人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、紅色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです 。(マルコ7・21〜23)
自ら恥じないでこの文字を一つでも読み、または書き得る人があるだろうか。私はペンを執って幾度か躊躇した。昨日はどうしても書けなかったから、ただ22節とのみ言っておいたのである。今ペンを執ってこれらの文字を並べるのは実に自分の心を暴露しているのである。スラスラとこれらの語を並べて平気で居り給うイエスの純白さを思わざるを得ない。と同時にどの一字でも平気で取り扱い得ない自分の汚さを感じて、ただ『イエスよ心に宿りて・・・』と祈る外はない。
祈祷
イエスよ、心に宿りて私を宮となし給え。汚れに染みしこの身を雪よりも白くなし給え。私の罪を洗って雪よりも白くして下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著120頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 青木さんは、マルコ6・56〜7・23までを、4/21〜4/30まで実に10日間かけて霊解を書かれた。今日のところはその掉尾に位置する箇所である。まことにふさわしい終わり方である。さてデーヴィッド ・スミスはその『受肉者耶蘇』上巻最終頁で次のように結論している。なお、7「主の答弁」は理解するのに困難なところが散見されたので、連載ではカットしたが、参考のため、ここに載せることにした。
12「使徒の教育隠密となる (Their instruction henceforth Master's exclusive concerns)」
この事件以来重大な決心を愈々固く定められた。時は迫れるも、十二使徒はなお主の没後その両肩に委ねらるる事業に対して準備は不十分であった。彼らは未だ何らの知識なく、非霊的であった。ゆえにイエスは天国の事情に関して彼らの教育をその専心の事業とせらるる決心をせられた。カペナウムにおけるイエスの事業は終わりを告げた。永年主の在住によって恩寵を被ったこの市を出でで、ただ使徒たちのみと静かに隠退せらるべき個所を求めて、密接な交わりを結びつつ、彼らの知らざる可からざる所を啓示せらるることはなった。
7「主の答弁」
探偵の歩を進めていた主の敵は、その弟子がこの大切な儀式を等閑にするを観察して、これ実にモオゼの律法を犯すのみならず、彼らの眼には一層極悪重過と認むる『昔の人たちの言い伝え』を犯す、言いようなき大罪であると認めた。彼らはイエスに迫って、説明を求めたが、イエスは大胆にも侮蔑の態度を以て答えを与えられた。この凶悪不信不敬虔という罵詈をそのままに彼らの面に擲げ返された。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないのか』〈マルコ7・5〉と彼らは尋ねた。イエスはこれに応じて『あなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって神のことばを空文にしています』〈マルコ7・13など〉と反問せられた。これ実に重大な罪過である。
イエスはユダヤ人の詭弁の驚くべき例証を捕え来たってこれを利用せられたのである。神に対して誓ったことは宗教の習慣上では神聖なものである。これはコルバンすなわち献物であって祭司の手に渡すべきものであった。意地悪い工夫を凝らしてこの敬虔な戒めすら非宗教的な往々不都合な目的のために供せられたのであった。例えば負債者がその償却を拒んだとすると、債権者は『あなたに貸したものはコルバンです』と言うのが常であった。而して債権者はその額の多少を割いて神殿の会計に献げた。故にもし負債者がそれを償却しなければ、これ神のものを盗むの罪に当たるに至るのであった。
これはまだ罪のない行動であったけれども、ここにイエスが引用せらるる、息子がその両親の需用品を供給するに当たって、同じ形成を応用するに至っては言語道断の所業であった。『私からあなたがたのために上げられる物はコルバンになりました』〈マルコ7・11〉と言わば如何とイエスは彼らの語を引用された。これは往々行われた所であって、有司たちは自己の利益の上からむしろこれを奨励したのであった。事が既に人道に背く格別の所業であるのはもちろん、神の名において斯くの如き罪を構うるにおいては実に仮借すべからざるものである。『偽善者たち、イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」』〈マタイ15・7〜9〉と叫ばれた。)