麦秋の上州路 |
サウルの子メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、爪も切らず、ひげもそらず、着物も洗っていなかった。・・・王は彼に言った。「・・・私は決めている。あなたとツィバとで、じ地所を分けなければならない。」メフィボシェテは王に言った。「王さまが無事に王室に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです」(Ⅱサムエル19・24、29〜30)
ダビデは危機を乗り越えて帰ってくる。そう信じたメフィボシェテは、とるべき最も聡明な態度を迷わずにとった。ダビデの災難を悲しむ姿勢を一貫した。その、さながら喪に服したような姿でダビデの帰還を待ち、事実ダビデが帰還してきた日にその姿のままで王を迎えたのも彼の賢明さを示す。
メフィボシェテに先んじてダビデを迎えに出たシムイとツィバの態度(Ⅱ19・16〜20)を、メフィボシェテと比較すると何と卑屈で醜いことよ。
それに対してメフィボシェテの真実と謙遜とは、まさに光っている。
軽率にツィバのざん言を信じてしまったダビデの、まの悪さをごまかすような尋問に対するメフィボシェテの返事は、非の打ちどころがないほどりっぱである。明らかに自分の誤りに気づいたダビデは、しかし以前にツィバに与えた約束もほごにできず(この時点でそういうことをすることは政策的に危険であることを、ダビデは知っていた。彼に身をする寄せてくる者たちに寛大でないと、絶望させる結果、再び騒乱になるからである)、いかにもバツが悪いのを必死に押さえて、まことに公正さを欠く妥協的な判決を下した。
それに対するメフィボシェテの返事が、ダビデにグウの音も出なくさせる。
「王さまが無事に王室に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです」(Ⅱ19・30)。この一言を聞いた時のダビデとツィバの表情を見たいものである。
この世の地位、権力、富、名声、そういったものの空虚さをメフィボシェテは知り抜いていた。世は彼に対し、また彼も世に対して、もはや十字架につけられてしまった(ガラテヤ6・14)というのが、掛け値無しにこの時のメフィボシェテの心境だったろう。といって、すねて世捨て人になったわけでもあるまい。淡々として、神の御旨にすべてをゆだね、神の愛の中に安住し、死んだ犬という肩書きを唯一のものとして余生を生きたであろうと思われる。
歴代誌第一、8・35、9・41を見ると、後日談が書けそうである。メフィボシェテの息子ミカは、その家系を伝える良い息子たちを持ち、サウル家の子孫は由緒正しい家柄として後世に残った。主はメフィボシェテの信仰に対して報いられた。
メフィボシェテの信仰は父ヨナタンの遺産といってよいだろう。ヨナタンこそは〈神の王国〉の本質を正しく理解し、身をもってそれを表明した人だった。すなわちーー
神の王国の王は主ご自身であること。この国の王としてだれが立てられるかはひとえに主の御旨によること。その王国において自分に与えられた役割が何であれ、忠実にその果たして主の栄光を現わすこと。
ヨナタンは右のことを、己れに死に切っていることにより実行した。そして彼の息子もーー。
(『乱世の指導者(サムエル記の人々)』239頁より引用)