2019年6月17日月曜日

Help, Lord.

水田の江州路 画面奥に安土セミナリヨ(6月1日)

主よ、お助けください。(詩篇12:1)

 この祈りはすばらしい。それは短いが適切であり、寸鉄人を殺すの味を持ち、かつ暗示的であるからである。ダビデは忠実な部下が少ないのを嘆き、願いのうちに心を天に向けた。被造物が頼みがいのないのを見て、彼は造り主のもとに走った。彼は明らかに自らの弱きをおぼえた。しかし同時に、真理のために心から自分の力を尽くさんとした。なぜなら自ら何もせずに助けを求むることはあり得ないからである。この短い祈りは単刀直入であり、極めて明確である。ある信者たちの長々しい祈りにはるかにまさる。詩篇記者は熟考せる祈りを携えて一途に神のみもとに行った。彼は何を求め、またどこに求むべきかを知っていた。

 主よ、同じように祝された方法をもって祈ることを教えたまえ。この祈りの用いられる場合は極めて多い。摂理により苦難をうけ、疲れし信者が他のすべての助け手に裏切られた時の祈りとして、これは最も適当である。教理の困難に会う学生は、偉大な教師である聖霊に「主よ、お助けください」と叫んでしばしば助けを得ることがある。内なる戦いにある信仰の戦士が御座に向かって助けを求めるのに、この祈りは模範となる。主のわざに従う働き人は、この祈りにより機に適う恵みを得る。疑いつつ驚きつつ神を探求する罪人も、この力ある願いをなすことができる。事実この祈りは、すべての場合とすべての時、またすべての場所において、貧しい魂の転換点となり得る。私たちが生ける間も死の時にも、苦しみの時また働く時にも、この祈りは私たちに適う。私たちの助けは主の中に見いだされる。それゆえ主に向かって、叫ぶことを怠らないようにしようではないか。

 祈りがイエスを通して誠実に捧げられるならば、必ず応答がある。主の御人格を見るとき、私たちは決してその民を見捨てられないことを確信する。父また夫としての主と私たちの関係は、確実な彼の助けを私たちに保証する。イエスを私たちに与えられたことは、すべてのよき賜物を私たちに与えるとの誓いのしるしである。「恐れてはならない。わたしはあなたを助ける」(イザヤ41:13)との確実な御約束は変わらぬ。

※昨年、私はこの日の朝、孤独であった。目的地に向かう車中でも不安と恐れに襲われていた。そのとき、英文サイトの「朝ごとに」のアプリを開いた。”Help, Lord.”Psalm 12:1というアルファベット文字が飛び込んできた。まさに絶体絶命のピンチに立たされた私にとりまさにうってつけの御言葉であった。ポケット聖書を取り出して詩篇12篇全節を確かめた。ひとつひとつの御言葉は天啓の感さえあった。この日の車中での出来事は忘れられない。(本日の引用は『朝ごとに』1959年版いのちのことば社編集部訳 6月17日からである。)

2019年6月12日水曜日

お登紀さん(続々)二つの脱出劇

ミルトスの 白き花びら たおやかに

あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。(詩篇56:8)

あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10:13)

 以前、このブログで加藤登紀子がよく泣く人だと書いた。そうして、これは私の書き過ぎではないかと思っていた。しかし、それからも私の期待(?)を裏切らず、彼女の涙の記事をいくつか見た。しかし、今夕の涙はこの時、その彼女の涙が値千金の涙でなかったのかと思わされた。今夕は「あなたに捧げる歌」の52回目で、題して「離婚からの脱出」であった。少し長いが、彼女の文章を拝借する。

 離婚という扉に手を置いて、疼(うず)くように愛(いと)しさが溢(あふ)れる日々。獄中結婚から八年、ゼロから自分の手で自分の暮らしを作りたいという彼の決意が、どれほど大切なものか痛いほどわかる。これまでなんとか私がやりくりしてきた今の暮らしは「俺のものではない」と吐き捨てた彼。ならばお互いを解放するしかない。
 答えは見えていた。
 が、なんとか粘った数ヶ月。やっと春が近づいたある日、「会社の若いのが結婚するんで、仲人をたのまれた。引き受けてもいいか?」と、彼が言った。
 「えっ? ということは、離婚は、なしなのね?」
 また、なんの説明もなかったが、重い鎖が外れた、ということらしい。
 嬉(うれ)しかった。もちろん私は、大賛成。
 その結婚式で、彼はこんな事を言った。「今日の花嫁さんは綺麗(きれい)ですね。僕は女房に、こういう結婚式をさせてやれてない、申し訳ないなと思いますね。」隣にいて、涙をこらえるのが大変だった私。変則的に始まった二人の結婚が、こうして少しずつ熟していくのだと、深く受け止めた。
 鴨川での新しい生活を一人で始めた彼の表情は、日に日に明るくなった。やっぱり、太陽いっぱいの自然力は有難(ありがた)い!

 まさに藤本敏夫・加藤登紀子夫妻の離婚からの脱出の一断面の記録である。時は1980年であった。

 私たちにも1981年ちょっとした「脱出劇」の時があった。それは長いトンネルのような重苦しい日々からの脱出であった。四人の幼い子供を抱え、この時、家内はお腹には五人目のこどもをみごもっていた。その春、父は突然認知症を患い、継母を連れて三間しかない私たちの狭い家に転がり込んできた。否が応でも、角突き合わせて共に過ごさざるを得なくなった。

 その時家長として、また一人息子として、かけがえのない父親を面倒見ようと必死だった私に対して、家内は「朝早くから聖書を読み祈っている主人に心も合わせず、かえって逃げ出したくて、子供たちと私だけで別居がしたいと言い張りました」とその当時を振り返って、ある体験記に書いたことがある。そんな危機状態の中で「脱出」が始まった。それはこの日、6月12日に、家内のお腹にいた赤ちゃんが誕生したのだ。それはまさに上から来るプレゼントだった。

 すべての労苦を一瞬にして忘れさせる赤子の誕生は、あれから38年が経ち、年ごとにいつの間にか、その感動が薄れて行ってしまっていた。しかし、その娘に離島に住む上の姉が今朝、誕生祝いをラインで書いて寄越した。それを見て、家内が「おじいさんが来てくれたんだよね。庭の額紫陽花を持ってね、(お産婆さんのところにまでね)」と懐かしそうに語った。するとパリにいる次男が「あれっ、おじいさんが召されたのは、あとだったのだ!」と感想を書き込んだ。一瞬にして私たち夫婦はあの日を走馬灯のように思い出すことができた。そして、ああ、これこそ主なる神様が私たちに上からくださる最大のプレゼント、上からしか来ない脱出のご褒美だと思い至った。

 願わくは、加藤登紀子さんがこのご褒美を望まれるようにと願わずにはいられない。と同時に昨年嫁いで今は私たちの親元から離れた娘に誕生日おめでとうと言いたい。ご主人を大切にね!

2019年6月5日水曜日

再臨の主を待ち望む生活


あなたがたが・・・生けるまことの神に仕えるようになり、・・・イエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めている(1テサロニケ1・9〜10)

 メフィボシェテには、不忠実なしもべがいました。この男は、自分自身の目的を達成するために、王に彼のことについて偽りを語りました。(第二サムエル記)第16章の最初の節は、ツィバの行動についての記録です。彼は、自分の主人の地所を自分のものとするために、ダビデに対する親切を偽り、メフィボシェテの性格をけなしています。彼はダビデをだまし、中傷するために、自分の主人の身体的な弱点を利用しています。何という姿でしょうか。

 しかし、真実が明るみに出されました。誤解されていた者は、完全に潔白が証明されました。ダビデが帰還し、すべての問題が解決し、アブシャロムが場面から消え去ると、ただちに「サウルの子メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、爪も切らず、ひげもそらず、着物を洗っていなかった。」(19・24)

 これが、この忠実なしもべについての御霊の証言です。ダビデが遠くへ行っていた間、メフィボシェテは嘆き悲しんでいました。これは、主がこの地上におられない間、現在、聖徒たちはどうあるべきかの真実な模範です。不在の主との交わりが、クリスチャンの性格に徹底した分離の色彩を与えます。問題は、クリスチャンが何をすべきか、すべきでないかではありません。主の帰りを待っているすべての者がとるべき真実な歩みとは、情愛のこもった人がとるはずのそれです。主イエスのご不在こそが、真実な行動の全き動機なのです。「もしあなたが、キリストとともによみがえらされたのなら、主にあるものを求めなさい。」(コロサイ3・1)霊的な人に尋ねてみてください。あなたは、楽しんでもよいものをどうして控えるのですかと。彼の答えはこれです。主イエスが不在ですから。これが最高の動機です。

 私たちは、私たちの生活を規制する、冷たい無意味な形式主義的規則を必要としません。しかし私たちは、キリストご自身への一層熱烈な愛を必要としています。また私たちは、キリストの早急の帰りを願う、一層生き生きとした願望を必要としています。私たちはメフィボシェテと同様に、すでに神の恵み、尊い恵みを経験しました。私たちは、堕落の深みから引き上げられ、神の民の王たちの中に置かれました。ですから、私たちは主を愛さないでいられるでしょうか。私たちは、主の御顔を見たいと願わないでいられるでしょうか。私たちは、絶えず主の御旨を求めることによって、自分の行動を規制すべきではないでしょうか。もっとメフィボシェテのようになりたいものです。

 しかし、私たちはみな、私たちの憎むべき肉にあまりにも簡単に従い過ぎです。この世のものーー富み、誉れ、娯楽、趣味、教育などーーを、制御せずに楽しむことに走りがちです。そして、私たちがこれらのことを、クリスチャンの名と特権を放棄せずともすることができると空想するから、余計に制御が必要なのです。何と空しい、憎むべきわがままではないでしょうか。わがままはキリストの再臨の日に恥をかきます。 

(『ダビデの生涯とその時代』C.H.マッキントシ著247頁〜249頁より引用。)