赤レンガ造りの近代化産業遺産「倉松落大口逆除」を前にして |
前回、平本氏の小説『色覚異常』を紹介した。しかし、この小説は副題として「家族、翻弄の昭和史」と銘打っている。確かに、全編を通して描かれているのは、遺伝により、様々な場面で不利益を被らなければならない運命に対して、個人(長女冴子)と家族(杉村浩平・夏子夫妻、弟克彦)がいかに抗って行くかの姿である。それは余りにも痛々しく読む者の心を打たずにはおかない。
それにしても作者が「翻弄の昭和史」と言わざるを得ない、この「翻弄」をもたらしたそもそもの元凶は何なのか。この小説の主題の一つでもある、日本人の間にある、愚かとも言うべき、謂われなき差別感情(それは昭和史で終り、もはや平成の御代には妥当しないということかも知れないが・・・)や昨今の安保法制をめぐる政治状況を思いながら、私は考えるともなく考えていた。そうした時に以下のスポルジョンの文章(6月7日 松代幸太郎訳)に出会った。
主を愛する者よ、悪を憎め。(詩篇97・10 英訳)
あなたは、悪がいかなる害をあなたに与えてきたかを考えるならば、悪を憎むべき十分な理由を持っている。ああ、なんという災いの世界を、罪があなたの心に持ち込んだことか。罪はあなたが救い主の美を見ることができないようにあなたを盲目にし、あがない主の招きを聞くことができないように、あなたをみみしいにする。
罪はあなたの足を死の道に向けさせ、あなたの心の泉に毒を流し込む。それはあなたの心を腐敗させ、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ17・9)と評せられるまでにした。
ああ、神の恵みによる御干渉の前に、悪がほしいままにあなたを翻弄したならば、一体あなたはどうなっていたことか。あなたは他の人のように怒りの子であり、多くの人々と共に悪に走っていた。私たちのすべてはそうであった。しかし、パウロは私たちに告げている。「あなたがたは主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われきよめられ、義とされたのである」(1コリント6・11)と。
私たちが過去を顧み、悪のなした惨害を思うならば、悪を憎む理由は十分にある。悪の与えた害毒はこのようにひどかった。ゆえにもし全能の愛が干渉し、私たちをあがない出されなければ、当然魂は滅んでいたであろう。それゆえ、おお主にある友よ、苦悩を欲しないならば「悪を憎め。」
以上が私がハッとさせられた文章である。人々が我が身可愛さの余りに、様々な理由をつけて、「愛」「真実」よりも自己保身を優先させる(冴子の求婚を父親の意見を重視して断念することになる順一の論理にその一端を覚えた)。その結果、悪が勝ち誇る。もちろん、私たちは決してそのような人々を指弾できる立場にはない。立場が変われば私たちもそうなる恐れがあるからだ。そこに目を向けるとき、思わず「翻弄」ということばが出て来るのではなかろうか。現在、日本の政治、経済、社会の各分野で「悪」は猛威を振るっている。上は総理大臣から、下はいたいけな幼子に至るまでその例外なしとしない。
しかし、主イエスの愛はその人が悪に「翻弄」されている様を、見るに忍びず、自らを十字架に釘づけられた犠牲の愛である。そこにこそ唯一の希望がある。スポルジョンは続いて次のように言っている。
もしあなたが真実に救い主を愛し、彼を崇めんとするならば、「悪を憎め。」悪を愛するクリスチャンをいやす道は、主イエスと親しき交わりに入ることのほかにはない。彼と共に住め、そうすれば罪と親しくすることはできまい。
主よ、御言葉によりわが歩みを整え
わがこころを真実ならしめ
罪をして支配せしめず
わが良心をきよく保ちたまえ
小説の最終章は「別離」で締めくられている。振り返って見ると、その最後は象徴的でさえある。
季節は間もなく初夏に向かう。夏子が一年じゅうで、いちばん気にいっている数週間だ。この季節に合わせて、夏子は上京の準備をはじめていた。暫くぶりに会うことになる冴子に、そろそろ親として強引にでも手を差しのべる時機がきているのではないか。浩平ともじっくり話し合った。二、三日滞在して心ゆくまで語り合うことにしよう。
夏子には成算があった。(『色覚異常』213頁)
しかし、作者はあとがきで、「幾度か目の当たりにした不合理な社会の現実を、人権問題と重ね合わせて筆を進めるのは比較的容易ではあったが、それは本来作者の意図するところではない。挫けては這い上がり、たとえ這い上がれなくても生き続けざるを得ない。訪れた束の間の平穏を、むさぼるように確かめあうーそんな家族一人ひとりの起伏にみちた心の連鎖を、生きる側の視点から紡ぎだしてみたかったのである。さて、作品は母親の夏子が上京の準備をはじめるところで終っている。報われない娘の冴子に、何を語りかけどんな提案をしようとしているのか。次のステージが求められそうな予感がしている。」と文章を閉じている。
この夏子の「成算」には当然「翻弄」に終止符を打つ何かが作者の胸中にはあるのだろう。次のステージとは何なのか著者ならぬ一読者としてお聞きしてみたい気がする。しかし、私は人間の悪は昭和、平成を越えて、人が生きている限り絶えないものと考える。私がこのような人倫を越えた神の愛に感嘆するのは、結局その神との絆こそ「冴子」に代表される悩める人間が持つべき確かな「絆」でないかと考えるからである。
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