2015年6月5日金曜日

『色覚異常』(平本勝章著 文芸社)


 私は、この本を今年の四月に知り、これまで三回読み返した。なぜこの本が私をそんなにも魅了するのかうまく説明はできない。しかし、この本の中に登場する一人一人は、大きく言えば、歴史に翻弄されるしかないのだが、その姿に注ぐ作者の愛情のようなものを感ずるからである。

 話は、瀬戸内海に面する山陽の一都市(加古川あたり?)の杉村浩平・夏子夫妻の長女冴子が小学校入学とともに受けた身体検査の結果明らかになった色弱について専門の眼科医に相談に出かけるところから始まる。

 全編は213頁あり、診断、遺伝、事件、治療、異動、新天地、検査、栄転、進路、別離と10の小項目の物語が手ぎわ良く続く。文章全体に誇張はなく、時代描写も正確で、副題の「家族、翻弄の昭和史」の名に恥じない。

 と言っても、私にとってこの本の内容は読めば読むほど、自らに現在進行形の形で悔恨を迫るものである。長女冴子が入学して進級するたびに待ち受けている身体検査によってどれほど心を傷つけられたかが原点になっているが、その原因は心ない教師のことばにあったからである。そのことは三番目の項目「事件」の中で詳細に述べられる。

 年中行事のように毎年繰り返される健康診断の時、一日がかりで体重、身長を始め様々な分野を教師が分担して行なう。私も教師の現役時代、毎年、視力検査に当たっていた。ワイワイガヤガヤと騒ぎがちな生徒を手際良く、時には冗談を交えながら効率よくやらねばならず、割合しんどい仕事であったことを思い出す。(さすがに色弱検査は素人である普通の教師には任せられていなかったが)だから一人一人が持っている体の微妙な点を考慮しなければならないのに、そのことが疎かであった覚えがあるからである。

 色弱検査はこの本によると意外なところにその出発点があるようだ。戦時、優秀な兵士を徴用するために考案されたのが「石原式色覚検査表」であり、それがそのまま学校教育の現場で用いられるようになったからだ。しかも残念ながらこの方式は身体上のハンデを差別として固定化する役割を担った。創案者は「異常者に不適当なのは軍将校をはじめ医師、薬剤師、教師、船舶・鉄道従事者および、その他すべて色をとりあつかう職業」と規定していた(『色覚異常』65頁)。

 このような圧倒的なハンデはもともと父親である浩平が色弱、母親である夏子が保因者であり、遺伝の結果、長女の冴子にまた3歳下の弟の克彦にそのまま受け継がれたものである。一方浩平は色弱が問題にならない鉄鋼メーカーの計数管理者として忠実な仕事を重ね、戦後復興から高度成長経済へと右肩上がりの時代に様々な問題を抱えながらも順調に会社組織の階段を一歩一歩登って行く。妻であり母親である夏子が内助の功を示しながらこの家族を覆う「色弱」にどのように立ち向かって行くのかが、詳細に語られる。異動、新天地、栄転などにそれらのことが二つながら巧みに描かれて行く。

 思いあまった夏子は、ある時治療施設を探すことに成功し、子どもたちを遠く大阪まで汽車に乗り継ぎ熱心に通わす。けれども、それは結局「石原式色覚検査表」をいかに読みとるかの訓練に過ぎず、色弱の子を持つ親の藁をもすがる気持ちを逆手に取って一儲けしようとしたものに過ぎないことが明らかになり、施設が解散するという悲劇が待っていた。しかし、不思議なことに長女冴子はそこで得た「石原式色覚検査表」を読み取る力を身につけ、以後、通知表からは色弱者と書かれず、彼女の進路目標である、「子どもの心を傷つけない教師」の道を目ざすべく一路邁進する。

 しかし、こうした逞しさを持つ冴子の前面に立ちはだかるかのように、色弱検査の方法はアノマロスコープというドイツで開発されたレンズを覗き込むという新方式に変っていた。あえなくも再び大学入学試験の願書を提出する段階で「色弱」と判定され、彼女の教師志望は門前払いされ、やむなく文学部に進路を変えざるを得なくなる。その後の彼女の充実した学生生活、また父親浩平の本社部長職への栄転と息づくばかりの家族の生活の激変ぶりが次々と描かれて行く。そして終幕「別離」が描かれる。この「別離」こそ、成長した冴子を襲う、幼い時に襲った「事件」につぐ二度目の「事件」となる。

 それは同じ大学の先輩との婚約を前提に、自らが打ち明けた「色弱」が、相手の男性の父親から反対され婚約が破綻となる出来事である。「遺伝」という、人にはどうすることもできない問題を抱え、悩みぬく家族の苦悩が再び身に迫ってくる。私はこの小説を通していかなる事態が起ころうとも、人間には深い絆が必要であると作者が何にもまして希求しているように思えてならなかった。そしてその絆に必要なのは人間同士が相手の立場を思いやる想像力をいかに養うしかないのではないかと思った。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4・15〜16)

 ここまで書いて、私はこの不完全な文章による紹介は没にしようと思ったが、念のため著者にそのまま読んでいただくことにした。著者は好意的に受け取って下さり、没にしない方が良いとおっしゃってくださった。一方、私はこの文章を書いた二日後にスポルジョンの「朝ごとに」の文章を読み、ハッとさせられた。それについては稿を新たにして書かせていただきたい。

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