2020年4月21日火曜日

いのちの尊さ


エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。(出エジプト12:30)
 
 昨年末から、今日に至るまで、ブログに投稿できなかった。それは三つのできごとが陸続として起きたからである。第一の出来事は昨年の12月30日から始まり、2月3日に終わった出来事。そして第二は2月5日に始まり、2月16日に終わった出来事である。そして第三は言うまでもなく、今日私たちを覆っている「コロナ禍」である。

 未だ解決を見いだせないコロナウイルスの圧倒的な力の前になす術もなく、日々過ごしている。STAY HOME!と要路の貴人は宣っている。しかし、この時は、主なる神様が私たちに心を静かにして、主のみこころを知りなさいと明らかにおっしゃっている時にちがいない。

 第一の出来事は若干40数歳にして二児を残しいのちを亡くされた出来事であった。第二の出来事は逆に95歳の生命を全うされた一人の老婦人の死であった。振り返ってみれば、昨年の12月30日、人工呼吸器に支えられ懸命の蘇生がなされていたICUの病室に招き入れられ、奥様と祈りをともにしていた。今日では人々の全てがお茶の間のテレビを通して熟知するまでに至っている、あの人工呼吸器である。

 これらの出来事を忘れないために、今日からこの間、考えて来たことを少しずつ書き進めることにする。

 冒頭の写真は、筆者の先祖の写真である。いつ、どこで、撮影されたのかわからない写真である。しかし、私はこの写真を見るたびに繰り返し哀しみを覚えるのだ。そこには肝心の主(あるじ)がいないと思うからである。左の少年がこの家の跡取りであるが、その少年の父母が不在であるからである。

 そして、その原因はこの少年の父が1919年4月に28歳で亡くなっているからである。少年3歳の時である。まさにそれは100年前のスペイン風邪がこの家庭を襲った時であった。そして少年が、祖祖母と祖父母、叔母とその養女と一緒に写っている4代にわたる一家の写真である。果たして、私が「哀しみ」と表現するのは私の単なる思い過ごしにすぎないのであろうか。

 同時に冒頭のみことばに関連して次のS.D.ゴードンの『人は死んだらどうなるか』の序文のことばを紹介する。

現在の私たちの時代は、古代エジプト時代に似ているーほとんど「死人のない家がなかった」。時にはそれ以上である。そうした中で、勇敢な者は、日常生活を、忠実に、勇気をもって続けてゆくが、人間の感情的な性質に対する牽引力は強力である。しかし、大多数の人々に対して、質問ー大昔からあった古い質問ーが、夜も昼も迫り続ける。あの人はどこにいるのか。死後のいのちはあるか。あるとすれば、どこにあるのか。それはどのようなものか。この死という頑迷な鉄のさくを越えて、そのいのちを得ることができるだろうか。たとえできるとしても、私たちはそうすべきだろうかーなどと。

 S.D.ゴードンについては以下のブログでも紹介している。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/05/quiet-talks-on-life-after-death.html

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