2014年10月24日金曜日

三人寄れば・・・

日立駅のウインドーから見た太平洋 2014.10.19

 女三人寄れば姦しい。三人寄れば文殊の知恵とか、結構三人にちなんだことわざがある。昨日私が経験したことはその流儀で行くと一体どれに当たるのだろうか。そのことに触れる前に若干いきさつを説明しておく。

 私は今、男二人と女一人になる三人一緒で、縁あって女性の御父様が戦病死なさる前に奥様や友に宛てられた戦時中の数十通の書簡を一冊の本にまとめようとしている。互に利害打算を離れて主イエス様のご栄光があらわされればと考えての作業である。もちろん戦争の悲惨さを思い、二度とこうあってはならないという互いの共通の思いがある。だから、皆それぞれ自由に関わってきた。過去5、6年間、いつか本にしようと思いながらも、互いの事情が交錯して中々話は具体化せず、時ばかりが経過して行った。

 ところが、今年になって、三人のうちで一番年配の男性の方から、そろそろまとめましょう、そうしないと年々しんどくなりますよ、と女性を通して打診があった。そうか、何とかせにゃなるまいと当方もやっと本気になった。これまで二度打ち合わせをした。二度目は今週の火曜日にすませた。和気あいあいで、時事問題も話に加えながら、時あたかも二人の女性大臣が辞任すると言うお粗末な話を聞かされたばかりで、もともと安部内閣の危なっかしさを問題にこそすれ、評価しない私たちではあるが、下世話な言い方で恐縮するが「あれは、誰かにはめられたんだ」という結論になった。

 ところがどっこい、書簡集に誰がどのような解説を加えるかを検討する段になって、それに似たことが私たちの間で起きた。と言うのは、言い出しっぺの私自身が、調子に乗って、予定していなかった箇所の解説の頁までも快く引き受けることにしたからである。何のことはない、私自身がはめられたことになる。気づくのは遅かったが、そのことを口に出し皆で大笑いした。

 けれども、いよいよ、昨日解説を加えなければならない手紙の一つを読んでいて、私は首をひねるばかりでどうしていいかわからなくなったのだ。それはその御父様が1939年10月18日ロンドンから書かれた手紙の末尾に次のことばが書かれてあったからだ。

目下決算で一ヵ月程夜業しております。勉強できないのが残念ですが、健康でおりますから御安心ください。ドイツからチョイチョイ空襲に来る様ですが、私どもは平穏におります。日本同様物価が上がって参りました。お宅の皆さんによろしくお願いいたします。

 私はこの記事が気になった。日付が一年あとではないのかと思ったのである(手紙の日付は末尾に記されているから確かなのだが、何年のものかは消印のある封筒表で判断できるが、何しろ70数年経ちそれも紛失している場合が多いからである)。確かに1939年には第二次大戦は始まっているが、それはドイツ軍のポーランド侵攻であり、まだイギリス・ロンドンに対するドイツ軍の空爆は翌年1940年8月にならないと始まらないと物の本で知っていたからである。だから悩んだ。その女性の方にその旨電話で話したら、「あら、それはおかしいですね。でも『チョイチョイ空襲に来るです』と書いてあるのだから、そう思ったんじゃないですか」と軽くあしらわれた。なるほど、私のような第三者は教えられた史実を重んじるのに対し、この人は娘だから父の言葉を素直に信じて、そういうように読み取るんだ、と史実と違うとわめいていた自分が愚かしく思えたが、心の底ではまだ納得できなかった。

 それからしばらくしてその女性から明るい声で電話があった。もう一人の年配の男性に早速電話したら「それは偵察飛行に来たんじゃない、そうなのだよ。だから矛盾しないよ。」と答えがあったと言う。「なるほど、そうか、偵察飛行ね」と、さすが年配者はちがうという思いで電話のこちらの私と向こうの彼女と二人で大いに笑った。当然電話口にはいないその年配の男性も、私たちの語らいを聞いておられたら、またしても笑われたことであろう。私は今、この手紙が書かれた時の戦況説明をどのように書いたものか首をひねって思案中である。でも峠は越した。

 これからも主イエス様にあって自由闊達な三人でありたい。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18・19〜20)

2014年10月23日木曜日

「静寂」 藤本正高

ドイツ・フィリンゲンの教会の門扉(2010.10)
おお主よ、
願わくは私自身にも貴紳にも
見知らぬ人と私をなし給う勿れ、
私の最高の愛を等閑(なおざり)にする、
幾多の思想の中に私はあれば。

肉と感覚の世界より私を呼び出し給え、
いと高き御言葉は私をそれらの世界より引き離し得、
私は聖なる御声に従いて、
凡ての劣れるものより逃れん。

地を凡ての感覚と共に退かしめよ、
喧噪と虚構を去らしめよ、
心の秘かなる静寂の中にある、
私の天国、
私はそこに神を見出す。

 上は二百余年前、カール・ハインリッヒ・ポカッキーの歌える言葉であるが、又現代の我らの祈りでもある。騒然たる世にありて、我らはこの静寂を求めて已まない。
 真の静寂は深山の奥にない。幽谷の中にない。神を信ずる者の心の中にある。
 キリストは、漁夫達さえも恐れ戦く嵐の中で、静かに眠り給うた。父なる神に対する全き信頼の故に。
 全世界は嘗てなき嵐の中にある。地は揺ぎ 、天空は暗い。嵐に吹き廻されて右往左往する人々の絶望的な叫びは四方より聞こえる。救いは何処より来るや。光明は何処にありや。
 救いは天地を創造し給える神より来る。光明は神を信ずる者の静寂なる心に臨む。不安なる世に平安を有(も)ち、嵐の中に静寂を保持し得る者は幸いである。

(上掲は昭和15(1940)年 9月の『聖約』雑誌30号に載せられた主幹藤本正高氏の文章である。当時三井物産ロンドン支店から上海支店に転勤していた小林儀八郎さんはこの冊子をふくむ三号(29号から31号)を日本にいる婚約者に頼んで日本の職場でかつて一緒だった同僚に送ってもらおうとした。ロンドン支店におられた時、第二次世界大戦はすでに始まり、その喧噪と不安に満ちた世界の現出を前に書かれた彼のロンドン便りはいずれかの冊子に掲載された(と思う)。それを読んでもらおうとされたのだ。残念ながら今では散逸してしまっていてその文章を読むことができない。しかしその雑誌の香りを知るにふさわしい一文が藤本正高著作集第5巻の272頁に掲載されていたので転載させていただいた。儀八郎さんはこのようにして仕事の激務の合間にも福音を友に伝えようとしておられたのだ。イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。マタイ8・23〜24

2014年10月16日木曜日

家庭集会前夜の「夢」

昨日の引用聖句 2コリント13・11(文語訳)
夢の話とはもともとたわいない話にちがいない。そんな話につき合っていただくのは誠に申しわけないが、教会とはどんなところかを考えるのにはいい材料になるのではないかと思い、敢えて書いてみることにする。

家庭集会当日(10/15)の朝であるが、明け方、変な夢を見た。何か教会の会議らしいが、私は副議長のような形で参加している。だのに私が発言する。隣には牧師がいるようだ。恐らく彼が議長なのではないだろうか。しかし私の発言は教会を批判する内容だったように思う。それをにこやかに聞いているというのも不思議なのだが、その牧師が私の発言を怒っていなかったのは確かだ。

ところが、その私の発言に勢いを得たのか、会場にいる二人の男性の方がやはり教会を批判する発言をする。会場内にも同調の様子がうかがえる。その瞬間、私は自分は教会員でないのに、厚かましくもその場に連なって発言していることの矛盾に気づき、隠れるようにこそこそ、その場から姿を消す。ところが、私によくぞ言ってくれたとばかり二人の女性が後をついて来た。私はその女性たちに、「実は自分があの場を退席したのは、教会員でないのに発言していたことに気づいたからである」と言った。女性たちは驚くと同時に、それでは私たちとは関係ないと言わんばかりに、私から離れ去って行った。私は一人ぼっちになった。そこで目が覚めた。

余りにも突拍子もない夢に違いないが、牧師は当然のこと二人の男性も二人の女性も私がはっきり名指しできるいずれも、20数年前で一緒に集っていた教会員の方々だった。しかもその内の男性のお一人の方は昨年か一昨年か先に天に召された方である。目ざめた私は床の中で、今しがた見た夢を考えるともなく考えた。教会には信仰12か条というのがあったっけ、その8条、9条にそれぞれ真の教会と地方教会の説明があったなあー。目に見えない教会が真の教会で、目に見える教会が地方教会であるというのがその眼目であったぞ、と。

以下はその夢から目ざめて引き出した私の「教会」に関する結論である。聖書にはイエス様を信ずる者はキリストのからだである教会の一人一人であり、その教会には人間がこしらえた会員制度が入る余地はない。それをいつの間にか牧師制度(すなわち一種の階層制度)が成立してこのような会員制度を土台として教会理論が形成されたのである。私が夢の中で自分は教会員でないからと自覚してその場を離れた行為は、そもそも主イエス様の導かれる教会とは何らの関係ない行動だった。神の前に行動するとはそのような人間の思惑を越えたものであるはずだからである。とすると、制度教会が、主の囲い場である信徒の群れに勝手に縄を張ってイエス様ならぬ、人が支配するために編み出されたのがあの教会理論であったのではなかったのかと合点したのである。

久しぶりに多くの人が来られる、冬瓜も!
でも、そもそもこんな複雑な夢を見たのは何故なのかわからなかった。しかし、その内ハッと思い当たることがあった。実はお世話になったかつての職場の先輩の奥様が77歳で亡くなられた。日曜日その方から受けた電話で知った。先輩とは40年ぶりにお電話で話すことになったが、その話が奥様の逝去であっただけに余計驚かされた。奥様は私に初めて分厚い聖書を貸して下さり、教会に連れて行って下さった方であった。カトリックの信仰を持っておられたが、その当時先輩は信仰を持っておられなかった。ところが何年か前、先輩もとうとう奥様と同じ信仰を持たれたと風の便りに聞いていた。(http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2011/10/blog-post_20.html)

遠いが、お世話になった方なので、思い切って月曜日台風19号接近の悪天候のなか、お通夜に出かけた。会葬者は大変多く、立ったままの参列になった。オルガンの前奏があり何曲か賛美歌が演奏された。その中で故人の略歴が紹介され、スライドを通して奥様の生前の様々なボランテア活動が次々と紹介されて、ご主人である先輩のご挨拶があった。妻の一生は「上を見ては天に恥じず、下を見ては地に恥じず」であり、いつでも家庭は憩いの場であったと言われた。私も独身時代にご自宅への招待を受け、食事をともにさせていただいた思い出がたくさんあり、ご主人の言われる通りに、まことに謙虚な方であり、人に仕える方だと思い、ああこれがキリスト者なのかと思ったことがある。ご挨拶のあと、ご家族親族を先頭に会葬者により延々と焼香があった。お坊さんはいず、もちろん読経もなかった。かといって、カトリックの葬儀でもなかった。

お通夜の後、その方に弔問の意をあらわしながら、その辺の事情を聞くともなく聞いてみたら、「カトリックは階層があるから、脱会したのだ」と言われ、階層があると判断した理由として「司祭、助祭、神父やそれぞれに応じて祈りの言葉があってちがうのだ、(けしからん)」という意味のことを言われ、私を意識してか、プロテスタントの方がいいと言われた。私は「いや、私はカトリックでもありません、プロテスタントでもありません、無宗教です」と申し上げたところ、その方も「俺も無宗教だ(だから、坊さんにも頼まなかった、神父にも頼まなかった )」と言われた(ただ、そう言いながら焼香の場は残された、皆さんの弔意を受けるスタイルに気を遣われたのであろう、私自身は理由を言って焼香は遠慮させていただいたが・・・)。随分お世話になった方でこの方の方に足を向けては寝られない間柄だったが、いつの間にか40数年の年月を経て言葉上の一致を見た。

私が見た夢はひょっとするとこのような経験が深層心理にしまいこまれていて、一気に家庭集会を前に奔出したものではないかと思う。夢とはまか不思議なものである。それはともかく、今後一人になられた先輩に主イエス様を信ずる者はそれだけで無条件にキリストのからだとしての教会に加えられているのだという聖書の示す真理をともに味わい、心ゆくまで語り合いたいと、今思わされている。

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ2・20〜22)

2014年10月10日金曜日

比類なき導き手である主(下)

夕空に 父母夫 想う人 三井文庫を 我と歩めり  2014.10.7
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。そしてわたしはそれに反対しません。

これはまことに厳しく、辛いことですけれど、あなたが破産してほんとうに自分自身に絶望するためには、どうしても必要なことです。ここで注意していただきたいことは、いろいろな人格の順番、あるいは順序ですね。ここの聖句によると、「悪魔」、わたし・すなわち「イエス様」、そしてあなた・すなわち「シモン・ペテロ」およびあなたの兄弟たち。こういう順番となっています。

主は、ペテロに、ペテロを通して、彼の兄弟たちを強めようと思われました。結局、ペテロを用いられる器として用いたかったのです。けれども、そのためにはペテロは砕かれることがどうしても必要でした。そのために、悪魔がペテロを攻撃することになるのですが、けれどもその時でも主は絶えずペテロのために祈って下さいました。したがって、サタンは自分がしたいことを何でもするということはできません。私たちは完全に主の御手の中にいるのであり、それは永遠の安全を意味しています。それですから、主は悪魔とペテロの間にお立ちになられたのです。

ペテロはほんとうにすべて失敗してしまいました。彼は最後の土壇場に立たされていました。そこにはもはや一条の希望の光も射し込まず、すべての望みが消え失せた、全く絶望的な状態が支配しました。しかし、この訓練は「偶然」ではなかった。どうしても必要でした。ペテロはもはや自分の力に依り頼むことができなくなりました。そこから初めて主はペテロをお用いになることが出来るようになりました。その良い例が、もちろんみなさんご存知です。五旬節です。その時、ペテロは、ペテロを通して、三千人以上の人々が福音を聞いただけでなく、導かれ救われたのです。

もう一つの実例はパウロなのではないでしょうか。パウロもペテロと同じように深みを通って行きました。すなわち、三日間暗闇の中に生きたのです。そのことをあとになって、パウロは次のように証したのです。ちょっと見てみましょうか。コリント第二の手紙の3章になります。318頁です。コリント第二の手紙3章5節、6節。

何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。(と、パウロは正直に告白したのです。)神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(と、書いたのですね)

私たちはみな実を結ぶ秘訣を知っています。すなわち、自分自身を否定し、自分に対して死ぬことです。有名なヨハネ伝12章の24節、みなさん暗記していることばだと思いますけれど、引用します。ヨハネ伝12章の24節。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

どこにも多くの重荷に喘いでいる人、いかなる逃れ道をも見出せず、絶望的な状態になっている人がいます。 どうして私はこんなにたくさんの困難や問題を経験しなければならないなのか、どうして私は失敗してしまうなのでしょうか。恐らく、それはまだ救いの確信を持たず、イエス様こそ私のもの、かけがえの無いものと言うことができないからではないでしょうか。もしかすると、それはあなたの救い主があなたをご自分に似た者に造り変えようとしておられるからではないでしょうか。

たいせつなのは救われることだけではなく、主をよりよく知ることです、きよめられることです。あるいは、それはあなたが今まで主を利用しようとしていたかもしれない。けれども、今や主があなたを主の御手の中で御自身の器として用いたいと思っておられるので(はないで)しょうか。

もう一ヵ所、旧約聖書から読みます。申命記、旧約聖書の292頁になります。292頁です。申命記の8章15節です。

燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ(る、主とあります)

道を塞ぐ岩、すなわち障碍物から、あるいは理解できない困難や、私たちが甘受しなければならない心痛、すなわち心の痛み、これらのものから主は水を湧かせようとしておられます。このような経験を通して私たちは主の身許に行くのであり、このような経験を通して私たちは祝福され得るために祝されまたいのちを与えられるものです。生ける水は川となって我らより出ずるべし、と書いています。

旧約時代に主はご自分の民に向かって次のように言わなければならなかったのです。今度はエレミヤ記の二章、1137頁になりますが、2章の13節

わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

もう一ヵ所、同じくエレミヤ記の17章13節を見ると次のように書いてあります。

イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」

わが民!わが民は二つの罪を犯す。一つは湧き水の泉であるわたしを捨てたこと。第二は水をためることの出来ないこわれた水溜を自分たちのために掘ったと。このように主は悔い改めて立ち帰ることを呼ばわれました。

イエス様を知らない人々は悔い改めて主の身許に立ち帰らなければなりません。救われるためです。イエス様を知るようになった人々は、主のうちにとどまるため、また用いられる道具となるために悔い改めて立ち帰らなければなりません。イエス様のうちにとどまる者だけが、主と結びついているのであり、このいのちの泉の通り良き管となることによってイエス様は御自身をあらわすことがお出来になるのです。

今のこの時の試練はまさに死後の世界に至るための準備期間のものに他ならない。主は何物も御手から失いません。主はとこしえにすべてを支配なさるお方です。暗やみの夜にも困難な涙の時にも、主の御手は私たちを守って下さいます。失望落胆した心も慰められ、喜ぶことができます。なぜならば、主はとこしえに主であられるからです。そして、主は決して過ちを犯しません。私たちが理解できないことがたくさんあるとしても、主は我々にとって最も益となることを考えていて下さるのです。

最後にもう二ヵ所ほど読んで終わります。ロマ書8章の18節です。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

すばらしいパウロの告白ですね。もう一ヵ所、今度はコリント第二の手紙4章、319頁になります。コリント第二の手紙4章の8節から10節までお読みいたします。319頁。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

16節
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

もう一ヵ所、ハバクク書3章。多くの人々の大好きなことばの一つになっています。1411頁です。3章の17節から19節までお読みいたします。

そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。(結局、こんなことが全部私の身にふりかかってくるのだ、もう大変だよ、ハバククはそう思わなかったネ。18節。)しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

毎日の戦いの中でこの断固たる態度をとることができれば、「主は生きておられる、主の御臨在はもう十分です」という態度を取ることができるようになります。

2014年10月9日木曜日

比類なき導き手である主(中)

台風18号接近前夜の広島三渓園  2014.10.4
多くの場合、人生の途上には恐ろしくたくさんの困難が横たわっています。けれども、主はつねに一つの目的を持っておられます。すなわち我々人間をゼロの点にまで低くすること、あるいは破産させること、これが主の取られる方法であり、その限りにおいて、すべての者は自分自身の助けになるものを失い、心から悔い改めることにより、また、主を信ずることにより、主なる神のみもとに行くことが可能となるのです。

なぜか、どうしてか、何のためか、と考えると、今見てきたように、支配したもう主は罪人が救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。主が人間に正しい理解と悔い改めを得させるために、確かに多くの事柄を失敗するがままにさせておかれることを聖書を通して知ることができます。

なぜか、何のためかについて考えると、今話したように支配したもう主は罪人が救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられる。二番目の答えは支配したもう主は信ずる者が、もうすでに救われた人々が、変えられるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせているのです。

しかし、未信者だけでなく、信ずる者もまたいわゆる運命のなすわざを経験するのです。信ずる者もまた同じように失望落胆し、なぜこんなことが起こるのか、どうしても理解することができない場合に遭遇いたします。なぜ主は信ずる者が厳しい試練に会うことを許されるのでしょうか。それは彼らの教育のためです。彼らのきよめのためです。また彼らは主の御姿に変えられるためです。

それを証明するために聖書からちょっと二ヵ所ばかり見てみましょうか。ロマ書8章、前に読みました箇所、8章28節、29節。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて(大部分じゃない)のことを働かせて益として(損ではない)くださることを、私たちは知っています。

パウロ、当時のローマに住んでいる兄弟姉妹はこの動かされない確信を持っていたのです。「私たちは確信する。」

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

我々の人生の途上に横たわっているものすべて、また我々の人生の中に入り込んで来るものすべては主によって用いられており、したがって無価値なもの、無目的なものはひとつもない。たいせつなことは私たちが新しく造り変えられること、主イエス様に似た者となることなのではないでしょうか。我々の人生の中に「偶然」というものはひとつもない。すべての背後に主が立っておられます。もちろん目的を持って導いて下さるのです。「すべてが益となる」。このことを私たちはつねに新たに毎日覚えるべきなのではないでしょうか。

善きことや、最も善きことは、私たちが造り変えられることです。「造り変えられること」、主の御手によって練られることは確かに痛みを伴うでしょう。すなわちそれは自らが砕かれることなしにはあり得ないことだからです。人はその時失望落胆し、力を失い、自暴自棄に陥りがちです。しかし、このようなことは自分の思い通りにならない時、目先のことしか考えない時に、起こる事柄です。29節ね。

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

主は御子の姿に似た者となるようにあらかじめ定めておられるのです。主が目指しておられるご目的は何とすばらしいものでありましょうか。この目的からつねに目を離さないことは非常にたいせつなのではないでしょうか。

主はご自分に属しておられるものを限りなく愛してくださるから、まさにそのために私たちを懲らしめ教育なさるのです。主の教育は私たちが主のきよさにあずかるように、御自身の身許に引き寄せたく思っておられることです。我々の主は完全であり、主の導きもまた完全です。恐らく私たちはすべてを理解することはできない、挫折してしまう危険に直面し、また自分自身を同情してしまうというような場合もあるなのではないでしょうか。

どうして私はこんなことを経験しなければならないのでしょうか。どうして、次から次へとこんなことが私に起こるのでしょうか。どうして私はこんなにたくさんの困難や理解できないことを経験しなければならないのでしょうか。

すべての懲らしめはその時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になるとこれによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

「後になるとわかる。」ここでたいせつなことはその時は一時的に悲しく思われるものですけれど、後になるとそれが結果的に幸いになる、ということです。

次に私たちは次の事柄を覚えましょう。すなわち私たちは決して主のために実験用モルモットのようなものではない。主がつねに最善のみを考えておられる最愛の子であるということです。たとえ実際にすべてのことが失敗したとしても、私たちは主によって愛されているということを知ることができます。まさに主の試練やこらしめこそ、主の愛の証拠です。私たちは今そのことを理解することができなくても、しかし後になるとそのことを主に感謝し礼拝するようになるに違いない。一番長い詩篇の中から一ヵ所読みます。詩篇119篇、945頁、ダビデの告白です。119篇の67節です。

苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

結局ダビデは、苦しんだのは良かった、必要だった、最善だった、と思うようになりました。

なぜか、あるいは何のためかという問いについて今考えて参りました。前に言いましたように答えは三つです。第一番目、支配したもう主はまず罪人が救われるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるのです。二番目、支配したもう主は信ずる者が変えられるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにさせておられます。三番目の答えは支配したもう主は救われた者がほんとうに主に仕える者として、用いられるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにさせておられます。

多くの信者は実を結ばない木のようなものです。主は彼らを用いることがおできになりません。その原因はいったい何なのでしょうか。彼らは主なしでも何とかやれると考えているからです。もちろん、これは知らず知らずやれると考えているのですけれど、彼らは自分自身の力と自分自身の知恵に依り頼んでいます。そうすると祝福がないはずです。確かに多くの信ずる者は主のために何かをやりたい、主のために一生懸命に何かをやりたいと思い、またこのことやあのことをしたいと主に願ったりするのですけれど、結局彼らはこのことやあのことを自分がしたいため主を利用しようとしてしまうのです。

けれども、実際は主が、主ご自身が人間をお用いになりたいと思っておられます。ご自分の器として信ずる者を用いたく思っておられるのです。永遠に残る実を結ぶ奉仕は主のために我々の努力じゃなくて、私たちを通して主ご自身がなさる御業でなければなりません。これこそ多くのものが我々に逆らっているように思われたり、主が我々を厳しく取り扱われなければならなかったり、私たちが砕かれなければならないことの原因です。

二つの例を考えてみましょうか。第一番目、ペテロ。自信と独立心が、このペテロの特徴でした。彼は自分自身の能力に間違った自信を持っていました。ちょっと見てみましょうか。ルカ伝22章、149頁になります。ルカ伝22章31節。

シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

2014年10月8日水曜日

比類なき導き手である主(上)

オペ終わり 友のはらから 安堵して 眼下見下ろす 台風一過   2014.10.6
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8・28〜29)

人間は確かに誰でも色々な問題、悩みや、苦しみに出会うものです。そして多くの場合そのような問題に直面したとき、私たちはいかなる答えをも見出すことができません。何と多くの人々は山のような問題の前になす術を知らないで悩んでいるのではないでしょうか。けれども、主を知る者はほんとうに幸せです。心配しなくても良い、思い煩わなくても良い。何でも出来るお方にすべてをゆだねることができるからです。確かに、しばしば色々な状況の前になすべき術をまったく知らない。どうしたらいいかわからない。

これは昔のヤコブの経験でした。一ヵ所読みます。創世記42章の36節をお読みいたします。(旧約聖書の)72頁です。

父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

心の痛みの叫びでした。彼のそれまでの生涯においては自分自身の意志や自分自身の力にたよって行なったことが確かにたくさんありました。彼は長い間、ずるがしこさ、また卑劣さをもって、ただ自分、自分の利益ばかりを考えた男でした。けれども、そのような人を欺く者が欺かれました。主なる神は罪を見過ごしにされない方です。これはヤコブが学ばなければならなかった、確かに厳しい教訓でした。

「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」すなわち、言い換えれば、すべてのものが私に反対している、もうがっかり。ヤコブの場合のようにすべてが失敗に終わりそのように思えるとき、いったい何がなすべきでありましょうか。いかなる態度が取られるべきなのでしょうか。

先ず最初に私たちが注意すべきことは、すべてのことが失敗に終わるということは、ただそのように見えるにちがいないということ。ヤコブの場合もそうでした。なぜならば、ヨセフは確かに今はいないけれど、いつか必ず会える。シメオンもまた確かに今いない。けれど必ずいつかまた会うようになる。

我々は人間的な見方をする場合、多くのものを正しく見ることができません。次のように言うでしょう。すべてのものが私に反対している。すべてのものが失敗に終わるでしょう。けれどもほんとうはその反対が真実です。すなわちこれらの事柄は我々に反対しているのじゃなくて、我々のためにある、ということです。けれども、そのことは私たちは今はそのようなものとして認識することができないような性質のものですから、隠された祝福であるとでも言えます。

なぜ私はこんなことを経験しなければならないのでしょうか。なぜこんなことが私にふりかかかってくるのでしょう。このように苦しみながら、悩みながら、いくら自問(自答)していても、何の解決も見出せないような事柄が実際には数え切れないほどたくさんあります。

そこで次になぜか、あるいは何のためか、という質問について、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。答えは三つです。第一番目、支配したもう主は罪人が救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれる、ということです。主のせいです。二番目、支配したもう主は信ずる者が、もうすでに救われた人々が変えられるために、結局主をよりよく知るためにそれらの多くの事柄が起こるがままにさせておられるということです。そして三番目、支配したもう主は、救われた者がほんとうに主に仕える者として用いられるために、主の御手の中で用いられる器となるために、それらの多くの出来事を起こるがままにほっておかれる。

なぜか、どうしてか、何のためかと考えると、今話したように、言えることは支配したもう主は救われていない人々は救われるために、確かに多くの出来事を起こるがままにさせておられる、ということです。大切なことは人間が真理の認識にいたること、すなわちイエス様に出会うこと、こそです。イエス様に出会わなければすべてはもう意味のないことなのではないでしょうか。

ですから、次のように言えます。人間は救われ得る前にひとたび失われた状態にならなければなりません。すなわち人間は主なる神が、人間を救って下さる前にまず、自分の失われた状態を認めなければならないのです。物質的なものが満ちあふれ、目に見えるものにがんじがらめとなってしまっているため、永遠のものや生ける主について深く考える時間がない。このことが現代の特徴なのではないでしょうか。

多くの人は救い主を持つ必要性についてめくらですけれど、例えばそのことを認めざるを得なくなったとしても依然として逃げようとするのです。その方々は静かになって人生の意義を考えたり、死後の世界を深く考えたりすることをしたがらないのです。このことこそ主は多くの不愉快なこと、困難なことを理解することができないことを、我々の上に来らせることの理由です。このような主の導きの目的は御自身のもとに引き寄せること、また赦しと人生の内容を与えて下さることに他なりません。

聖書の中からちょっと一つの実例を見てみましょうか。すなわち、放蕩息子。という人は、自信に満ちて親の家を去りました。もちろん意識して彼は自分が選んだ道へ行ったのです。彼は何ものからも束縛されず、自由に自分の人生を楽しもうと思いました。自分自身の道を行きたいと思う者に対しては主は好きなようにさせます。決して強制なさいません。たとえ最初は自分のことが望み通りうまく行くように見えたとしてもやがてすべてのことが失敗に向かう時がやって参ります。

そして、その結果、突然すべてのものが自分に反対しているように思われるのです。お金はまもなく使い果たして、それまでいわゆる友だちと思われた人々からは捨て去られることになってしまいました。すべてのものが失敗してしまったようです。ちょっと見てみましょうか。ルカ伝15章14節からちょっとお読みいたします。(新約聖書の)136頁になります。

何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。どうして大飢饉が起こったかと言いますと主のせいなのです。)それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。(ユダヤ人にとって一番考えられないものです。豚の肉は食べてはいかん。そして豚の世話をするのは面白くなかった。)彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。(ルカ15・14〜16)

けれどこの導きによって、すなわちこの深みへと導かれたことによって、彼はただ単に自分自身に立ち帰っただけじゃなく、そのことによって父の住まいへ戻ることになり、ほんとうに満ち足りた幸いな人生へ入ることができました。

(過日天城山荘で開かれた集いにおいて、日曜日の福音集会でベック兄が語られたメッセージの聞き書きである。)