2015年6月18日木曜日

われもまた百合のごとくあれかし


 今朝、百合が一斉に6つも花を咲かせた。あっと言うまであった。昨日は家庭集会があり、私たち夫婦は秘かに、来れられた皆さんのお目をも喜ばせることができればと期待していた。ところが全く蕾は閉じたままであった。ところが、である。今朝起きてみたら、室内から花が開いているのが見えた。しかし、花弁は室内からは見えない。それぞれ一様に空に向かってその花びらを開けているからだ。外はどんよりした曇り空なのに。

 昨日は余りにも沢山の方々が来られたので、きっと恥ずかしさを感じて、蕾を閉じていたのだろう。しかし、今朝はもう我慢し切れなくなって、曇り空の上にある太陽に向かって花を咲かせたのだ。胸一杯に空気を吸うごとく、全面的に空に向かっている。われらもまた太陽ならぬ主イエス様の前にかくあれかしと思っていたら、スポルジョン氏はまたしても今晩次のようなメッセージを書いていた(『朝ごとに、夕ごとに』松代幸太郎訳6月18日より引用)。

わが妹、わが花嫁よ。わたしはわが園にはいって・・・(雅歌5・1)

 信者の心はキリストの園である。信者の心を、キリストはとうとい血をもって買い、そこにはいられ、それが御自分のものだと主張される。

 園は分離を意味する。それは開放された共有地でも荒野でもなく「へい」か「いけがき」で囲った所である。私たちの願いは、教会とこの世を隔てる「へい」が、さらに広く、さらにがんじょうになることである。クリスチャンが「なあに、これぐらいなら何も悪くない」と言って、できるだけこの世に近づこうとするのは悲しいことである。どの程度までこの世と妥協していいのかと聞く魂の中では、恵みの働きは低調である。

 手を入れぬ荒れ果てた土地に比すれば、園ははるかに美しい。真のクリスチャンは、その生活において、最上の道徳家よりもすぐれているようにつとめなければならない。なぜなら、キリストの花園は、世界で最上の花を咲かすべきであるから。キリストの御いさおしに比すれば、最上の花であっても貧弱である。私たちは、しおれた育ちの悪い花を咲かせてキリストを追い出すようであってはならぬ。最も珍しい、りっぱな、すぐれたゆりとバラは、イエスがわが園と呼びたもう所で開かねばならない。

 The garden is a place of growth. (※)聖徒は発育不全であってはならず、つぼみや花で終ってはならぬ。ますます私たちの主なる救い主イエス・キリストの恵みと、主を知る知識に進まなければならない。イエスが農夫であられ、聖霊が天来の露となられるところでは、成長は急速でなければならない。

 園はまた隠退の所である。主は世に対しては御自身を顕現されない。しかし私たちが、自分の魂を主が御自身を顕現される場所として残しておくことを望まれる。おお、クリスチャンがさらに世を離れ、彼らの心をキリストのために、さらに厳重に閉ざしておくことができるように。私たちはしばしば、マルタのように多くの奉仕をしようとして心を乱し、マリヤのごとく、キリストのために心のゆとりを残しておかない。そして、彼の御足もとに座して教えを受けようとはしない。

 主よ、この日、あなたの園をうるおす恵みの雨を降らせたまえ。

(※訳者はこの英文の訳を省かれた。次の文があるので、くどいと思われたのであろうか。でも引用に当たっては簡単な英文であるので補った。)

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