のように書いたのです。12章の2節。
見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
こういう確信をもつことこそが最高の幸せなのではないでしょうか。聖書を通して提供されている救いとはいったい何でしょうかネ。
先ず、罪の問題の解決です。人間はみんなわがままです。過ちを犯す者です。そして、罪滅ぼしのために、結局人間は何も出来ません。(罪は)赦された、忘れられたと確信することがイエス様がもたらされた救いの結果です。
それだけではなく、まことの救いは孤独からの解放です。人間はみな寂しい。もう少し大切にされてもらいたい。愛されてもらいたい。まことの救いは孤独からの解放です。ちょっと寂しいけどひとりぼっちではない。決して私から離れず私を捨てないという確信が、イエス様の救いを受けた結果なのではないでしょうか。
それから、まことの救いとは「死」を恐れる恐怖からの解放です。多くの人々は確かに死について考えたくない。けど、どうせいつか死ななくちゃいけないでしょう。諺があるんですネ。「備えあれば憂いなし」。安心して希望をもって「死」に向かうことができなければ、今の人生は空しい。けども、「死」を恐れる恐怖からの解放こそが、イエス様を通して提供されている救いです。聖書の中で次のような言葉があります。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
こういうふうに心から言える人は本当に幸せなのではないでしょうか。
あるドイツの出版社の息子はテレビ局の方に次のように聞かれました。
「あなたにとってもっとも大きなショックとは何でしょうかね。癌になることですか。全財産を急に失くすことでしょうか。あるいは一生涯車椅子の中で生活をすることでしょうか。」
あの息子の答えはちょっと不思議な答えでした
「もし神がおられたら、それこそ考えられないほど恐ろしいことです。」
主なる神がおられれば、「死」は終わりではない。そうすると必ず死後さばきを受けることになるからです。結局、天国か地獄かのどちらかです。確かに、地獄すなわち永久的に光の見えないこと、平安なし喜びなし希望なしに永遠に存在することとは考えられないほど恐ろしいことです。天国について聖書は言っています。
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
本当に来たるべき栄光はすばらしいものです。ですから聖書は簡単に言っています。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
今苦しい、辛い、どうしたらいいかわからないけれど、それはおしまいではない。
よく(私の)知り合いの方、色々なこと経験しました。先ず奥さんは癌になって召されましたし、そして、彼も何十年後ですけど同じく病気になりました。自分の葬儀のために彼はある小冊子を作ったんです。はじめの文章は
本日は私新井稔の昇天式にお集まりくださいまして本当にありがとうございます。
前夜祈祷式と葬儀に出た人々はもう七百人以上でした。私もはじめて彼に出会ったのは、もちろん何十年前だったんです。出会った場所は名古屋のある病院でした。きっかけになったのは彼の奥さんの病気でした。彼はその時49歳で、奥さんは39歳でした。お二人は、その日イエス様しかないと思うようになり、イエス様を信ずるようになりました。それから、お二人はともに悩み、ともに祈るようになりました。あきらめる必要はない。人間だって、歳のため、病気のために死にません。創造主は呼ぶまで心配しなくてもいい。
別の時だったんですけども、見舞いに行ったとき、あの奥さんはご主人である方に向かって、次のように言いました。
「病気になったのは良かったね、お父さん」
彼の答えは
「あなたのおかげです」
その意味は、もし病気にならなかったなら、救いを求めようとしなかったし、救い主に出会わなかったにちがいない。そうするとまことの喜びなし、本当の平安なし、希望なしで存在しなければならなかったにちがいない。だから、病気になったのは良かった、と奥さんは言えたのです。結局永遠のものを得るようになったからです。彼は次のように書いたことがあります。
「もし、聖書を知らなかったら、苦しみや悲しみに苛(さいな)まれ、運命を呪ったことでしょう。イエス様信じて、(奥様である)順子は死の恐怖から解放され、私の生き様が変わりました。今は再び天国で順子とめぐりあえる喜びと主のみこころと愛に感謝の気持ちです。」
(昨日、『死は終わりではない』と題して持たれたゴッドホルド・ベック宣教師の講演の話の聞き書きです。4回に分けて掲載します。およそ百名の方が集われました。私も、その一人として参加させていただきました。)
0 件のコメント:
コメントを投稿