2020年4月22日水曜日

人生の最大の苦しい経験(上)


イエスは、目の前でマリヤが泣き伏し、ユダヤ人たちもいっしょに嘆き悲しんでいるのに強く心を動かされ、「ラザロはどこですか」とお聞きになりました。「来て、ごらんください。」イエスの目に涙があふれました。(ヨハネ11:33〜35リビングバイブル訳)

 九月のある朝の四時ごろのことであった。
 たくましそうなひとりの青年が、大西洋沿岸のある町の、人通りのない道路を、ゆっくり歩いていた。
 東の空がはっきりと白みかけてきた。新しい一日が、去ってゆく夜の暗さを押しのけようとしている。しかし、彼はほとんどそれに気づかなかった。彼の心は、もう一つの光とやみとの戦いに、すっかりとらえられていたのである。
 彼はうなだれ、のろのろとした足取りで歩いていた。暗い思いが彼を激しくとらえていた。彼は、新しいもの、そうだ、彼にとっては新しい事柄に、我を忘れたようにぼう然としていた。彼の家は、有名な公園からほど遠くない所にある。そこには小さな美しい小川が静かに流れている。
 彼は、町の貯水池のある緑におおわれた丘へと登って行った。そこからは、はるかにその小川を見おろすことができる。また更に近くには、こずえのしんと静まり返った緑の波が見える。彼はポケットから、小さな、表紙のよごれた本を取り出した。そして、腰をおろして、緑を見、小川をながめ、また、その本を読み、青空を見上げたりした。
 二、三時間前に、一つの生命が、彼のいだいた腕から消え去ってしまったのである。彼は夢中ですがりついた。けれども、彼女の霊は、静かに、ゆっくりと、しかし断固として、消え去って行った。彼は驚きと悲しみのあまり、ぼう然となった。彼女が死ぬなどとということは、夢にも考えられない事であった。彼は、愛の手で堅くすがりついていたが、今は、すがりつくものは何も残されていなかった。彼女はすでに去ってしまったのだ。ただ、貴重な肉体の、息を失った一片が残されただけであった。

 ふたりの心は、かつてなかったほど深く結び合わされていた。しかし、いまや、彼女は去ってしまった。呼び戻すことができないほど遠くに去ってしまったのである。それはあまりに明白な事であった。彼は一見、非常に冷静で、しなければならない事に携わっていた。しかし、心の中ではあえいでいた。まるで呼吸ができないかのように思われた。人生は全く変わってしまった。この世界は全く違った所となってしまった。彼女は去ってしまったのだ。我を忘れたようにぼう然とした状態が、彼の上に重くのしかかっていた。それは感覚を失った状態ではない。それどころか、彼の心は、今まで以上に鋭く、感じやすく、油断のないものとなっていた。
 今、彼はじっとすわっている。彼女は今どこにいるのだろうかという疑問が起こってきた。その肉体の貴重な一片は、優しくたいせつに取り扱われてそこにあった。しかし、彼女はどこにいるのだろうか。そこではない。どこかほかの所なのだ。ではどこなのか。
 その小さな本(小型聖書)は、ヨハネ、愛する老ヨハネによるイエスの物語のところが、自然に開かれたかのように思われた。そして、あの忘れることのできないベタニヤでのできごとの個所(十一章)が、備えて開かれたかのようであった。

(『人は死んだらどうなるか』S.D.ゴードン著山田和明訳9〜11頁より引用。私ならず、多くの人がこの死別の経験をされている事だろう。私のその時は母との死別の18歳の時であった。今から振り返ると、「母の死」は頭をハンマーでなぐられた衝撃だった。しかし、その時、私の手元には小さな本はなかった。『真夜中のブルース』の録音テープを繰り返し繰り返し、一室に閉じこもり、狂ったように流していた。それは西ドイツ映画の「朝な夕なに」の中で演奏された曲であった。そうでもしなければ気持ちがおさまらなかったのだ。https://www.youtube.com/watch?v=gikaziCeS-A

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